秘蜜夫人 天上の雪肌 第一章 天国食堂と流れ者 ~ 第二章 美貌の罪と罰 (1/5)
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目次
第一章 天国食堂と流れ者
1
一人旅は人生みたいだ――。そんなタイトルの本を本屋で見かけたことがあった。
(確かにそうだよ。こうして遠くへ旅に出たって、失敗ばかりで、ショボい俺の人生、そのままなぞってるようなものだもの……。いや、ちょっと意味が違うかもしれない。あの本はもっと前向きな内容だったけど、まあいいや)聖彦は一人で照れ笑いし、カーステの音量を上げた。
クレージー・ケン・バンドが聖彦の傷ついたハートを、いいんだ、それでいいんだと慰めてくれている。きっと次の町には、めちゃエロくて気のいい女が腰を振ってダンスしながらおまえを待ってるんだぜ、と語りかけてくるようだ。
アバヨ、二
階
堂
町
――。
ほろ苦い想い出しか残らない町へ、別れを告げた。
無理をしているのは自分でも痛いくらいにわかっていた。後ろ髪が引かれる思いだし、今すぐにもUターンしたいところだが、ハンドルをしっかり握り、前だけを見つめた。
市街地を抜けると田園風景がひろがる。水産物の加工場もあちこちに点在する。
そうして二階堂町を出発し、西へ西へと休みも取らず四時間クルマを走らせ続けた。なるべく早く、遠くまで逃げなければという気持ちがどこかにあったのだろう。
蟹
瀬
村
に入っていた。次の目的地、沖
山
町
まではあと残り三十キロ。別に急ぐ旅でもないし、どこかで休憩がてら遅い昼食を取ろうと思った。
途端にお腹がすいてきたし、尿意を催してきた。
高速に乗らず一般道だけをひたすら行くクルマの旅は、気楽にサービスエリアに立ち寄ることが出来ないのが不便だ。しかしその代わりにローカルな食堂で、思いがけない美味や珍味を発見したり、忘れかけていた人情に出会ったりする喜びもあるのだったが。
しばらく走っていると『
天
国
食
堂
』というピンク色のど派手な看板が目に飛び込んできた。
隈
田
聖彦は二十七歳。東京からクルマであてもなく旅に出て、早三ヵ月半が過ぎている。
これといって特徴のない
面
長
の平均的な顔立ち。
無
精
髭
は、週に一度だけ剃ることにしている。髪もかなり伸びて、何やら街角の怪しい手相占い師みたいだが、これでもれっきとしたアパレルメーカー『クンデュラ』の社員なのである。
クンデュラ社はスウェーデンの企業と日本の商社とが立ち上げた合弁会社で、三十代から四十代の自立した女性を対象に、オフィスとプライベートで併用出来るファッション性の高い服を提供している。
聖彦はデザイン専門学校を卒業して入社し、商品企画を担当する。
現在は半年間のサバティカル休暇中だ。
福利厚生の進んでいるスウェーデン系企業らしく、クンデュラでは五年間勤続し、実績を残したとみなされる社員に、サバティカル休暇の資格が与えられるのだ。
人数は半年につき一名。休暇中の半年間、給料は八割が支給されるが、ただし書類と面接による審査がある。希望者は何をやりたいのかレポート提出を義務づけられる。そこではテーマの独創性が問われるし、その経験が将来、会社にとって有用であるかどうかも大切な判断材料となる。
聖彦は八倍の難関を見事にパスした。
テーマは旅。目的地を決めず、クルマで、あくまで高速道路は使わずに一般道路を使ってのんびり国内旅行する。
そして各地の風景や、そこで暮らす女性たちの姿を目に焼き付け、水彩画でスケッチを残す。最低三ヵ所で小さな個展を開くつもりだし、必ず恋人も見つける――。
旅を終える半年後、クンデュラに今までなかった斬新なデザインとコンセプトの婦人服を、きっと自分はもたらすことが出来るはずだとレポートの最後を結んだ。
そんな虫のいい話が通るはずがないと周囲の誰しもが言った。サバティカル選考には、商品企画部から聖彦より仕事の出来る女性も応募しており、こちらは海外ボランティア活動を行ないながら、辺境から都会的デザインを見つめ直すという真摯なもので、大いに有力視されていたのだ。
なぜ自分が合格したのか、聖彦自身にもよくわからなかった。ある日同僚としこたま飲んで、突然サバティカル休暇申請を思いついた。あきれる同僚たちを尻目にあれやこれや勝手にぶち上げ、酔って帰った勢いで一気にレポートを書き上げたのだから。
「サバティカル休暇で、自分の彼女を見つけたいと臆面もなく言ってのけた奴はおまえが初めてだ。おまえが旅行中どんな絵を描くかより、そっちの方がアピールしたかもな」
親しい上司は笑いながらそう言った。ただし、もし恋人が出来なかった場合、休暇中に支払った給料の何割かをペナルティとして科せられるぞ、と聖彦をおどかすのも忘れなかった。
まさかとは思うが、現にペナルティを支払わされた例が過去にあるのだという上司の言葉を思い出すにつけ、聖彦は心穏やかではいられない。
というのも休暇は残り二ヶ月半となり、いまだ恋人を見つけられないでいるのだ。
八月初旬に旅をスタートさせ、現在、中部地方をまわっている。日本海沿いに走ったり、時には山間部に入ったりしながら、何となく中国地方から九州をめざしている。
決して出会いがないわけではない。今朝までいた二階堂町では、カフェを経営する素晴らしい女性と出会った。
その美人オーナー、高
崎
郁
実
は聖彦の水彩画を気に入り、カフェで個展まで開いてくれた。独身で、独特の雰囲気があり、彼女の作る料理も素晴らしかった。
深夜まで一緒に飲んで、東京のカフェの話やこれまでの人生経験など話し込んだこともあり、大いに脈がありそうだった。これこそサバティカル休暇の甲斐があったと独りで盛り上がったのだが、交際を申し込んだところあっさり振られてしまったのだ。傷心の聖彦は滞在を予定より早めに切り上げ、旅立ったのである。
2
沖山町へ向かう途中の蟹瀬村で立ち寄った食堂『天国食堂』は、少し変わった雰囲気の店だった。
外見はどこにでもある田舎の食堂の造りだし、メニューも代わりばえしない。だが昼下がりというのに、酒を飲んでいる人間が多く、ここは居酒屋かと錯覚しそうなほどだ。
みんな、どうやって帰るのだろう。まさかクルマではないよな。つい聖彦は余計な心配をしてしまうが、よく観察すると二人連れの片方は運転者らしく、たいていノンアルコール・ビールを飲んでいるのでほっとする。
このあたりは酒好きが多いらしい――。
その理由の一端はすぐに推測がついた。こういう食堂ではまずどこでもエレキバンを首に貼ったオバチャンが注文を聞きに来るが、ここの店員はやたら若い。二十代とおぼしき女がなんと三人もいる(店が広いせいもあるだろうが)。
中でも一番若くて可愛い娘が、聖彦のテーブルに来た。
しかしこれが無愛想のきわみで、にこりともしない。
「何にします?」
近くで見ると化粧がハンパではない。険を含んだその目つきはヤンキーっぽさが漂う。
「え、ええと……カツカレーにしようかな」
「飲み物はビール? 銘柄はサッポロにキリン……」
「い、いや、僕、クルマだからさ。コーラにしようっと」
すると店員はマスカラをこってりつけた
睫
毛
をしばたかせ、天然記念物でも目にしたように聖彦を見つめ、「コーラ?」と聞き返した。
「コークハイも作れるし、アルコール・フリーのビールもあるわよ」
「コーラでいい」
何が面白くないのか、娘は口をとがらせフンといった顔つきで踵を返した。
後ろ姿はなかなかセクシーだ。およそ食堂にふさわしくない赤の超ミニに、十センチはありそうなハイヒールをはいて闊歩する。
しかしこの蟹瀬村では大人がコーラを飲んではいけないのか。娘の背中にそう怒鳴りつけたかったが、気の弱い聖彦に出来るはずもない。
(郁実さんはとても女らしかった……。あんなにマスカラつけなくても、うっとりするような瞳の持ち主だった)これから当分は、女性を見かけるたびにひそかに郁実と比べてしまうのだろうか。そしてそのたびに胸がチクリと痛むのだ。
ため息をつきながら店内を見渡すと、あちこちで客が聖彦を向いて、くすくす笑っているではないか。
(なんだよ。やーな感じ。こりゃ変てこな店に入っちまったな)とりわけ肩を揺すって派手なアクションをとっている男がいた。
短めの茶髪、年は三十代前半ぐらい。つり上がり気味の目はかなり細く、その目を一層細くして、ご丁寧に出っ歯までむきだしにして笑っているのだ。
雰囲気的にはパチプロとかギャンブラーといった感じ。一緒にいる相手も同様のタイプで、関わり合うとロクなことにはならないと思い、聖彦は目をそらした。笑いたければ笑えばいい、と胸の内でつぶやきながら。
カツカレーの味は食えないほどまずくないという程度だったが、しかしそのボリュームのすごいこと。カレーもご飯も一・五人分とたっぷりなら、揚げたてのカツは皿から飛び出しそうな大きさなのである。
コーラを飲み飲み、カレーを食べた。少し離れた席で、パチプロ風の出っ歯がこっちを見てまた笑っているが、もう聖彦は気にしない。ひたすら食べることに勤しんだ。
そんなに注文は入っていないはずなのに、やけにウエイトレスがハイヒールの音を響かせ、店内を歩きまわったり、かと思うと店の奥へしばらく消えたりして、おかしいなと頭の隅で考えながら。
――椅子に座ったまま、しばらくウトウトしてしまった。
ゆうべは郁実さんのことを考えてよく眠れず、寝不足と疲労が重なった上に、カツカレーで満腹になったせいで、猛烈な睡魔に襲われたのだ。
店内は相変わらず盛況である。まだ午後三時すぎというのに、アルコール消費は快調に進んでいるようで、ウエイトレスの尻を触わる不届きな酔っ払いも珍しくない。
(まったく、とんでもない店だな。この連中、他にすることがないんだろうか)おだを上げる酔客の間を縫うようにして聖彦はトイレへ向かった。道中は長い。ここで用を足しておかないと後で困ることになる。
店の奥にあるだろうと見当をつけて進んだ。
ところがフロアの先はうなぎの寝床のようになっていて、しかも薄暗く、トイレの表示がなかなか見つからない。
何の表示もない部屋の前を通りすぎながら、戻ってウエイトレスに聞いた方がいいかと迷ったが、あの無愛想な顔を間近で拝む気にはなれなかった。
と、黒いカーテンの引かれた部屋があり、トイレかどうかわからなかったが、半ばヤケクソ気味に中をのぞいてみた。
あの出っ歯の男がいた。椅子に座っている。うっとり目を閉じ、チンピラっぽい顔に陶酔を浮かべている。
その股間には、女が顔をうずめ、しきりに首を振っている。そう、フェラチオしているらしいのだ。
赤い超ミニ、ヤンキー風の茶髪。さっき聖彦の注文を取りにきた娘だ。ムフン、ムフフンという甘い吐息とともに、女はいかにも馴れた感じで指と口を使う。
『いいよ。あああ。いい。ユカリ、おまえの口、最高』
しっとり濡れた粘膜に包まれる心地よさに、男は唸っている。
『むふっ。むふ――』
勃起は根元近くまで埋め込まれている。真紅の唇から卑猥なピッチでぬちゃぬちゃ出し入れさせながら、ユカリという娘は甘ったるい吐息を洩らすのだ。
唇でキュッキュッと茎胴を緊めつけながら、口のなかでは粘っこく舌を走らせているのがわかる。
『あー。そこ、たまんない。そう、吸って。もっと吸って』
男はオカマのような
声
音
を出して、身悶えしている。
激しい嫌悪に鳥肌が走った。
が一方、異様な興奮を覚えたのも確かだ。
思いもよらない場所で、卑猥な行為にいきなり出くわすと、人間は妖しいショックに襲われるのだ。ゾクリと痺れるような感覚にとらわれながら、聖彦はそう初めて思い知らされた。
あの生意気そうなウエイトレスが
一
途
に男の股ぐらで首を振る姿は、それほど衝撃的だった。
ピンクのブラウスは前がすっかりはだけている。出っ歯の男の手は、ユカリの白いブラを握りしめて、荒々しくまさぐっている。
『このデカいおっぱいもいいよ。なあ、ユカリ。ブラの中に手を入れてもいいだろ』
『いやん。駄目よ、マコトさん。マスターに怒られちゃう』
チラリと相手を見上げ、かすれた声で言うと、すぐにまた唇でペニスを巻き包んだ。根元に指を添えて巧みにしごくと、勢いのついたペニスの先端からは透明な汁があふれるのだ。
『いいから、いいから。頼む』
『ああふん……ううむふん……』
マコトという男は強引に両手をカップの中にこじ入れた。勢いよく持ち上がった半球形の双乳がこぼれ出すと、卑猥に指を食い込ませ、揉みまくる。
白い双乳がぷるぷる揺れ、ピンク色の乳首が
鮮
やかな色彩をふりまいた。
と、マコトは自分の手のひらに唾液をたっぷり吐いた。好色さ丸出しに、その手でとがった乳首を転がしてぬるぬるに濡らしたり、指の腹ではさんでぴんぴんはじいたりもする。
『ひいい。興奮するよっ。ユカリ。おまえの口も、おっぱいも、すっごくいい』
乳房を激しく愛撫され、ユカリも感じるらしく、ぐいぐい顔面を揺すりながら鼻先からこぼす吐息もぐっと高まっている。
『キスしてえ。なあ、口を吸わせろ』
『駄目よ。わかってるくせに。ルール違反したら、出禁になるわ』
『俺は特別だろ、ユカリ。言う通りにしねえと、アノ事、みんなにしゃべっちゃうぞ。くくく。そしたら困るだろ?』
『いやん。ひどい。マコトさん』
ユカリはなまめかしい吐息をふりまいて、細い肩をクネクネさせた。
マコトはその濡れた紅唇を吸いとった。
舌をぐいと差し入れて、いやらしくユカリの口の粘膜を舐めしゃぶる。とユカリはブラから乳房を露出させたまま、身をくねらせるのである。
(アノ事って何だろう。もしかして、そこで本番までやっちゃったって事かな。あのマコトならやりかねないぞ)二人の関係が今ひとつよくわからなかったが、そもそもこの天国食堂自体が伏魔殿のような場所なのである。何があっても不思議ではなかった。
マコトは深々と舌をこじ入れてディープキスしながら、若い美乳をつかんで、ぶるんぶるんと揺さぶっている。
そしてユカリは顔を真っ赤に染め、今にも爆発しそうな勃起を指であやしている。
『ああ。たまんねえよ。おまえの口に飲ませたくなってきた』
『飲ませて、お願い。マコトさんの精子、いっぱい飲ませて』
ユカリはふたたび顔を沈め、急ピッチでスロートを行なう。指では幹の中心を規則正しくしごき立てる。
いよいよ本気で吸い取りにかかっているのがわかった。頰をすぼめながら、勃起の根元まで深々とくわえ込むその姿は何とも淫靡で、盗み見している聖彦は喉がカラカラになる。
『いくぞ。あー、いくぞ』
椅子の上でマコトの体がバウンドした。
そのうめき声と手足の震えで、射出の快感がどれほど素晴らしいのか聖彦にも伝わり、激しくエレクトしてしまう。
『飲んでくれよ。全部。飲むんだぞ』
『むンぐっ。むンぐぐっ』
なおもマコトは乳房を激しく揉みしだきながら、快楽にたぎる肉茎をぐいぐい紅唇へ叩きつけるのだ。
3
マコトの射精を見届けて聖彦はその場を離れた。ようやく個室トイレを見つけて入ると、股間がびんびんに高ぶってどうしようもなく、不本意ながらオナニーすることにした。
のぞき見の興奮で、全身が性器と化したかのようにドクンドクンしている。自分の中にこんな変態要素があったことを新たに発見した気分である。
十分ほどして、すっきりした気分でトイレを出た。さっきのカーテンの前を通りすぎる時、また卑猥なあえぎ声や息づかいがしたが、その音色は微妙にあの出っ歯とは違うようだった。
レジには何とあのヤンキー風のウエイトレスがいるではないか。まったく何事もなかったように、無愛想さもそのままだ。
おしゃぶりの後、口紅を塗り直したのか、やけに赤い色がどぎつい。なぜか聖彦は妙にどぎまぎしながら勘定を払った。
「この次はお酒も注文してちょうだいね」
「え?」
娘の口角が少しゆるんだ。しかしそれもほんの一瞬で、すぐにまた取りつく島のない態度となって、フロアへ戻って行った。
狐につままれた気分で外へ出た。
遠くの山が遅い紅葉に色づいている。そのはかない美しさと、自分がいた魔窟の猥雑さがあまりに対照的だった。
(フン。なにが天国食堂だ。小鬼と酔っ払いばかりの地獄食堂じゃないか)クルマのエンジンをかけたところで、例の出っ歯の男が小走りで近づいて来た。
「お兄さん。どっちまで行くの?」
「え。あ、あの……沖山町ですけど」
「おう。バッチグーや。乗っけてってくれ。ちょうど俺もそこへ帰るし」
「連れの方はどうしたんです?」
「あれか。まだ仕事があるって、俺を置いてけぼりにしよった。だから、な、頼むわ」
「………」
大いに聖彦は迷った。
本来なら即座に断るところだが、地獄ならぬ天国食堂の実態を男の口から聞いてみたい好奇心があった。会社へ提出する旅行レポートにも彩りを添えられるだろうし、いいみやげ話にもなる。それに男は人なつっこい笑みを浮かべ、第一印象よりも案外憎めない感じなのだ。
聖彦がOKすると男は「ほいきた」と言い、軽い足取りで助手席のドアへまわった。
「兄ちゃん。旅の人?」
「そうです」
「東京ナンバーだもんな。この辺じゃめったに見ないわ。俺も一度こんなナンバー・プレートでクルマ転がしてみたかったなあ」
無邪気そうにぺらぺらしゃべるのはいいが、とにかく酒臭くてかなわない。
「俺、マコト。沖山でマコトと言えば誰でもわかるぜ」
「隈田聖彦です」
「あんた、どこからまわってきたの? こんな道、普通東京の人は通らんし」
「昨日まで二階堂町にいました」
「二階堂か。くっく。美人の産地で有名よ。いい女、いただろ、クマちゃん」
マコトは妙に馴れ馴れしいのだ。
だが美人の産地という言葉には大いに納得した。そして郁実を思い出し、また胸がキュウと締めつけられた。
「マコトさん、さっき、僕を見て笑ってましたよね?」
「そうか。俺の相棒と違うか」
マコトはとぼける。
細い目が眠そうに垂れ下がっている。さっき、ぎんぎんに吊り上がらせて笑っていたのとはえらい違いだ。酔いがまわっているし、女の子の口で気持ちいいことをしたせいだろう。
「いいえ。あなたが店で一番ど派手に笑ってくれましたよ、まったく」
「そうか。すまん、すまん」
「コーラがそんなにいけないんですか。あのウエイトレスも注文聞いて変な顔したし」
「おう。ユカリ、な。男は誰もが酒を飲み、スケベをすると思ってるんだ。ほんとは気がいい子なんだが、愛想というものを、親の仇ぐらいに考えてるんだろ。まあ、しかし、天国食堂の女の子がニコニコしてたら、大ニュースよ。地元のテレビや新聞が取材に来るわ。ウハハハ」
マコトは一人で受けている。
それからたずねてもいないのに、三人のウエイトレスのランキングを発表するのだ。
「やっぱ、一位はユカリよ。若くてぴちぴちして、指名の数も断トツだし」
「指名って何ですか」
「おう……。そんなこと、言ったっけ」
「とぼけないで下さいよう、マコトさん」
道路に沖山町まであと十キロの表示が見えた。
二階堂町に段々近づいていった時のときめきが感じられない。マコトのようにちゃらんぽらんな人間ばかりなら、滞在しても期待薄だし、いっそ通過してしまおうかとも聖彦は考える。
「正直に言うと僕、さっき見ちゃったんですよ。店でトイレを探していて、うっかりカーテンあけたら……マコトさんと、あのユカリさんが」
「見たのかよ! クマ公」
いきなり声を荒らげたので、聖彦は思わずハンドル操作を誤りそうになった。
「しょ、しょうがないじゃないすか。だって……」
「ハハハ。冗談だよ。おまえ、気が小さい奴だな、キーヨ」
今度はえらく親しげに愛称っぽい呼び名をつけ、肩をぽんぽん叩くのである。
「キーヨ、すか。いきなり」
「きよひこはキーヨ。尾崎紀世彦だってファンの間じゃそう呼ばれてるぜ」
「ああ。あの激しいもみあげの歌手ですか。それはまあいいとして、あの店は一体何なんですか?」
「わからなかったのか。男を天国へイカせてくれる、それはありがたい食堂よ」
「つまり……ピンサロみたいな、ってことですか? そ、そんなの許されるんすかっ」
「堅いこと言うなよ、キーヨ。おまえみたいに、ただカツカレーだけ食べて帰る奴もごくたまにいるし、収穫期の農家のおばちゃんも来るし、全部が全部ヌキ目当てで来るわけじゃない」
マコトの話によれば、天国食堂ではアルコールないしはノン・アルコール・ビールを頼む客は、ピンク・サービスが目的とみなされる。サービス料金は格安なのだという。
とはいえ、女の子は三人しかいないし、一人に指名が重なればクジ引きとなり、クジに外れた客はいくら待ってもサービスを受けられない場合もある。
「俺は運が強いのよ。くくく。まず外したことはない。今日も五倍の難関を見事突破し、ユカリの唇にぶちこんでやった。相棒の方は、ナツコを指名したけど駄目だった。これで三回連続外れてるんだよ。信じられるか」
なおもマコトは自分の運の強さを語りつづける。あきれたことに話はすべてセックスに関するものばかりで、自分がどれだけいい女と遊んできたかといった、かなり眉唾なエピソードをあれこれ披露するのだ。
「おまえも惜しかったな。せっかく天国へ行けるところだったのに。訊いてくれればシステムを教えてやったんだが」
「いいですよ、別に」
聖彦はムッとして応じた。
セックス自体は嫌いではなく、いやかなり好きな方だが、風俗系は苦手なのだ。青臭い考えなのはよくわかっているが、愛のない射精はむなしいだけだと思う。
「あの店はこのあたりじゃ一番人気があるピンク食堂なんだ」
「え? まだ他にもあるんすか、ああいう店が」
「おうよ。沖山町にも二軒あるぞ。最近手入れがあって一軒休んでるが。でも俺はわざわざ蟹瀬まで出張ってくるのさ」
なぜかマコトは得意そうに言い、小さく鼻を鳴らした。
この二、三日、溜めていたので今日はどうしてもヌキたくなったが、あいにくクルマが故障しており、さっきの友人にわざわざ迎えに来てもらったのだという。
「ピンク食堂へ行く時はみんな助け合う。男とはそういうもんだ」
出っ歯から唾を飛ばして、そうのたまうマコトである。
(こりゃ駄目だ。沖山町なんかには絶対立ち寄らないぞ。エロくよどんだ空気を吸うだけで、なんか人間が腐りそうだ)聖彦は固く心に誓った。
4
さんざんぱら下ネタ談義をまくしたてたマコトは、急に静かになったと思ったら、ストンと眠りに落ちた。
運転しながら聖彦は、だらしなく口をあけて寝ている助手席の男を観察した。
派手な色合いのセーターの下に、ゴールドの太いネックチェーンをつけている。耳にはピアス。何が入っているのか、ボッテガベネタのセカンドバッグを大事そうに抱えている。
(やれやれ。ちゃらけた男だな、まったく。これで年は三十七とか言ってたけど、一体どんな人生だよ)マコトの仕事が何なのかを聞き忘れた。最初の印象ではパチプロっぽい感じだったが、あるいはフリーターで、パラサイト・シングルの可能性もある。けっこう親が地主で金持ちだったりして。
どちらでもよかった。沖山町で降ろしたらもう二度と会うこともないだろう。
そんなことを考えつつ冷やかにちらちら観察していると、マコトが細い目を開けた。その様子はどこかトカゲを連想させた。
「なんだ、キーヨかよ、まったく」
「はぁ」
「ユカリのクルマに乗せてもらってる夢見てたよ。チェッ」
つまらなそうに舌打ちまでするので、さすがに聖彦も腹が立ってきた。ここで降りろと怒鳴りつけようかと思ったが、セーターをめくりあげたマコトの太い前腕を見て、やめておくことにした。腕力勝負にはまるで自信がなかった。
いつの間にか沖山町に入っていた。
思いのほか洒落た商店街だ。マロニエの木が植えられたプロムナードは綺麗に整備され、おいしそうなパン屋やカフェもある。
「キーヨ、泊まる場所は決めてあるのか」
「いえ。まあ適当に」
まさか沖山町にはもう用はなくなったのだと言うわけにもいかず、曖昧にお茶を濁した。
「フーン。のんきでいいよなあ、旅の衆は。観光ホテルなら、女を呼べるぜ」
「そうすか。ところで、どこで降りるんですか、マコトさん」
聖彦にしては珍しく、不快感をあらわにしてたずねる。
ところがマコトは窓の外に目を釘付けにさせて、返事をしない。そして突然、クルマを止めろと命じた。
「奥さーん。ハルカさーん」
商店街を歩いている女性に向かい、クルマの中から大きな声で呼びかけた。
「買い物ですかあ?」
ハルカと呼ばれた女が気づき、こちらへ近づいてくる。かなりの長身で、ジーンズをはいた細い足がすらりと伸びきっている。
心臓がバクバクした。素晴らしい美女なのだ。二階堂町の郁実と比べて少しも引けをとらない。何とも惜しいことに、奥さんと呼ばれていたから人妻らしいが。
「あら、マコトさん。今日はどうなさったの? お友達とご一緒?」
見たこともないくらい綺麗な長い黒髪が、風にゆらゆらなびいている。甘い香りがこっちまで流れてきそうだ。
「ええ、まあ。エヘヘ。こいつ、東京から流れてきた奴で、キーヨっていうんです。頼まれて仕方ないから俺があちこち案内してやってるんですよ」
口から出まかせを言うのがマコトの特技らしい。薄々はわかっていたことだが。
「……隈田聖彦といいます」
すると女は聖彦に会釈し、篠
宮
遥
香
という名前を教えてくれた。ただ目と目が合ったそれだけで、感激して泣きたいくらいだった。
貴族的な肌の白さに、黒々とした直線的な眉と、ぱっちりした二重瞼の瞳が際立つ。その美しい瞳でしっかり聖彦をとらえているのがわかる。
「こいつ、沖山町に興味があると言うんだから大した物好きですよ、まったく」
「そうなの。うふふ。あんまりいけないことを教えたら駄目よ、マコトさん」
人妻が微笑むと、白い歯がまばゆくこぼれる。歯磨きのコマーシャルにそのまま使えそうなくらい魅力的な笑顔である。
「はいはい。尊敬する遥香さんのお言葉ですから、肝に銘じときます。図書館、公民館、郷土館以外は、連れて行きません」
「もう、マコトさんたら、いつも冗談ばっかり。うふふ。隈田さんもお気をつけて下さいね。あんまりこの人の言葉を真に受けてはいけませんわ」
「は、はい。そうしますっ。あ、ありがとうございます、遥香さん」
「おっまえ。もう馴れ馴れしく、遥香さんなんて呼んじゃって。ハハハ。調子よすぎるっつうの」
頭を軽く叩かれた。
そんな親しい仲だろうか。帰る足がなくて困ってるから、クルマに乗せてやっただけなのに……。だが、この美女の正体を教えてもらいたいので聖彦は我慢していた。
「いい女だろ」
歩きだした遥香を見つめ、マコトがどうだとばかりに言う。あたかも自分の女みたいな口調だ。
しかし聖彦はクラクラする感動に打たれていたので、素直に同意する。
「そういや遥香さんも二階堂出身だったな」
「そうなんですかっ!」
「どうしてそんな驚くのよ、キーヨ」
「いえ、あの、やっぱり美人の産地だなあって思って……。でも、遥香さん、結婚してるんですよね」
「ああ」
そこでマコトは意味ありげに微笑する。
(なんだよ? その笑い。何か隠してるのか。もったいぶらずに教えろよ、マコト)あの人妻のことならどんな些細なことでも知りたかった。けれどもこちらの感情をマコトに見抜かれると厄介なので、自制した。
「彼女、アルフィーヌっていうブティックを経営してるんだよ。どうだ、とても三十三歳には見えないだろ、あのプロポーション。確か若い頃は、東京でバレリーナを目指していたらしい」
マコトの言うように、あの人が三十三歳とは信じられなかった。トゥ・シューズをはき、白いストッキングの太腿を見せつけて彼女がバレエを踊る姿を想像し、不謹慎にもエレクトしてしまう。
ともあれ、ブティックをやっているなら自分とも多少の接点はあるわけで、聖彦は大いに勇気づけられた。
「旦那も遥香さんとお似合いで、いい男なんだよ。篠宮家といえばこの沖山町きっての名家なんだ」
「はあ。なるほど」
篠宮遥香の亭主は町会議員であり、不動産業を営んでいるという。資産家ということだし、きっと代々、受け継いできた土地や不動産の管理などを行なっているのだろう。
(とても俺なんかの出る幕じゃないや)
それでも遥香の優美なオーラに魂を揺さぶられていた。
まさか二階堂町を離れてすぐに、こんなに心ひかれる女性に出会うとは思ってもみなかった。単に美しいだけではないのだ。篠宮遥香からにじみ出ているあの強烈なフェロモンの正体を知りたかった。
(あの人こそ、クンデュラの商品イメージにぴったりじゃないか。もっとよく観察すれば、きっと素晴らしいデザインが思い浮かんできそうな気がするぞ)この沖山町にしばらく腰を落ち着けることを聖彦はもう決めていた。我ながらあまりにも現金だとは思うが、これで高崎郁実から受けた恋の痛手も束の間、忘れられることが出来そうだった。
第二章 美貌の罪と罰
1
聖彦はひとまず沖山観光ホテルに腰を落ち着けることにした。
マコトが「女も呼べる」と言ったのが気になったが、適当なホテルは他になかった。
小高い丘の上に建つ、古くてがっしりした造りの大型ホテルで、なかなか見晴らしもいい。館内全体がじめっとして、カビ臭いような陰気な匂いが漂うのがたまに瑕だが、それを除けば部屋も広いし、居心地は悪くなさそうだ。それにネット上で評判のいいレストランもある。
競合するホテルがないためか料金設定は昔のままで、やや高めである。もし滞在が長引くようだったら、その時はもっと安い民宿を探して移ろう。二階堂町でもそうしていたのだから。
ホテルの部屋で早速インターネットに接続し、篠宮遥香のブティック〈アルフィーヌ〉を検索してみた。
すると何という
僥
倖
だろうか。遥香のあの都会的風貌からして、もしやという気持ちも少しはあったのだが、わがクンデュラの商品を扱ってくれているではないか。こんなローカルな町のブティックにしてはかなり珍しいことだ。
すぐに営業部にいる同僚にメールで問い合わせてみた。
その返信によれば、アルフィーヌは地域の優良販売店であり、クンデュラの婦人服も順調な売れ行きとのことだ。
「これも何かの縁だろうから、君には営業代理としてぜひ挨拶に行ってもらい、オーナーと話をしてきてほしい。小売りの最前線の意見は大切だからな」というくだりを読んで、聖彦は小躍りしたくなった。
おかげで晴れて遥香のブティックを訪れるきっかけが出来た――。
(ちょっと軽薄すぎるかな、俺。郁実さんに振られたばかりというのに。しかも相手は他人の奥さんじゃないか)地元の御曹司の夫を持ち、ブティック経営も順調で何不自由なく暮らしている篠宮遥香が、自分のような旅の人間になど鼻も引っかけないだろう。そう理屈ではわかっているのだ。
しかし人妻と目を合わせた時の、あの感動が忘れられない。
遥香の
凛
とした瞳の中には、こちらへ何かを訴えかけてくるような光りがあった。勝手なうぬぼれかもしれないが、彼女は誰か力になってくれる人間を必要として、そのメッセージを自分に向けて送ったのではないか。そんなふうに聖彦には思えるのだ。
翌日の午後。こんな時のためにクルマに積んであったジャケットを着て、アルフィーヌを訪れた。
場所は商店街から少し奥まった住宅街の一角にあり、白と青をエクステリアに取り込んで、高級ブティックにふさわしい雰囲気のたたずまいである。
店には若い女性スタッフだけしかいなかった。胸をときめかせて来ただけに拍子抜けしたが、マダムはじきに戻ってくる、と言うので待たせてもらうことにした。
「マコトさんから聞きましたよ。うふふ。隈田さん、道に迷って途方に暮れてたから、助けてあげたって」
薫
という、聖彦と同世代とおぼしき女性がくすりと笑った。化粧が濃くて、遠目には美人で、どこか天国食堂のユカリを思わせる。ユカリよりもはるかに愛想はいいし、のんびりとした感じだが。
「そういうことにしておきましょう。ところで、マコトさんて何をしてる人ですか?」
「スナックやってます。昭和歌謡が売りで、今どきの歌はカラオケで絶対唄わせてくれません。マコトさん、歌がすごくうまくて沖山町ではけっこう有名人なんですよ」
「へえ。そうですか」
だから尾崎紀世彦とか言っていたのだ。いくらうまくてもマコトの歌など聞きたくもないが。
「あの人のあだ名、知ってます?」
「いいえ」
「嘘から出たマコトって言うんですよ。くくく。ねえ隈田さん。本当はどこでマコトさんと知り合ったんですか? まさか天国食堂とかじゃないですよね。もしそうだったら、私、軽蔑します」
のんきそうな顔つきをしている割には勘が鋭くて、ドキリとさせられた。
「ちがいますよっ。ていうか、天国食堂って何ですか?」
「いえ。いいんです」
薫は顔を赤らめ、下を向いた。
聖彦はちょっとだけ彼女に好感を抱いた。
それから真面目な話に入った。この店ではクンデュラのどういった商品が好まれているかをざっと説明してもらい、営業畑ではないが聖彦なりの売り方や商品アピールに関するアドバイスをした。
そうして三十分あまりが過ぎた頃、ようやく篠宮遥香が帰ってきた。途端に聖彦の視界は紗がかかって、ロマンチックな映画のワンシーンのようになる。
今日は茶系の柔らかな色合いのシルクのツーピースを着ている。スカート丈は長めで、あの脚線美を拝めないのが少し残念だった。
「あら。確か昨日、マコトさんと一緒だった方よね。ええと、キーヨさんでしたっけ」
「はい。隈田聖彦です」
すかさず薫が、実はクンデュラの社員だったのだと聖彦の名刺を渡して説明してくれた。
聞きながら遥香の端整な表情に、驚きと喜びの色が浮かぶ。これほどの美人というのに気どったところがなく、喜怒哀楽の表情が豊かなのだ。
センターパーツの黒髪をかきあげる仕草がたまらなく優雅だ。髪の長さは背中の真ん中あたりまであり、きらめきながら落ちてくるさまをうっとり見とれていると、遥香が顔を上げ、こちらへ微笑みかけてきた。
「クンデュラの商品企画の方が、どうしてまたわざわざ沖山町へいらしたんですか?」
「はい。実はサバティカル休暇というものが、わが社にはありまして」
聖彦は緊張気味に話しだした。
だが夫人の瞳が優しくねっとり
注
がれると、なぜか緊張がほぐれていく。
「そう。水彩画を描いていらっしゃるの、隈田さん。ぜひ見せて下さいな」
「もちろんです。遠慮ないご意見をびしばし聞かせて頂きたいです」
遥香が自分に少しでも興味を寄せてくれたことがうれしくて、聖彦は有頂天となって、クルマにスケッチブックを取りに行った。
2
店の奥のスペースは観葉植物に囲まれたサロンになっている。得意客にはそこでお茶を出して、ゆったりした気分で買い物を楽しんでもらうのだろう。
聖彦はサロンに通され、遥香と向かい合わせに座った。
「素敵だわ。隈田さん、デッサンも確かだけど、色づかいが斬新なのね。この二階堂町の風景の淡い黒の翳りなんて、普通の人はまず使わない色ですもの」
「あ、ありがとうございます」
傷心の聖彦には、風景も黒く翳って映ったのだったが、しかし遥香にほめられて悪い気分のはずがない。
「私、出身は二階堂なんです。だからあそこの町にいて、この色を使いたい気持ちは何となくわかります」
「はい。二階堂出身というのはマコトさんから昨日、お聞きしました。美人の産地ということで、確かにその通りだと思います」
「いやですわ。だって、あの人はあだ名が……」
「嘘から出たマコト」
そこで二人は同時に吹き出した。
おかげで距離が少し縮まった気がした。
なおも遥香はスケッチブックをめくっていく。まだ色をつけていないスケッチも含め、ざっと絵は四十枚にはなる。
彼女の視線の動きを見ているだけで、深い知性とかなりの審美眼の持ち主であることが伝わってくる。
面接で厳しい試験官を前にしてドキドキしている気分と、優しくて綺麗な家庭教師の先生に採点してもらっているような気分の、その両方を聖彦は味わっていた。
「隈田さん、なんだかもったいないわ。これだけお描きになるなら、絵の道に進まれたらよろしかったのに」
「とんでもない。僕なんか、全然です」
「失礼ですけど、他の人とは違う観察眼をお持ちなのね。人物や風景の、うわべの色や形ではない、その奥にある本質を見抜こうとされてるんじゃないかしら」
「それは買いかぶりですよ――。で、でも、遥香さんにそんなふうに言っていただけて、とても光栄です」
何という
贅
沢
なひとときだろう。
遥香のような絶世の美女が、自分の水彩画に見入り、好意的な、それでいて鋭く的を射た感想を述べてくれているのだ。
そして聖彦の方も、高価な芸術作品を眺めるように遥香を鑑賞させてもらった。
ストレートロングの豊かな髪は上絹のきらめきを放ち、こちらの目を打つ。その贅沢な輝きに会うと思わず手を伸ばして触れてみたくなるほどだ。
やや面長のマスクは、抜けるように白くて繊細な
艶
があり、そこに情熱的な眉目がきりっと映えている。
小高く貴族的に伸びた細い鼻筋。
淡いピンク系の口紅をさした唇は肉感的で、上下の唇のバランスが理想的である。
(こんな人を妻に持つ男って、どんな気分なんだろう。嫉妬深くならないのかな。外を歩くたびにいやでも男たちの視線が集まるのだし……。それとも、どうだとばかりに見せつけて優越感に浸るのかな)遥香の亭主が無性に羨ましかった。しょせん自分など、どんなにあがいたところで相手にならないのはわかっているのだが。
いけないとは思いつつ聖彦は、少しずつ夫人のボディを観察し始めている。二人きりで対面するこんなチャンスは、この先もう二度とめぐってこないかもしれないのだから。
聖彦は婦人服の企画とデザインが専門だから、おおよそのボディ・サイズは見てとれた。
身長は百六十六、七センチだろう。
手足は日本人離れしてすらりと長い。生まれつき骨細タイプだから、やせては見えるけれど、ところがアンダーバストとトップの差はかなりあるはずなのだ。ブラはD、いやEカップだろうか。考えるだけでもゾクゾクしてくる。
と、夫人が顔を上げた。
悪いことをしていたのを見つかったように聖彦はハッと後ろめたい気分になる。
「この女性は、どなた?」
郁実の絵が一枚入っていたのを忘れていた。なんてドジなんだろう……。
「あの、二階堂町のカフェ〈ル・シュクレ〉のオーナーです。そこで、ささやかな個展をやらせてもらいました。高崎郁実さんというんですが、もしかして御存知ですか?」
動揺をひた隠して聖彦は答えた。
「いいえ。最近は法事で帰るぐらいで、二階堂の町にはめったに出ないものですから。でもお綺麗な方ね。隈田さんの熱い想いが伝わってくるわ」
「いや、別に、全然そんなんじゃ……。たまたま描かせてもらう機会があったので」
図星を差されて聖彦はあせった。夫人の眼力に会っては、すべてを見抜かれてしまいそうな感じなのだ。
遥香は妖艶な笑みをたたえ、まっすぐに聖彦を見つめた。
「気に入りましたわ。あなたの絵。よければ、ぜひうちのお店でも個展をやらせてもらえないかしら」
「本当ですかっ。それはもう、ありがたいお話ですが、いいんでしょうか、お言葉に甘えても」
「もちろんですとも。きっとうちのお客様も喜んで下さると思うわ」
これで個展は三回目となり、会社に提出したレポートのノルマは果たせる。それより何より、これから遥香と顔を合わせる機会が出来そうなことが聖彦にはたまらなくありがたかった。
「あの、一つだけお願いがあります。個展までに、ぜひ遥香さんの絵を描きたいんです。そんな時間はかかりません。そうですね。二、三時間ぐらい、作っていただければ」
「私なんか、とても……」
「
謙
遜
なさらないで下さい。僕、遥香さんを見てると、すごく創作意欲が刺激されるんですよ。どうしても描いてみたくて」
自分でも不思議なほど積極的になれた。
ふつう遥香のような美女を前にすると、決まって
臆
してしまう聖彦なのだ。しかし遥香には、なぜか思ったままを素直に言える雰囲気があるのだ。
よほど性格の相性がいいのだろうか。いや、聖彦が勝手にそう受け止めているだけなのかもしれない……。
高崎郁実の前ではどうにも自然に振る舞えなかった。その美しさと態度にあまりに隙がなくて、何か変なことを言うと軽蔑されそうで怖かった。それがまた郁実の神秘的な魅力でもあって、泣きたいくらいに好きになってしまった聖彦であるのだが。
3
隈田聖彦が沖山町に着いて四日目になる。
すぐにも絵のモデルになる時間を作ってくれそうに言っていた遥香だが、忙しいらしくなかなか連絡が来ない。一日じゅう聖彦は携帯とにらめっこばかりしているのだ。
(仕方がないさ。遥香さんだってスケジュールがあるだろうし、こっちの都合ばかり押しつけるわけにもいかない)ホテルのレストランで夕食を取り、部屋へ戻ってから、遥香に電話をかけようか、やめようか大いに迷った。もし夫婦で食事をしていたらと思うと、かける勇気が萎えてしまう。
昨日アルフィーヌへ個展の打ち合わせに行った時、篠宮遥香の亭主が顔をのぞかせたのである。
夫、篠宮
慶
司
は長身のイケメンで、ゴルフ焼けなのか色が黒くていかにも精悍そうだ。年は遥香より五つ上という。くやしいがマコトの言うようにお似合いのカップルであり、まるで友達のように会話する様子からして関係もすこぶる良好そうだ。
「わざわざこんなちっぽけな田舎町へようこそ。隈田さん。クンデュラの商品は僕も大好きなんです。もしあなたが沖山町を気に入ってくれたなら、僕たちはみんな仲間ですよ。任せて下さい。アルフィーヌを挙げてあなたの活動を応援しますから」
そう言って快活に笑いかけてくる。
まさかあなたの奥さんに実は下心があるのだとは言えないし、後ろめたさと、この男が亭主なら到底自分の出番はないという失望とで、聖彦は曖昧な薄笑いを浮かべるばかりだった。さぞかし覇気のない男と思われたことだろう。
(でも、もう少しだけ遥香さんのそばにいたいよ。
叶
わぬ恋でもいい。あんな素敵な女性、もう二度と出会えないかもしれない)自分より遥香は六つ上。そして高崎郁実は、三十歳だから三つ上になる。どうして年上ばかりに惹かれてしまうのか自分でもわからない。ただ、天国食堂のユカリや、アルフィーヌの薫にはまったく心を動かされないのだ。
一年半前に別れた恋人も二つ年上だった。
看護師の彼女は海外の僻地へボランティア勤務を志願して、泣く泣く別れることになったのだ。あの時、次の恋を見つけるまでは立ち直れないと思ったが、ずっと恋人のいないままでいつしか歳月が過ぎていった……。
ベッドに寝そべり、読みかけの本を開いたままウトウトしていると携帯が鳴った。
待ちに待った篠宮遥香からだった。あわてて跳ね起きた。
「ごめんなさいね、連絡が遅くなって。隈田さん、今どちらにいらっしゃいます?」
「ホテルです。本を読んでました」
「お食事はもうお済みになったの」
「はい。ホテルのレストランで、さっき」
「そうなの。お一人で食事は味気ないでしょう。今度ご招待いたしますわ。それであの、今から三十分後にうちのお店に来られますか? やっと時間が作れたので、モデルをやらせていただければと思いまして」
時計を見ると、八時を少しまわったところだ。アルフィーヌの営業は七時までだから薫もいないし、当然、店で二人きりになれる。
「はい、はい! で、では、三十分後に、必ずおうかがいします」
声が上ずって、震えてしまう。これじゃ下心がミエミエだよ、と思ったがどうにもならない。
(食事に招待してくれるって本当だろうか。ああ、そうなったらいいな。遥香さんと二人でお酒なんか飲めたら最高だよ)クルマでアルフィーヌまでは五分の距離だ。万一の時に備え、軽くシャワーを浴びた。
ちょうど三十分後に、画材道具を入れたバッグを手に意気揚々と店の前に立った。
「ん? ……」
店の看板が消えているのは当然としても、正面のシャッターが下りたままなのである。
きょとんとして聖彦はしばしそこに立ちつくした。狐につままれた気分だった。
何分かしてやっと電話をかけることを思いついた。ところが遥香の携帯の電源は切られたままなのだ。
「どういうことだよ? 遥香さん、何か急用でも出来たのか。まさかトラブルが起きたんじゃないよな」
不安に駆られ、独り言をつぶやく。
地方都市の夜は早い。九時近くなると周囲は暗くなり、人影もまばらだ。いくら目をこらしても、篠宮遥香らしき女がやって来る気配はない。
しばらくあたりをぶらついて時間をつぶした。ほぼ五分おきに店に戻っては、シャッターが閉じたままなのを確認した。その間、何度も遥香の携帯にかけてみたが相変わらずつながらないのだ。
そんなふうにして一時間あまりがむなしく過ぎて、とうとう聖彦は諦めてホテルへ戻ることにした。
その夜、遥香からの連絡は二度と来なかった――。
不安、疑惑、焦燥、恋情がさまざまに形を変えながら胸で渦巻いて、よく眠れないまま朝を迎えた。
十時になるのを待ってアルフィーヌに電話をかけた。薫が出て、夫人は来ていないし、何も伝言を預かっていないと言う。ひどく気落ちしながらも聖彦は、至急連絡をくれるようにと言伝てを頼んだ。
昼すぎ、町内を歩いている時、タクシーに乗った男女を見かけた。ほんの一瞬のことで定かではないし、寝不足で見間違えたのかもしれないが、女は遥香によく似ていた。そして男の方はわし鼻で、抜け目なさそうな顔をして、明らかに篠宮慶司ではなかった。
午後三時に薫から電話が入った。
『今、マダムから連絡がありました。昨日は急用があって出かけたそうで、くれぐれもあやまっておいて下さいとのことです。それから、今夜ホテルのレストランに七時にうかがいますと言ってました。うふふ。隈田さん、マダムとのデート、がんばって下さいね』
俄
然
ファイトが湧いてきた。昨日、夫人が食事に招待すると言っていたのも、あながち社交辞令ではなかったのだ。
はたして昨夜何があったのかは会った時に聞けばいい。親戚の人が急病になったのかもしれない……。あれほど悶々とした気分はたちまち吹き飛んでいた。今はディナーへの期待と興奮に胸を膨らませる聖彦である。
4
またしても裏切られた――。
夜七時から九時まで、レストランで待ち続けたのに遥香夫人はやって来なかった。聖彦は一人寂しくワインを飲み、食事することになった。失望のあまり、途中から食べ物が喉を通らなかった。
待ちながら夫人の携帯へ何度電話をかけただろう。メッセージも二度残したが、連絡は一切なかった。
あんなに気高く、聡明でしっかりした人なのに、そのルーズさが信じられなかった。もし来られないなら、なぜ断りの電話を入れないのかと腹が立って仕方がない。そもそも食事に誘ったのは夫人の方ではないか。
さほど酒は強くない聖彦だが、ワインをがぶ飲みして一本あけてしまった。さらに部屋に戻ってもヤケ酒をあおり、遥香に対してさんざん悪態をついて、いつしか服を着たままベッドに倒れ込んでいた。
深夜、携帯の呼び出し音で起こされた。
遥香かもしれない――。聖彦はあわてて飛び起きた。ディスプレイには非通知と表示されているが、かまわず出てみた。
「もしもし」
『………』
「どちら様ですか?」
しかし相手の声がしない。
何度か呼びかけても黙っている。電話の向こうに人がいる気配はするし、がさがさするような物音も聞こえる。
いたずら電話らしい。切ろうと思った時、女のあえぎ声がした。少し離れたところに携帯を置いたのか、声がやや遠い。
『あん……あっ……』
『……い、いやあ……ああん……』
まさかとは思うが、その艶っぽい声音は篠宮遥香を連想させた。
いったんそう考えると、ますます似ているように感じられ、聖彦はひどく興奮した。喉がカラカラになり、酔ってサイドテーブルに置いたままのミネラルウォーターを飲んだ。
女の泣き声はいよいよ高まる。それにつれ、男の荒い息づかいもはっきり聞こえてきた。
『今日はまた、ククク、一段と吸いつきがいいじゃないか』
『いやん。あっ、あっ、いやあん……』
『う、おおうぅ。すごいぞ、奥さん。締まる、締まる』
『……あああぅぅ……どうしよう……いく! いくうう』
絶頂を告げる悩ましい声がしたと思うと、それに男の射精の呻き声がかぶさった。
やがてガサガサガサという耳障りな物音があり、いきなり電話は切られた。
聖彦はただ呆然とするばかりだ。
(なんだよ、一体。ああ本当に、今のは遥香さんなのか? 確か相手の男は、奥さんと呼びかけていたよな)無意識のうちに熱い勃起を取り出し、指でしごいていた。
単なるいたずら電話ならここまで興奮はしない。あのよがり声の音色が遥香夫人とよく似たセクシーさだったからだ。
二度目の約束もすっぽかされて、その夜中にこんな電話がかかってくるのは、単なる偶然ではないのではないか……。謎めいた不気味さのなか、にわかに篠宮遥香が魔性の女に思えてきた。
「俺を馬鹿にして何がそんなに楽しいんだ! 人の心をおもちゃ代わりにもてあそぶ女は最低だよっ」
腹が立ってどうしようもない。だがその一方で、電話の女の甘ったるい嗚咽が耳に妖しく残り、聖彦の性感を揺さぶっていた。
欲望を抑えきれず、自慰にふけった。
みじめでたまらない。ここまで
愚
弄
されながら、それでも遥香の魅力に悩殺され、硬くなったペニスを握りしめているのだから。
(ひどいよ、遥香さん。俺が何をしたっていうんだ。なあ。お願いだから教えてくれよ。あんた、一体何者なんだ)自分が今まで、ぬるま湯に浸かって生きてきたことを思い知らされる。外の世界では一歩間違うと、理解しがたい悪意と策謀の罠が待ち受けていて、ふとした隙に足元をすくわれてしまうのだ。
大げさかもしれないが、旅先の孤独が聖彦の心を
蝕
んでおり、不安は
募
るばかりだ。深夜、眠りを覚まされたせいもあって、妄想は勝手にどんどん膨らんでいく。
自分が保険金殺人のターゲットにされ、遥香に色仕掛けでたらしこまれる――。
そんなイメージを浮かべながら、それでも遥香にだまされるなら仕方ない、といった不思議な興奮が生じて、ついには白濁を勢いよく噴き上げるのだった。
5
次の日、聖彦は沖山町を離れ、クルマで少し遠出をした。小さな美術館をめぐったり、土地の陶芸作家の作品を見たりして、途中では山と川のあるのどかな自然の風景をスケッチした。
とにかく遥香の呪縛から逃れたかったのである。沖山町にとどまっていては、彼女のことばかり考えて、不毛な堂々巡りにおちいってしまうからだ。
束の間自由な気持ちになれるのだが、ふとした隙に、電話から流れてきたあの妖しい淫泣が耳に甦る。
昨日、町で見かけたタクシーに乗っていた女は、やはり遥香だったのではないか。とすると、一緒に同乗していた男が、深夜の電話で聞かされたセックスの相手だろうか。
またも〈魔性〉という言葉が浮かんだ。あれほど美しく、あれほど不実で、そして淫らな女を聖彦は知らない――。
(どうしても遥香さんのことばかり考えてしまうな、俺。よっぽどいかれてるんだ。あれほどコケにされたっていうのに)それでもまだ心のどこかで、彼女という人間を信じようとしている自分がいた。つくづく自分のそんな甘さや弱さがいやになる聖彦だ。
だが会って話してみて、あれほど魅力的な女性が(しかも実績のあるブティックのオーナーなのだ)自ら進んでこんな仕打ちをするとはどうしても信じられないのだ。
その夜までに遥香から連絡がなかったら、もう諦めてこの町を出ようと決めた。個展が開けないのは残念だが、どうせ実現出来るかどうかはかなり怪しい話なのだから。
帰る途中、クルマでアルフィーヌの前をゆっくり通ってみたが、遥香の姿は見当たらなかった。今さら薫と会話する元気も湧いてこなくて、そのままホテルへ向かった。
結局、夜八時まで待ったが音沙汰はなかった。フロントに明日チェックアウトする旨を告げて、未練を重く引きずったまま荷造りを始めた。
最後に一度マコトの店に顔を出そうかとも考えたのだが、なぜか億劫だった。この三日間というもの、遥香に振り回されつづけて、心身がくたくたになっていたし、マコトのあの軽口に付き合っている余裕などどこにもなかった。
せめてもの慰めは、遥香にすっかり心を奪われたおかげで、いつしか高崎郁実との苦い恋の記憶が薄らいでくれたことだ。
(毒をもって毒を制す、か……。ちょっと違う気もするけど)ざっと荷造りを済ませ、缶ビールを飲みながら自嘲気味に笑った。
時間の流れが解決してくれることもあるのだと今回学んだ。いつか篠宮遥香の行動の謎も解ける日が来るのかもしれない。東京へ戻るまでにそうなればいいのだが。
下半身には欲望が不穏に渦巻いている。
旅を始めてすでに四ヵ月近く。風俗には行かないつもりが、一度だけ節を曲げてヘルスで抜いてもらったことがあるが、後はすべてオナニーで処理してきた聖彦である。
だが、さすがに二日つづけて遥香をネタにするのは気がとがめた。そんなことをしている場合か、ともう一人の自分が叱咤する。
(かまうもんか。どうせ眠れそうもないんだし……)血気盛んなペニスを取り出した。
(ああっ、もし遥香さんを抱けるなら、だまされてもどんな目に遭ってもいい。殺されるのはいやだけど、少しくらいなら痛い思いをしたってかまわない)遥香の裸身を想像しながら、音声は昨夜の電話のあえぎ声を使わせてもらい、聖彦はシコシコやりだしている。
と、ドアがノックされた。
夜十一時である。誰かが酒に酔い、部屋を間違えているのだろう。そう思って無視していると、今度は最初よりも強くノックしてくる。
「なんですか? 部屋、まちがえてるんじゃないですか」
「隈田さんのお部屋ですか?」
「そうですけど」
「アルフィーヌの篠宮です」
聞き覚えのある女の声がした。
まったく予期していなかったので聖彦はうろたえた。何という皮肉だろうか。この三日、ずっとその人の声を待ち望んでいたのに、もう無理だと観念しきった途端に、当の本人が部屋を訪ねてくるとは。
ドアを薄く開けると、こちらの許しも求めず、するりと室内へ入り込んできた。
上質の柔らかな香りがほのかに流れて、ゾクリとする。
「あ、あのう、困りますよ。だって……こんな時間に」
ちょうど今、オナニーの対象としていた女なのである。気まずさもあって聖彦は、無愛想に言った。
「ごめんなさい。でも人目につきたくないんです。ご迷惑でしょうけど、少しだけここにいさせて下さい」
篠宮遥香はしなやかな長身をよじるようにして言った。黒髪をかきあげると、薄暗い室内の明かりをはね返すようにきらめいた。
「ずっと連絡出来なくて、本当にすみません。隈田さん、さぞかし怒ってらっしゃるんでしょう」
「だって、そりゃ、二度もすっぽかされたんですからね」
「二度……? ああ、そうね。本当にごめんなさい。もう許してもらえないかもしれないのは承知しています。でも、隈田さんにご迷惑をおかけしたことを、どうしても一度あやまりたくて、こうしてお詫びに参りました」
深々と夫人は頭を下げた。
練
絹
のように美しい髪がふたたびざわめいて、するすると元に戻るさまを、聖彦は惚けたように見つめる。
茶の革ジャケットの下は、光沢のある黒のシャツ。そして、ぴったりしたライトグレーのパンツと黒革のブーツ。そんなパンツ・スタイルが憎らしいほど決まっている。
深夜にこんな美女の来訪を受けて、帰れという馬鹿は世界のどこにもいないはずだ。
怒りはたちまちどこかへ消え失せていた。代わりにオナニーを中断されたままの肉欲が、メラメラと燃え上がっている。
「わかりました。とにかく座りましょう。僕も事情を聞きたいし」
古いタイプの観光ホテルだけに、窓辺にソファー・コーナーがある。そこに向かい合わせに座った。
「隈田さん、もしかして、もう出発なさるおつもりなんですか?」
床に置かれたトランクを見てたずねる。
「………」
「困るわ。困ります。うちでぜひ個展を開いてもらわなければなりませんし」
遥香夫人は女っぽい眉根に情感をにじませ、身を
揉
むようにして訴えかける。
「本気なんですか、遥香さん。もうそんな話は忘れたのかと思ってましたよ」
「ああっ。忘れてなんかいません。信じてもらえないかもしれませんけど、私、隈田さんの絵がとても好きですわ」
その黒瞳で熱っぽく見つめられ、ジンと胸が痺れた。バランスのいい肉感的な唇が切なげに開かれて、小さな吐息が洩れる。
(あの電話の女、やっぱり遥香さんだろうか。声のトーンがよく似てるな)対面しているだけで聖彦の股間はびくん、びくん反応した。このままだと理性にブレーキが効かなくなりそうで怖かった。
「失礼ですけど、実は昨日の夜中に変な電話があったんです。遥香さん、何か心当たりはありませんか?」
「さあ……。どんな電話でしょうか」
「つまり、ええと、エッチの実況中継ですね。最初はただのいたずら電話かと思ったんですが、その女性の声は、つまり、遥香さんによく似ていました」
「違いますっ。ええ、絶対に」
「そうですか」
「あなたが私に不信感を抱くのはごもっともです。でも、誓ってそんな電話はかけていません。着信記録はどうなっていますの?」
「非通知設定でした」
遥香の表情にほとんど変化は見られない。逆にそこまでポーカーフェイスなのが、少し不思議な気がした。
ともあれ電話の女が遥香であろうとなかろうと、もうどうでもよくなっていた。今、目の前にいるのはれっきとした篠宮遥香なのだから。
「じゃ、きっと僕の勘違いでしょう。失礼なことを言ってあやまります。いろいろあって、このところすっかり疑心暗鬼になっていたもんで」
「ええ。わかります。私のせいで、大変ご迷惑をおかけして」
「ところで昨日はどうしたんですか。薫さんから、ホテルのレストランに七時待ち合わせと聞いたんですが」
「それは……手違いがあったんです、いろいろと。本当にごめんなさい」
「あのですね。僕は理由を聞きたいんですよ。こんな言い方したら怒られるかもしれませんが、昨日もおとといも、遥香さんのようにちゃんとした人が、断りの電話一本、入れられないのはどうしてなんですか? お願いだから教えて下さい」
そこでいきなり遥香は立ち上がった。
革のジャケットをさっと脱いだ。
黒のシャツはたぶんシルクだろう。伸びやかでスレンダーな肢体を、タイトなカットが一層引き立てている。
胸のふくらみがいやでも目に入り、聖彦を挑発するかのようだ。
「な、なにをするつもりですかっ」
啞然とする聖彦を尻目に、夫人はシャツのボタンをいきなり外し始めた。
秘蜜夫人 天上の雪肌 第一章 天国食堂と流れ者 ~ 第二章 美貌の罪と罰 (1/5)
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