CMNFは Clothed Male(s) and Naked Female(s) の略で、着衣の男と裸の女、という関係を指す。人数は問わない。服を着た男性と、脱いだ女性とのあいだに生じる性的倒錯であり、雑誌、AV、官能小説のジャンル名としても使われる。服の格差が、不自然さやアンバランスさのエロティシズムを作り、支配と服従を明示または暗示する。見る側が着て、見られる側が脱ぐ。SMの密室だけでなく、美術の教室や日常の視線のなかにも同じ配置は出てくる。対になるCFNMが女の着衣と男の裸なら、CMNFはその裏返しである。
SMと、晒すための脱衣
性的な文化のなかでも、SMは支配従属を典型として描く。だからCMNF的なシチュは広く見られる。服装で関係を示すため、S側の男は服を着て、Mの女は全裸、ということが非常に多い。縄を持たなくても、服の有無だけで上下が読める。典型的なSMでなくても、女に羞恥や屈辱を感じさせるためにCMNFを使う。露出プレイ、女囚ものでの強制的な脱衣がその例だ。男が着たまま立っている部屋で、女だけが服を失う。その非対称が、縄や鞭より先に権力を見せる。AVでも官能小説でも、着衣の男が観察し、裸の女が晒される配置は、支配の最短経路として繰り返し使われる。雑誌のグラビアも、同じ格差でページを組む。
デッサン室もCMNFになる
大学や各種学校の美術の授業で裸婦デッサンが行われると、着衣の男性が多人数おり、着衣の女性もいるなかで、全裸の女性がポーズをとる。描いている男性画家と全裸のモデルは、その瞬間CMNF状態になる。教室の正当な手続きと、フェティシズムの視線が、同じ構図を共有する。芸術におけるCMNFは、ポルノのセットだけのものではない。デッサン室では、着衣が観察の資格になり、全裸がモチーフの資格になる。SMの部屋と同じ格差が、授業の手続きとして合法化されている。
映画のなかの着衣と全裸
日本映画では、松竹『しなの川』(1973)、日活『バージンブルース』(1974)、富士配給『北斎漫画』(1976)、松竹『配達されない三通の手紙』(1979)、日活『ラブレター』(1981)、東映『ダイアモンドは傷つかない』(1982)、角川春樹事務所『恋人たちの時刻』(1982)、富士映画『丑三つの村』(1983)、にっかつ『暗室』(1983)、ディレクターズ・カンパニー『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(1985)、東宝『タンポポ』(1985)、東映『ひとひらの雪』(1985)、東映『化身』(1986)、東宝『濹東綺譚』(1992)、ギャガ・コミュニケーションズ『さよならニッポン!』(1995)、シネカノン『あつもの 杢平の秋』(1999)などが、着衣の男と裸の女の構図を画面に残している。
アメリカでは『イージー・ライダー』(1969)、『プライベイトレッスン』(1981)、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984)、『フリーダ』(2002)、『バベル』(2006)。イギリスでは『スキャンダル』(1989)。フランスでは『O嬢の物語』(1975)、『熱砂に抱かれて』(1991)、『美しき諍い女』(1993)。イタリアでは『クロツグミの男』(1971)、『青い体験』(1973)、『イノセント』(1975)。ハンガリーでは『密告の砦』(1965)。『O嬢の物語』の城館は、着衣の男が裸の女を見る配置そのものが調教である。城館の調教も、美術室のモデルも、日常の脱衣も、服を着た男が残る部屋で女だけが裸になるとき、CMNFとして読める。対になる語は、着衣の女と裸の男を指すCFNMである。略語は二つで一組、服をどちらが着ているかが、見る側を決める。













