『徳川女刑罰史』(とくがわおんなけいばつし)は1968年公開の日本映画である。吉田輝雄主演、石井輝男監督。東映京都撮影所製作、東映配給。併映は同年10月1日より『不良番長』(梅宮辰夫主演、野田幸男監督)。石井の『徳川女系図』『温泉あんま芸者』に次ぐ「異常性愛路線」第3作で、徳川期の女刑十四種を地獄絵図として並べた、東映SM時代劇の見世物である。団鬼六が東、辻村隆が西と呼ばれた当時のSM界の巨匠を緊縛指導に招き、サディズムの極限をスクリーンに出した。いまのSMビデオにも劣らない見世物性だと評される。
押せ押せの指令と女刑十四種
『徳川女系図』は大ヒットしたが、岡田茂プロデューサー(のち東映社長)から「おとなしい」と言われ、「押せ押せ」の指令が出る。エログロ度を増したのが本作だ。石井自身もこうした猟奇的な趣味を持っていたことを、当時の『キネマ旬報』で話している。『徳川女系図』で助監督だった荒井美三雄が石井と共同で脚本を担当。チーフ助監督だった牧口雄二は石井に反撥していたといわれるが、今日では石井の後継者と評される。人間的な与力・吉岡頼母とサディスティックな与力・南原一之進を中心に、徳川時代の想像を絶する苛酷な刑罰を再現した全三話のオムニバスである。スタッフは企画が岡田茂・天尾完次、撮影・吉田貞次、美術・鈴木孝俊、編集・神田忠男、音楽・八木正生。助監督は牧口雄二と荒井美三雄。
キャスト
吉岡頼母および新三を吉田輝雄、南原一之進を渡辺文雄が演じる。山野淡路守は中村錦司、みつは橘ますみ、権造は沢彰謙、巳之助は上田吉二郎。番長の先生に芦屋雁之助、勘太蓑に蓑和田良太、新三の仲間に毛利清二。尼僧側は玲宝・賀川雪絵、妙心・尾花ミキ、燐徳・白石奈緒美、彰尊・岡島艶子、行恵・小島恵子、尊栄・英美枝、周智・牧淳子、月照・美松艶子、善福・並木玲子、春海・林真一郎。花三は笠れい子、君蝶は沢たまき、彫丁は小池朝雄、三助は由利徹、料亭おかみは南風夕子、女囚人甲は三乃瀬愛、外国人囚人はハニー・レーヌ。第二話の濃厚な尼レズでは、拷問を受ける役の尾花ミキが撮影前にマスコミの前で断髪式を行い、実際に剃髪した。
京撮の排斥と興行の勝ち
公開の1968年は東映任侠映画の最盛期でもあり、ピンク映画の女優が全裸で京撮を走り回って恐慌をきたし、若山富三郎や鶴田浩二ら看板スターが強く反撥した。日活ロマンポルノもまだの時代で、前貼りは常識ではなく、前貼りを貼らされるスタッフは憤慨した。撮影所内部では「あんなん、もう映画とちゃう。見世物通り越したグロじゃ」と声が上がる。映画ジャーナリズムからも徹底的に叩かれ、朝日新聞がバッシング運動を展開した。評論家の佐藤忠男は「日本映画の最低線への警告」と題し、「エロ・グロと人格的侮辱のイメージを羅列していける神経にほとんど嘔吐感が込み上げる」「ピンク映画専門のプロダクションが作る映画でもここまで愚劣でない」と酷評した。
京撮は石井排斥運動を起こし、翌1969年4月14日、『徳川いれずみ師 責め地獄』撮影中に組合掲示板へ助監督一同が「撮影所を冒涜した」とする声明を貼り出す。マスコミからのバッシングで大きな論争になった。石井は当時のインタビューで「テーマのない映画があってもいい」「ことしは岡田氏と一緒に性愛路線に活路があるのではないかという考えでやっている」「もともと私の発案ではありません」「文句があるなら企画を立てた会社に言ってくれ」と会社へ責任を転嫁した。岡田は『キネマ旬報』で2度インタビューに応え、「体制打破ということだ。昔存在したようなファンは今はテレビにかじりついている。昔のファンに受けた旧体制の映画を作っていたのでは、現代の観客をつなぎ止められん」と一蹴する。石井路線で助監督をやっていた荒井美三雄を『温泉ポン引女中』で監督に昇格させると助監督らの足並みが揃わず、騒動は沈静化した。急先鋒だった関本郁夫は岡田に見出され、石井が東映ポルノから撤退したあと東映ポルノの主力監督になる。
B級スターのみの出演にもかかわらず、1968年の年間配給収入ベストテンに入り、同じ東映で鶴田浩二・高倉健・藤純子らが出た任侠映画『人生劇場 飛車角と吉良常』(内田吐夢監督)を配収で上回るコストパフォーマンスだった。女刑十四種と尼剃髪と緊縛指導の見世物は、任侠の看板を興行で抜き、異常性愛路線を次作『徳川いれずみ師 責め地獄』へ押し進めた。
団鬼六と辻村隆を緊縛指導に呼んだことが、この映画を単なる時代劇の拷問描写から切り離している。当時のSM誌と縄の現場で巨匠と呼ばれていた二人の手つきが、東映京都のセットで女刑十四種の形になった。石井自身が猟奇趣味を公言していたこともあり、与力のサディズムは心理描写というより、見せるための装置である。全三話のオムニバスは、人間的な与力・吉岡とサディスティックな与力・南原を往復しながら、刑罰のカタログを進める。第二話の尼剃髪は、役の頭を実際に剃ることで、スクリーンの外の身体を見世物に組み込んだ。前貼りすら常識でなかった撮影所で全裸が走り、任侠スターが反撥し、朝日と佐藤忠男が吐き、助監督が掲示板に声明を貼る——その一連が、公開年の東映内部の温度を示している。
岡田茂の「押せ押せ」は、おとなしい大ヒットの次に、もっとグロく、もっと縄を出せ、という興行の命令だった。石井が「もともと私の発案ではありません」と会社へ責任を返したとき、岡田は旧体制のファンはテレビに移った、と一蹴した。テーマのない映画があってもいい、という石井の言い方も、女刑十四種を物語ではなく見世物として組んだことの裏返しである。荒井美三雄の監督昇格で助監督の足並みが崩れ、排斥は沈静化する。関本郁夫がのちに東映ポルノの主力になるのは、この騒動の延長にある。1968年の配収が任侠大作を超えた事実は、SM時代劇がB級の悪趣味ではなく、当時の観客を繋ぎ止める商品だったことを示している。徳川の女刑は、東映異常性愛路線の型見本であり、翌年の刺青と23種の責めへそのまま続く。











