ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌 第一章 萌芽 (1/7)
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登場人物
浅
岡
智
三十代前半の会社員。大学の後輩だった妻・咲美とは結婚してから五年が経つが、順風満帆な生活を送っている。だが、藪沼と出会ったことで寝取られ性癖に火がつくことに。
浅
岡
咲
美
智の妻で一児の母。明るく健康的で素朴な愛らしさがあり、気は強いが心根は優しく、清廉で快活な性格。半年前からスーパーでパートとして働いている。
藪
沼
幹
夫
咲美のパート先の副店長。推定年齢五十代後半、三白眼に鷲鼻、厚い唇という不格好な外見。上の者には媚びへつらい、目下には偉ぶる性格から、咲美に嫌われている。
第一章 萌芽
1
もうじき夏がやって来るというのに、妙に肌寒さが身に染みた、夜。
「──ただいま」
残業を終え帰参した自宅玄関にて。
浅
岡
智
は、すでに就寝しているやも知れぬ家人を気遣って、抑えた声量で恒例の言葉を投げかけた。その言葉尻が消えるやというタイミングで、リビングの方からぱたぱたとスリッパ履きの足音がやってくる。
「おかえりなさい」
間もなく顔を見せた人物が、いつも通りの優しい笑みを携えて応答してくれた。
「ん。ただいま。起きて、待っててくれたんだ」
外から見た我が家のリビングに明かりが点っていたので、期待してはいた。が、実際に待ってくれていたのがわかると、ひと際の嬉しさがこみ上げる。玄関先までやってきた妻、咲美の穏やかな笑顔に出迎えられ、智は釣られるように破顔した。
「残業、お疲れさま」
「先に寝ててくれてよかったのに」
急に残業が決まった時点で連絡しておいた言葉を繰り返す夫に対し。
「一人で食べるご飯って味気ないじゃない? せっかく作ったお料理、どうせならできるだけ美味しく食べてもらいたいもの」
妻は事も無げに言ってのける。
中肉中背の体型に無地のカットソーとジーンズという、いつも通りのラフな服装を纏い、さらにその上からエプロンを着けた、咲美。眩い笑顔を浮かべるその容姿は、目立つ美人タイプではないが、明るく素朴な愛らしさに溢れている。肩先に届くか届かないかの長さのヘアスタイルが、はつらつとした雰囲気をより際立たせてもいた。
(僕には、もったいないくらいの嫁さんだ)
また釣られて顔綻ばせ、智はしみじみと再認識した。
咲美が寝ずに待ってくれていたおかげで、屋内は充分に暖まっている。玄関先でこうなのだから、夕餉の構えられているリビングに入れば、冷えた身体も芯から温まるはずだ。
「先にお風呂にする? それともご飯、先にする?」
受け取った夫の鞄を胸に抱え持ちながら尋ねてくる妻の言葉から、風呂も沸かしてあるのを知り、また新たな感謝の気持ちを抱かされた。
咲美が風呂という選択を先に掲げたのは、夫がいつもそちらを選ぶのを知っているからだ。結婚して五年という歳月の積み重ねが、そうした些細な部分からも読み取れて、身体に先んじて智の心が温もった。
「風呂にするよ。早めに済ませるから、すまないけどもう少しだけご飯、待っててくれるかな」
了解、と声弾ませて応えた妻の姿に、夫が笑顔で頷きを返した直後。続けて彼女の口から「実は先に少しつまみ食いしちゃったんだ」とおどけた告白が飛び出して、思わず吹き出してしまった。そんな夫を見て、一層妻の表情が綻ぶ。
ようやく靴を脱いで室内に上がった智が二歩前に進んで所定の位置につくと、咲美は背後に回ってスーツの上着を脱がせてくれる。夫が家族を養うため就労した証である鞄とスーツを、彼女は愛しそうに抱き抱え、細めた瞳で見やる。
情の深い所は、初めて出会った十九の頃から変わらない。明るく真面目で、態度も飾らない咲美の周りには、大学生当時、いつも自然と人の輪ができていた。
無論、男たちの中には咲美を恋人にしたいと狙う者が何人もいた。
(僕も、最初はその中の一人に過ぎなかった)
人気者の咲美を他の者に奪われまいと、日々懸命にアタックした結果として、今がある。過去の自分の必死さに苦笑すると同時に、咲美と過ごす今の幸せを噛み締めた。
愛しい人と共に過ごせた学生時代。卒業後の同棲。そして結婚から今日に至るまでの愛情を育んだ日々。どれも掛け替えのない宝物として胸に息づいている。
咲美もそうであればいい。そうであってほしいと願うから、家族となった彼女のために今日も一日仕事を頑張れた。──と考え至ったところでさすがに気恥ずかしくなり。
「さすがに
智
美
は寝ちゃってるよな……」
ネクタイを緩めつつ、智はもうひとつの宝物の所在を妻に問う。
「起きてるって言って、ずっと待ってたんだけどね。さすがに九時前には寝ちゃったわ。夕ご飯もお腹いっぱい食べてくれたし、お風呂もあたしが入れておいたから」
「そっか」
先の「一人で食べるご飯は味気ない」発言と併せて考えるに、咲美の「つまみ食い」は愛娘に寂しい思いをさせぬための気配りだったのだろう。娘と一緒に摂った軽めの食事を、あえて茶目っ気たっぷりに表現してみせたのでは──そう思うと、余計に愛おしさがこみ上げる。
いつも一緒に入浴する一人娘、智美。二十一歳の誕生日を迎え、最近、話す言葉も増えてきた愛娘が、妻と二人で賑やかにお喋りしつつ父親の帰宅を待ち詫びている──。想像するだけでも微笑ましく、今すぐ子供部屋へ寝顔を見に行きたい衝動に駆られる。
本当は自分もそこに交ざり談笑したかったけれど、今日ばかりは今抱けている温かい気持ちで満足しよう。頭を切り替えた智が脱衣所へ向かうべく一歩踏み出した矢先。
「久しぶりに夫婦水入らずだね」
照れた様子がよく伝わる声音に振り向かされる。先ほどまでと一転俯きがちとなった妻の照れ気味の笑顔が、目に飛びこんできた。明かりによる陰影の影響か、妙に艶めかしく映る愛妻の表情に、否応なしに惹きつけられる。
さらに風呂へ向かっていたという状況が重なった結果。そういえば──と、不意に智の脳裏にひとつの疑問が生じた。
(咲美と最後に一緒に風呂に入ったのは、いつ……だったっけ……)少なくとも、智美が生まれてからは一度もない。現在二十一歳の智美が咲美の胎内にいた時期も、なかったはず。となると、最低でも四年ほどないことになる。
理由としては、やはり智美の存在が大きかったように思う。子が生まれたことで親という立場をより強く意識することになり、結婚前の恋人時代のような浮かれた気持ちになる機会が減った。代わりに、今しがたのように家族があるからこその幸せを噛み締める時間は、年を経るごとに増えてきている。
それは当たり前のこと、という認識でいた。おそらく咲美も同じ認識を有しているだろう、とも思う。
一方で、久方ぶりに我が身に湧き起こっている感情の正体、無意識に目が妻の胸や腰に向かってしまう理由にも思い当たり、智の口からため息が漏れた。
カットソーとエプロンを押し上げている双丘は、夫の手にやや余るサイズ。大き過ぎず、かといって物足らなさを感じもしない、夫の理想にぴたり合致した美丘だ。それが咲美の息遣いに合わせてわずかに上下している。
釣られて動く夫の目線と、乱れ始めた吐息を、咲美はどう見ているだろうか。妻の視線を意識するほど、昂奮に手がつけられなくなっていく。
「智?」
脱衣所へ向かっていた足を止めたまま動かない夫の様子を訝しみ、咲美が顔を覗きこんできた。
「どうしたのよ、急に立ち止まって」
その不思議そうな表情からして、妻がそういうつもりで二人きりの時間を意識させたのではないのは一目瞭然。
なのに夫の視線は、自然と新たな性的ポイントへと走っていった。ジーンズのデニム生地をむっちりと押し上げる愛妻の尻と太腿を凝視する。産後から肉感の増した腰つきに指を食い入らせた際の感触、それに伴う彼女の感応。かつては恋人として、今は夫として、数えきれぬほど味わってきただけに、容易に想起できてしまい、知らず知らず鼻息が荒ぶる。
(……そういや、先週からしてなかったな)
先週の土曜の夜。今と同じくらいの時刻に寝床に夫婦揃って潜り、いざ、というタイミングで智美が起きてきて愚図りだし、有耶無耶になってしまったのを思い出す。
以来一週間、夜の営みはご無沙汰だ。それ自体は、ここ数年の夫婦生活において珍しい事態ではなかった。
夜暗がりの陰影が奇跡的に嵌まって咲美の顔に描いた艶を、偶然目にしていなければ、今夜も風呂と食事を済ませ、団欒に興じた後は疲れを理由に就寝していたはず。
(今、咲美に、一緒に風呂に入ろう……って告げたら、どんな顔するだろう)夫の言わんとしている真意を察してくれるだろうか。察してもらえたとして、同意してもらえるだろうか。
肉体の疲弊ぶりとは裏腹に、期待をこめた鼓動を始めた心臓に急かされながら考える。その間も、智の目は咲美の身体に釘づけとなっていた。
夫の腰遣いに合わせて紡がれる嬌声の心地よき調べ。揉み捏ねる乳房の柔らかさ、熱、弾力、ひしゃげたフォルム。突き出された夫の腹や腿と、受け止める妻の尻や腿。双方がぶつかって打ち鳴らされる、肉の弾けるような音色。そこに付随する汗と愛蜜の香りに至るまで。
果たされれば二週間ぶりとなる情事を妄想して、心は着々と期待を蓄積し続ける。
一方で、帰りの遅かった夫を待ち続け、娘の面倒を見てくれてもいた妻の疲れを気遣う気持ちが、性欲任せの行動に傾倒しようとする肉体にブレーキをかけてもいた。
言い出そうか、やめようか。
「あ、あのさ。咲美……」
決めあぐねたまま愛妻の名を呼んだ、智の眼前で。
「こ~ら。どこ見てんだ」
妻はあどけない笑顔を保ったまま、夫の胸へ飛び入るなり、上目遣いに覗きこんでくる。その一連の挙動にまた、夫の胸は高鳴る。
次いで、寄り添う咲美の肉感が伝わり、男根がいよいよ反応した。
「さ、咲美っ? 急にどうしたっ」
就労による蒸れも相まって、ペニスを解放したい想いに囚われる。それでも理性が勝り、平静を装い──果たして装えているかハラハラしつつ──妻に意図を問う。
「どうした、はこっちの台詞ですぅ。ぼうっとしてぇ」
しどろもどろの夫を前に、むくれっ面になった妻が言う。それから、また一転。
「……早くお風呂入ってご飯食べないと、時間……なくなっちゃうよ?」
拗ねた様子と甘えた雰囲気。恋人時代には毎日のようにベッドの中で眺められていたそれらを携えて、夫の袖を掴み、妻が告げた。
恥ずかしがり屋の彼女なりの、精一杯のお誘い──。すぐに理解し、唾を飲む。いらぬ気を回していたのだ、という徒労感と安堵が胸に染み、束の間、性的昂揚を忘れさせた。
「あ……ああ、うん。すぐ、洗って出てくるから!」
すべて察したその上で受け入れてくれた愛妻への感謝と愛情を胸に抱き、智は急ぎ足で脱衣所へと駆け込んだ。そんな夫の姿が微笑ましく映ったのだろう。
「ちゃんと隅々まで洗っておいてくれなきゃ、嫌だからねーっ」
からかう咲美の顔には再びいつもの、華やぐような笑顔が戻っていた。
2
「それじゃ」
「お疲れさんでしたぁ」
退社する同僚の送別会が二次会まで終わり、参加者たちが思い思いの方角へ散ってゆく。まだ飲み足りぬと三次会の参加を募る者、加わる者。単身、または少数で別の酒場へと向かう者。いずれも引き続き酒宴を楽しもうと盛り上がる者が大勢いる中、智は足早に帰路を歩んでいた。
(もっと早めに切り上げて帰るつもり、だったんだがなぁ)二次会まではと親しい同僚に請われたせいもあり、予定よりも遅い時刻までつき合う羽目となった。送別会が楽しくなかったわけではなかったが、夜風に頬を撫でられながら単身、賑やかな繁華街を歩いていると、余計に家族が恋しくなる。
娘の智美はすでに眠りについているだろうが、そっと寝顔を拝むだけでも明日への活力となる。咲美はきっとまた今夜も起きて待っていてくれていることだろう。
早く帰って家族の顔を見たい気持ちが強まり、智の足取りは忙しさを増した。
時刻、状況が先週の残業の時と似通っていることも、急ぎ帰宅したい理由の一つ。ついつい先週の妻との睦事を回顧し、智の頬と胸に酔いとは別の火照りが生まれた。
「ふー……っ」
酔った息を吐き出せば、その分熱を失った身体の芯が震える。余計に記憶の中の妻の柔肌が恋しくなり、疲れ知らずの足が前進し続けた。早く帰れば今夜も、という期待で気もそぞろとなり、周囲を見渡して確認するのを怠った、その結果。
「……ん?」
最寄りの駅に向かう道を歩んでいたはずが、はたと立ち止まり周りを見渡すと、見覚えのない景色に囲まれている。見覚えはないのだけれど、一見してどういった所なのかが判然とする、けばけばしいネオンが跋扈する街並み。
行き交う人々も特徴的で、視界に映る限りすべてが男女の組み合わせであり、皆一様にそそくさとした足取りでそこかしこの店や宿泊施設の中へと消えてゆく。
すれ違うカップルが軒並み愛しげに肌を寄せ合っているのが嫌でも目に入ってきて、思わず大学生時代に咲美とラブホテルを利用したことを思い出した。
当時は自由に使える金が限られていて、頻繁にとはいかなかったが、それでもクリスマスやバレンタイン、ホワイトデー、どちらかの誕生日。そうした特別な日によく利用した。利用の際は、決まっていつも「ご宿泊」。朝まで咲美を離さなかった。互いに若い盛りだったとはいえ、咲美もよく応えてくれたものだと、今になって思う。
情動に突き動かされていた学生時代を懐かしんでいると、胸の奥が仄かに疼く感覚に囚われもした。
(まだ十年と経ってない話なのに、妙に遠い昔のように思える)多数の男子に人気のあった咲美の心と身体を繋ぎ留めようと躍起だった恋人時代、セックスもそのための一手段として機能していた。
それが結婚という儀式を経て、法的にも認められた関係、家族になり。娘が生まれて親となり。確かな絆を育み続けている今。当時のように貪欲に、咲美の心と身体を欲する理由がない。
咲美への興味が薄れたのではない。夫婦として過ごす中で互いの気持ちが通い合った結果、咲美の愛情を失う危機感が薄らいだのだ。
(道端で何、考えてんだか)
夜風に吹かれた瞬間、気恥ずかしさと共に、早く帰宅して咲美の顔を見たいとの想いがこみ上げる。
(思ったよりも酔ってるのかもしれないな……)
注意を怠って道を間違えたことも含めて結論づけ、深いため息をひとつ。吐き終えた後に身を翻す。行き間違えた地点まで戻ろうと歩み始めてから、一分と経たぬ内。
「わははっ」
一軒の店から出てきた中年男性の、上機嫌な声に目が向いた。随分と歳の離れた女性を連れているのを見た瞬間「いかにもだ」と感じ、智は目を逸らした。
濃いめのメイクに派手な着飾りよう、擦
れた印象から、智は女を水商売従事者と推察した。その連れである男は年嵩で、一瞥した際の印象は「冴えない」の一言。
二人は親しくじゃれつくでもなく、妙にさばさばした雰囲気で接しているようでもあった。とても夫婦や恋人であるように思えない。
極力関わりたくない。瞬時に判断し、智は目線を逸らせたまま、まだ店前で何事かやり取りしている彼らの脇を通り過ぎることにした。
急く気持ちを反映した大股で十歩も歩いた時点で、ミスマッチカップルの詳細な外見が判別できる距離となる。
(……あ!)
目線を逸らして通り過ぎようとしていたにもかかわわらず、智は惹きこまれるように年嵩男性の顔を拝んでしまった。さらに間が悪いことに、目まで合ってしまう。一瞬だったが、年嵩男がばつの悪そうな表情となったのを視認した。それでつい、さらに見入ってしまう。
五十代後半ほどと思しき、くたびれた雰囲気の男。派手に着飾った女性と並ぶことでより冴えなさが際立つその男は、極めて特徴的な顔の作りを有していた。
よくよく見ねば開いているのかどうか判別しがたいほどの三白眼に、右鼻孔そばに瘤のついた鷲鼻。厚い唇の横には大きなホクロもあった。さらには顔中にクレーターのようなブツブツの出来物が敷き詰められている。
それらだけでも生理的嫌悪を催すというのに、イヤらしい──そうとしか形容しようのないニタつき笑いまで浮かべているのだから、堪らない。一目見れば記憶にこびりつき、夢に出て来そうなほど、悪い意味で印象を残す面構えだ。
(この顔、どこかで……)
強烈なインパクトをもたらす相手の顔を見つめるほどに、智の中で、この顔を見るのは初めてではない、との思いが強くなる。確かに、見覚えがある。
けれど、どこで見たのだったか。智の、酔いの回った頭が答えを出すよりも早く。
「どうも。こんばんは、浅岡さん」
機先を制するように、あちら側から声をかけてくる。
(……
!?
)
名字を知られていることに驚き、目を剥いて強張ってしまった智を視認したにもかかわらず、自身の狼狽えを隠すためだろうか、男の早口は止まらない。
「いやあ、まずいとこを見られちゃいましたな。いつも奥さんにはお世話様でございます」
終始腰の低い、けれどどこか粘着質な嫌らしさを感じずにいられない口調で挨拶される。その言葉に含まれる「奥さん」という単語が、答えを引き出した。
苦虫を噛み潰したような咲美の表情と共に智の脳裏に浮かび上がったのは──。
(……ヤブ……ヌマ? ……
藪
沼
!)
少しバツの悪そうな表情を形作ってみせている相手の名を思い出すのと同時に、その名を初めて聞いた時の記憶が智の脳裏に甦る。
(たしか、咲美がスーパーに勤めだして間もない頃だった──)「サイアク。あいつ」
それは、咲美にしては珍しい苛立ちと嫌悪の詰まった音声で紡がれた。
「え?」
「ヤ、ブ、ヌ、マ!」
鸚
鵡
返ししたばっかりに、とばっちりを食ったのも思い出す。
「ヤブ……? あぁ。たしか、スーパーの副店長さんだっけ」
前日までは「副店長」と呼称していたのが、とうとう今回は呼び捨てに降格している。その点からも咲美の怒りの程度が窺えた。
「毎日ぶちまけなきゃならんほど、アレな人なのかい?」
誰相手でも分け隔てなく接する妻に、これほど忌み嫌われている男──悪い意味で、興味が湧いたのを覚えている。
「何度やめてっていっても馴れ馴れしい呼び方してくるし。人が嫌がるのをわかっててよ!?
何度注意しても、ニタッと笑って悪びれないんだから。それだけじゃなくて、ベタベタ触ってもくるんだよ!?
……ほんとヤダ」
身震いしながら語気を荒らげ、心底からの嫌悪を表明する咲美。その様子を見るにつけ、聞いているだけのこちらまで嫌な気持ちにさせられた。
「どこの会社にも一人はいるよ、そういうオヤジ」
「智は平気なんだ、あたしがセクハラされても!」
まずは咲美をなだめて、と思ったが無理そうだ。
咲美が愚痴をこぼすほどだからよっぽどだ、と心配はしつつも、この時はまだ「どこにでもある、よくある話」という認識の範疇で考えていた。
(どこの職場にもある話だ。だから、「あまり関わらないように」と咲美に注意喚起した程度で、その時も話は終わって……)それから数週間の後。早くに仕事が片付いたこともあり、車で咲美を職場まで迎えに行った折、今も眼前に立つ男の顔を初めて拝んだのだ。一瞥しただけだったが、その強烈な印象は今なお忘れることなく、智の記憶の隅にこびりついていた。
藪沼
幹
夫
。半年前からパートタイマーとして咲美が勤め始めたスーパーの、副店長をしている男だ。
上の者には媚びへつらっているくせに、新人バイトなど、目下の相手とみるや偉ぶり、ネチネチと中身のない説教を繰り返す。身の程弁えず女好きで、セクハラまがいのことをされているのは咲美だけではないという。
話を聞くだけでも屑ぶりが窺えたが、実際まみえてみて、咲美の言葉に何ら誇張のなかったことが実感できた。
「浅岡さんのご主人ですよね?」
すでに心証最悪の男は、こちらの出方を窺うように細い三白眼でねめつけつつ語りかけてくる。その間、連れの三十路女性の腰に回した手を、もぞもぞと動かし続けてもいた。
(咲美にもそうやって、セクハラしてんのか!)
思わず怒鳴りつけたくなるのを堪え、当たり障りのない言葉を選び取る。
「あぁ、はい。……たしか藪沼……さん、ですよね?」
「こりゃ覚えていただいて恐縮です」
「いつも妻がお世話になってます」
互いに外面を繕った状態での白々しい対話が続くことに、智は終始辟易とするばかりだった。
「いえいえ、こちらこそ。しかし、とんだ場所でお会いしまして……」
男の言葉につられるようにして店を見上げた智の視界に、ネオン看板が映りこむ。
カップル喫茶・ラマン。それが、藪沼と連れの女性が先刻までこもっていたであろう店の名だった。
カップル喫茶なる店に入店した経験は智にはなかったが、どういった店であるのかについては、以前又聞きしてわずかばかりの知識を有していた。同伴席が設けられ、カップルが睦むひと時を過ごすための喫茶店。ただ手と手、肩と肩を寄せ合うにとどまらず、時と場合によってはより深い、性的な交流を伴うという話も耳にしていた。
聞きかじりでしかないがゆえにどこまでが真実なのかはわからない。なれどいかがわしい雰囲気を醸す歓楽街の只中に在る事実に、藪沼の態度も鑑みれば、当たらずとも遠からずといった所だろう。
結論づけてしまうと、自然と智の視線は藪沼の連れている女性へと向かった。
近くで見ると余計に派手な容姿が目につく。濃いメイクのせいで判断し辛いが、歳の頃は三十を超えるかどうかといった所だろう。顔はぎりぎり美人の部類と言える程度で、愛想もある。が、それは明らかに商売用のものとわかる作り笑い。日々妻の屈託のない笑顔を見ている智の目には、酷く空虚なものとして映った。
「ぁん。もう。ちょっとぉ」
彼女は延々尻を撫でる藪沼に対し、言葉と表情、身振りも交えて嫌悪を示している。
なのに、同調するように尻を悩ましく揺らしてもいた。男の手管に順応してくねる腰つきからも、嫌と告げながら時折熱い息を吐くぽってりとした唇からも。男と絡み交わることに馴れているのが伝わる。
今いる場所が歓楽街とはいえ道端なのを忘れそうになる。そんな非日常的な光景から目を背けると共に、智の胸中でより一層藪沼への嫌悪感情が積もった。
(愛人か、風俗嬢か。とにかく金で買った女と連れ立って、いかがわしい店を楽しんでいたのだ、目の前のこの男は!)藪沼は既婚者だと、咲美は言っていた。奴がそわそわとしているのは、浮気現場を見られた心苦しさゆえに違いない。そのくせ、未だ満足してないとでも言いたげに、執拗に連れの女の尻を撫で繰り続けている。
藪沼という男のネチネチとした性分、性欲の強さを垣間見た気がして、むかつきを通り越して、えずきたい思いに駆られた。
「それじゃ……」
苦虫を噛み潰したいのを堪え、能面めいた無表情を繕って会釈する。形ばかりの礼儀を通しておいて足早に立ち去ろうとしているのを、察したからなのか、どうなのか。
「──実は、うちは妻公認なんですよ。妻はこの女性の旦那と先に出て行ったところでして」
藪沼は理解しがたい一言を、去りかけの背に向けて放ってみせた。
「……えっ」
男の言葉の意味するところを即座には理解できず。なのに、智は振り返ってしまった。そうして、藪沼のニタつき笑いに出迎えられ。
「いわゆるスワッピングというやつです」
続け様に奴が発した言葉。そこに含まれる単語に、頭をハンマーでぶん殴られたような強い衝撃を受けた。
スワッピング。それがパートナーを交換する異常性癖であるということは、知っている。ただ知識として有するのみの、自分とは終ぞ関わりのない世界の話だと思っていた。その非現実感と、眼前の男の自慢げな態度。二つが組み合わさることで、得体の知れぬ不安が智の内に生じる。
(この男はおかしい。変態だ。そんな奴の話にこれ以上つき合っていてはいけない)一刻も早く立ち去るべきだ。そう、心臓がひっきりなしに警鐘を打ち鳴らしているにもかかわらず──。
「おや、興味がおありで?」
ニタつき笑いをやめない藪沼の瞳が一瞬、見開いた。この男はまだ何事か語るつもりだ。そう理解した途端。
智の足は、地に縫いつけられたかのように動けなくなった。それが奴からの問いかけに対する答えとなると知りながら、唾を飲み、目を剥いて、藪沼の卑しい面を見つめてしまう。
「い、いえ」
自身の発した返事がうすら寒く感じられるのに驚き固まる智の眼前で、女の尻を撫でながら藪沼がにんまりと口角を上げる。
相対する男の動揺を嘲笑っているのか。それとも、ただ自慢したいだけなのか。判別する暇もなく、智はまず、己の胸の内の把握に追われた。
(男の言葉が耳慣れなかったから、立ち止まっただけだ)その程度の興味。それ以上の意味など、ありはしない。
(当たり前だ。どこの世界に、愛する妻を他人へ差し出して悦ぶ馬鹿がいる。少なくとも僕は、そんな変態性癖に理解はないし、したいとも思ってない)理性に照らし合わせて結論を得ると、胸中に藪沼への蔑みがひしめいた。藪沼がこのような行為に耽れるのは、妻を愛していないからに他ならない。
(そうに決まってる……!)
だが、藪沼の異常性癖を忌み蔑む一方で、智は我が内より湧き出る感情がそれだけではなく、得体の知れぬ何かを含めているような予感に囚われてもいた。それがなんであるのか、究明を試みるほどに、困惑と混迷が増長する。
心の葛藤をよそに、前のめりとなった身体は聞きの姿勢を明確に打ち出している。
そんな智の動向を、細い三白眼で余すことなく捉えておきながら。
「こりゃ、お若い夫婦に失礼でしたな。どうか奥さんには内緒で。ハハハ。失礼しました」
藪沼はまったく心のこもってない謝罪をして、話を切り上げ、背を向ける。
「待っ……」
智は思わず出かけた言葉を呑みこみ、呆然と、水商売女性と共に去りゆく男の背中を見送ることしかできなかった。
奴の背中が視界から消えた後、改めて酔いを醒まそうと首を二度三度左右に振る。
「……咲美……」
誰に言うでもなくつぶやいた名と共に、頭に浮かんだ愛妻の笑顔が、なお焦燥を呼びこむ。早く妻の顔を見て、安堵したい。妻と子の待つ温かな家庭に戻れば、藪沼の話など、瞬時に消し飛んでしまうはずだ。
(興味を惹かれたのは一時の気の迷い、酒の酔いのせい。それだけのこと)駅へと向かう間中、繰り返し頭の中で復唱し、言い聞かせる。
電車に乗り、吊り革を掴んで立ち尽くす間も。自宅最寄りの駅へ着き、タクシーに乗りこむ際も。身に宿ったそわつきは潰えず。
スワッピング、夫婦交換。非日常的な言葉が、脳内でぐるぐると廻り続ける。
(どうして、奴……藪沼は、急にあんな話をしたんだ。わざわざ、職場で顔を合わせる咲美の旦那である、僕に向けて……)考えあぐねる智の脳裏に、日々藪沼にセクハラを受けていると憤っていた咲美の顔が唐突にフラッシュバックする。それを受けて行き当たった、まさかの、最低の予想に戦慄した。
(まさか。奴は……咲美を狙って……。だから、あんな話を聞かせたのか? 僕に、スワッピングを持ちかけるつもりで、あわよくばとの思惑で……)咲美は、夫と娘を真摯に愛する、今時珍しいくらいの真面目な、身持ちの堅さを有している。藪沼の狙いがどうあれ、不貞に及ぶなどありえぬ話だ。
卑しき想像を思い浮かべた己への羞恥と嫌悪が湧く。と同時に、それでもなお、智は「もしかして」と思い巡らさずにはいられなかった。
あの、卑しさに満ちた男の指が、舌が、唇が、愛しき妻の身に這うとしたら。
「……っ
!!
」
思い浮かべた脳天と締めつけられた胸をむしりたくて堪らなくなるほどの熾烈な嫉妬が沸き起こり、悪寒と震えが全身に巡った。吐き気を伴う妄想は、いくら頭を振っても剥がれ落ちてはくれず。苦しげに呻いたがためにタクシーの運転手に気遣われて以降、智はしきりに咳をして風邪を装うのに腐心した。
体裁を気にしたのではない。ただただ、己の内に潜む異常な感情を打ち消したい、無いことにしたい一心で起こした行動だった。
(咲美が他の男に……それも咲美が嫌ってる藪沼になんて……想像しただけでっ)学生時代さながらの強烈な嫉妬に蝕まれ、今すぐ咲美を抱き締めたい衝動がいよいよ抑えがたくなる。久しく忘れていた激情に揺り動かされたために、頭の中も胸の内も、瞬く間に愛妻への想いで満杯となった。
間もなく着いた我が家の明かりに引きこまれるように、精算を急ぎ済ませて降車し、家族の待つ玄関へと身を滑らせる。
「おかえり、智」
「おかえりさない、パパ」
愛する妻と娘。二つの笑顔に出迎えられた瞬間。
(……ああ)
彼女達を護り慈しみたい感情が湧いて出たことで、智の顔にようやく安堵の笑みが浮かんだ。待ちわびていた家主の笑顔を目にして、妻と娘の顔にも華やぐような──母娘で瓜二つの笑みが差しこむ。
「ちょっと顔色が悪いみたいだけど……大丈夫?」
「ああ。ちょっと、夏バテ気味かもしれない。先に、風呂をいただくよ」
よく気のつく妻を心配させぬため、小さな嘘をつく。ばれぬコツは、堂々とつき通すこと。まだ咲美とつき合い始める前、大学のシナリオ研究サークルの仲間でしかなかった頃に学び、以来ずっと心得ているやり方だ。
「うん。じゃあ、智美と一緒に待ってるから」
疑う様子のない妻に上着と鞄を預け、じゃれつく娘の頭を撫でてから、単身脱衣所へ向かう道すがら。
愛情に満ちた家族と共に在れる。
(これに勝る幸せが、あるものか)
今の幸せを噛み締め、憑き物が落ちたように晴れ晴れとした顔で前を向く。
智自身この時はまだ、己の内に巣食う因業の根深さに気づけてはいなかった。
ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌 第一章 萌芽 (1/7)
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