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ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌 · 第二章 カップル喫茶の暗がりで

ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌 第二章 カップル喫茶の暗がりで (2/7)
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第二章 カップル喫茶の暗がりで

1

夜の歓楽街で藪沼と遭遇してから、ひと月ほど経ったある日曜日。浅岡夫婦は路地に停めた車中で性交に及んだ。

「……だめだって」

智所有の国産車の窓に、ブラインドの類は実装されていない。停車している場所は、少ないとはいえ人の往来がないわけでは決してない。気をつけても第三者に事を目撃される可能性が排除できない状況にあるわけで、咲美が躊躇するのも当然と言えた。

「でも濡れてるよ」

それでも、智は食い下がった。伴侶の股間を撫で繰り、昂奮の証拠を確かめた上で車中での結合をせがむ。

「あんっ、もぉっ、智っ」

背もたれを倒され、ジーンズを脱がされるに至っては、咲美も観念したように力を抜き、夫に身を任せる腹を固める。が、なお瞳には抗議の色を宿したまま。

「どうする? 今だって、どこかから覗かれてるかもしれないよ」

「やっ、だめ」

視線を意識させる物言いで煽ると、愛妻はことさら羞恥し、真っ赤になった顔を横に背けてしまう。同時に腰を捩って、飾り気のない白ショーツに包まれた、丸く大きめの臀部を揺らしもした。

「あ……ちょ、ちょっと智っ。やだ……やぁっ」

捩れた妻の身体を手で押して正面を向かせ、間を置かずにカットソーを捲り上げる。そうして露出させた双丘を覆うブラジャーも、無地の物。咲美が性行為に及ぶつもりでドライブに応じたのでない証とも言えるそっけない下着を目にしても、智の鼻息は収まらなかった。

「小さい頃から咲美を知ってる人が一杯いる町で、おっぱい丸出しにしちゃってるね」

今いる場所は咲美の実家から車で三十分ほどの距離にあり、彼女が通った大学にも程近い。

「やっ」

知り合いに出会う事態を想像して、咲美は再度身を硬くする。その一方で、夫の手に愛でられる愛妻のショーツ越しの股間は、熱を帯びていった。

「母校のすぐそばの通りで」

より舞台を意識させる言葉を放つと、耳まで真っ赤にして、咲美がまたイヤイヤと首を振った。もうすっかり湿り気を吸ってスジ状に染みの浮いたショーツの前面を、夫の手に押しつけながら──。

あえて彼女の知り合いに見つかる危険性の高い場所を選んだのは、正解だった。咲美の人一倍の羞恥心がプラスに作用するのを期待していた智は、思惑通りになった事を密かに喜んだ。

昼まで行動を共にしていた娘は、咲美の実家へと預けてある。迎えに行く約束の時間まで、まだ二時間以上。そのギリギリまで性交に勤しむつもりで、智は自らベルトを外し、ズボンとトランクスを一緒に下ろして、屹立した肉の棒を手に握る。

「

挿

れちゃっていい?」

ブラジャーのホックを外しながら尋ね、根元を捕まえた状態の肉の棒を見せつけた。こぼれ出た二つの乳丘が、覆いを外された反動で縦に弾む。その様を凝視して、智の肉棒は一層血潮を漲らせ、しなるように躍動した。

「あ……んっ、ほんと、やめようよ……智ぉ」

口だけの抗弁の傍ら、咲美が左右に投げ出した足の付け根をひくつかせ、潤む眼で無言の催促をよこす。

愛する妻の視線が脈打つ男根に注いでいることが、さらに夫の尊厳をくすぐった。智は勃起を握り締めたまま、身を乗り出して咲美の乳を吸った。

「ひゃ……あ……ンッ……だめ、それっ、あっあぁぁ」

吸引の強さによって伸び方の変わる乳房を、優しく揉み解してやりながら、舌先を蠢かす。舐め転がすにつれて硬くなってゆく乳首を、左右交互に愛でては甘い艶声を引き出した。

女体の準備を整えるのと同時に、改めて決断を迫る。

「誰が覗いてたって、咲美だってバレなきゃ、大丈夫。僕が覆い被さって隠すし、もし何かあっても、絶対に護るから」

まっすぐに見つめて告げると、咲美は羞恥でとっくに真っ赤の顔を、照れでより火照らせ。

「ん……もう……知ら……ないっ……」

視線を背けつつも、承諾の意思を示してくれた。夫の手がショーツのふちにかかっても払い除けようとせず、腰を浮かせて、脱がす助けともなってくれる。

「すごいな……いつもよりずっと、濡れてる」

人一倍の羞恥心を煽る作戦の予想以上の奏功ぶりに、目を見張る。ベッドで普通に営む際と比較して、明らかに蜜の量が多い。ヒクヒクと物欲しげに蠢く女陰の淫猥さが、日中の明るさの中で拝むと、より強烈に感じられもした。

「もぉっ、智っ、怒るよっ! ……そっちだって、いつもより、その……おっきくしてるじゃん……」

股に注視を浴びる羞恥に耐え忍びながら、咲美が拗ねた表情を形作る。その内に潜められた恍惚の彩りが、蕩けた彼女の眼差しから嗅ぎ取れてしまう。

「咲美が、とってもエッチだからだよ」

夫の率直な褒め言葉に、そっぽ向いたまま、羞恥と喜びを交えた笑みを密かにこぼす、咲美。

誰よりも愛おしい妻と、一刻も早く繋がりたい。滾る情愛を示すように肉の棒が天を突き、彼女の視線を独占する。もう、言葉での確認は必要なかった。気持ちは、視線で伝え合える。長い時をかけて築き上げた絆の確かさを噛み締めながら、熱漲る互いの生殖器を摺り合わす。

「んっ、ぁは……あぁ、んぁっあぁ」

聞き慣れているはずの妻の甘い鳴き声。それが今日はより高く、一層甘美に夫の耳朶をくすぐった。咲美も、夫の唇が漏らした息の熱を、嬉しげに目を細め、浴びている。共に、相手の肢体の放つ熱に浸り、摩擦の悦に酔っていく。

「と、智っ、早っ……く、っふぅっ、うぅンッ!」

とうとう堪えきれなくなって請願した咲美の、つゆだくの秘裂を勃起ペニスで穿った瞬間。これまでにない膣内の熱っぽさに驚かされる。同時に、痛切な恍惚の痺れが智の股間の芯に突き抜けた。

車中とはいえ白昼堂々人目のある場所で事に及ぶというスリルも相まって、熱情に憑かれた肉の棒を、繰り返し女陰へと突き刺す。

「あっ、あぁ、んっ! は、激しいよ智っ、あっ、やぁ、ぁひっあぁ……っ!」

日頃自宅のベッドで交わるのとは大違いの、貪るようなセックス。学生時代の貪欲さを思い返すに充分の、昂奮が確かに備わっていた。

目配せだけで互いの意図を察して、阿吽の呼吸で双方が腰を振る。ただ貪るのではなく、相手を愛でる意識を常に有し続けられてもいるから、なせること。理解していればこそ、見つめ合うだけで胸の奥から温かいものが溢れ出す。

身と心が、同時に満たされている。至福を噛み締めて然るべき、状況だった。

なのに──打ち消せたと思っていたあの言葉、スワッピングという単語が再び、智の内で鎌首をもたげだす。

(結婚前にもした事がなかった、カーセックスをしてるんだぞ!?

なのに……)

結婚前、ホテル代がなく、車中で互いの性器をまさぐったり、手や舌、口での愛撫に興じた経験はあった。しかしその時でさえ、人目につかぬ場所を選んでいたのだ。車中で性交にまで及ぶのは正真正銘今日が初めてだ。

いつも以上に喘いでいる咲美を前にして、突き立てる肉棒の硬度も熱量も増し続けている。

(なのにっ……どうして……まだ、足らないっていうのか!?)かつてを超える状況を作り、初めて尽くしの昂奮に浸かってなお及ばぬというなら、もはや胸内を占め始めた衝動に抗うすべなどないのでは──と。股間にひしめく愉悦とは真逆の、諦観じみた感覚が胸内に敷き詰められていく。

それに乗じて、また脳裏に浮かび上がる「もしも」の想像図。卑しき藪沼に抱かれて、今以上の嬌態を曝す咲美──。想像の中の藪沼以上に卑しい己を自覚せずにはいられぬ妄想に炙られて、智の肉棒は昂ぶった。

「あ、あぁっン……いい、よぉ智ぉ」

夫に突かれて悦ぶ咲美の鳴き声。今まさに肉棒で甘受する膣の温み、内壁のうねりと締まり。すべて藪沼に味わわれるとしたら──。卑しい妄想の連鎖に呑まれた夫の心臓が、早鐘のごとく鳴り続ける。荒ぶる吐息に乗せて撃ちこんだペニスの、痺れるような愉悦に溺れる一方で、許されざる妄想にのめりこんでゆく。

(咲美の性格も、好みもよくわかってるつもりだ)気が強く口は少し悪いが、心根は優しく、夫と娘を真摯に愛し、清廉で、間違ったことは他人事であっても口を挟む。強過ぎる正義感が玉に瑕の咲美が、浮気などもってのほかとの意識を有しているのは、今さら確かめるまでもない。

何より藪沼は、咲美が最も嫌うタイプなのだ。

(だから藪沼となんて、特にありえない。わかってるんだ)だが、否、だからこそ。藪沼と咲美が交わるという想像は、強烈な嫉妬をもたらした。最低の男に妻を奪われる危機感が、肉棒により一層の熱を漲らせもする。

家事も子育ても生き生きとこなす、自分にはもったいないほど素晴らしい妻。それが、毛嫌いしている醜い男に身を預ける姿を、最も大切な女性の穢されゆく様を、連想せずにいられない。

(僕はおかしくなってしまったのか?)

そう思い詰めながらも結局、藪沼に遭遇したあの夜からほぼ毎日。一度は振り払えたと思った卑しき妄想に溺れる日々を過ごしている。

(誰よりも愛しく、誰よりも大切な僕の妻……咲美が、あの下種な男と、あのセクハラオヤジと、ブツブツ顔で、粘着質な、あの藪沼と……っ)ありえない、という安心感をかさに着て、妄想は日々繰り返され、回を重ねるごとに内容が詳細、陰湿、猥褻になってゆく。

初恋の時がごとく痛む胸。嫉妬を糧に嬉々と弾む股間。痛苦と恍惚が混在する、通常の性的昂奮では決して味わえぬ感覚。その誘惑に抗えず、自慰に耽ったのも、一度や二度ではない。

切なさと空しさのみが残る射精後に、悔いる日々。その都度「もう、これで最後にしよう」と深く心に誓うのに、悔いる想いが強まるほどに明くる日の妄想は濃密になり、卑しき心身を惹きつける。

抜け出せぬまま、今日のように別の快楽を試すのが精々だ。

「……っ、咲美っ……」

苦悶する心境をひた隠し、腰を振る。するとやがて、表情の険しさの理由が心の苦悶に因るものなのか、腰に響く喜悦に因るのか、智自身にも判別できなくなった。

「と、智ぉっ、あたし、もうっ……」

夫の肉棒の忙しき脈動を気取って、妻が鳴く。きつく締まった膣壁でも限界を訴え、共の絶頂を乞うための、甘く媚びた声色が耳朶をくすぐった。

(藪沼に犯されても咲美は──)

同じような、表情と声色、身体の反応を見せるのだろうか?

(いや、これは僕だけのっ……夫である、僕だけのものだ……!)醜悪な妄想と占有欲に呑まれた肉棒が、爆ぜるがごとき鼓動を放つ。妻の体内に精を吐き出す一方で、智の胸中はなお嫉妬と渇望に喘いでいた。

2

──よりによって藪沼でなくてもいいだろう。妄想の中で咲美を汚す相手について、別の選択肢を探ったこともある。

例えば、咲美が大学時代に初めて──夫以外に唯一つき合った相手である男。

あるいはもっと無難な、あとくされの無い、名も知らぬ男では、どうか。

結局、いずれも藪沼ほどには嫉妬を煽らなかった。

そもそも他で想像しようとしても、藪沼の特徴的な顔、鷲鼻や三白眼がすでに脳裏に焼きついてしまっている。

(……あの男で、なければ)

自身でも理解不能なこだわりに頭を抱えながら。絶対にありえぬ話、という大前提の下。やがて智は、妄想を現実にするための道筋をも思考するようになっていた。

(できるはずない。天地がひっくり返ろうと、あの咲美が藪沼と、なんて……)いや、でも、こうすれば、百パーセントないとも言い切れぬのでは。

そんな馬鹿な。ありえない。

まさに禁断の方程式に挑む、狂った学者のごとく。一人きりになれる時間あらば、あらゆる想定をし、都度検討を重ねる。やがて寝る間も惜しみ、自ら時間を設けてまで没頭した。そうして幾週間を費やした末。

ついに、決して解けない方程式ではないかもしれない、という仄かな期待を寄せられるだけの、可能性にたどり着く。

(カーセックスをした、あの日。咲美が見せた、乱れぶり)羞恥心に由来する、それこそが最初の鍵となる。

(──本当に、いいのか? いざ、妄想が現実のものとなった時、僕は)正気でいられるだろうか。いや、このような考えに至っている時点で、とうに正気を失くしてしまっているのではないか。

(……そう。僕は、どうかしているのだ)

大切な妻であり、愛娘の良き母である咲美。何よりも護るべき存在と、忌み嫌う男とが情交に及ぶための道筋をせっせと考案している、馬鹿な夫。正気であろうはずが、ないではないか──。

己を責めることで束の間妻への罪悪感を掻き消す。その、悔い改めるべき時間までをも費やして、罪深き夫は作戦の詰めに取りかかる──。

3

やたらと蒸し暑い、ある平日。智は営業の仕事の合間を縫って、咲美の勤めるスーパーストアへと足を運んだ。

初夏の装いに彩られた雰囲気の店内は、多くの買い物客でごった返している。咲美の持ち場が生鮮食品売り場だということは知っていた。妻に会うには、まっすぐそちらへ向かえばいい。

だが、今日訪れたのは咲美に会う、それだけが目的ではない。

『明日のセール、憂鬱。だって藪沼が絶対ウロウロするから』

罪深き夫の脳裏に、妻が昨晩発した言葉が甦る。心底うんざりした表情と口調で紡がれた台詞。その忌み嫌われた相手をこそ、真っ先に探した。

先に妻と鉢合わせせぬよう、生鮮食品売り場にだけは近寄らず。不審がられぬ範疇で周囲を見渡しながら、店の隅々にまで目を光らす。

(……いた!)

どうか生鮮食品売り場以外に居てくれと願い探っていた智の視界に、遠目でも目当てのそれとわかる姿が飛びこんできたのは、入店から三分ほどが経った頃だった。

半袖のワイシャツに赤いネクタイ。首から社員証をぶら下げ、脂肪をベルトからはみ出させた男が、和菓子売り場の女性客とニヤニヤしながら話しこんでいる。

──藪沼だ。近づきながら顔を確認すると、智は一度踵を返して生鮮食品売り場のある方角に目をやった。耳も澄ませて、そちらから人が訪れそうな気配、物音のないのを確かめ、一層の緊張を身に宿す。

(咲美に見つかったら、計画はパーだ。急げ……っ!)いつ妻がやってくるともしれぬ不安を抱えたまま、決行の意思を固める。智は、改めて藪沼のいる方向へと足を向け、一気に距離を詰めた。

「おや?」

あえて目につくようにきょろきょろしながら近づいた甲斐あって、藪沼はすぐに近づいてくる存在に目を留めた。

「この前はどうも」

わざと前回の話を振った智を、困ったような、一方でどこか嬉しげな形相で見つめながら。藪沼はそそくさと女性客のそばから離れ、智の前へと摺り寄ってきた。

「奥さんなら、向こうの売り場にいるはずですよ」

「はい。ありがとうございます」

また、あの夜と同じだ。白々しい会話を交わしながら、智は思う。

藪沼はその細い眼でしばらく見つめてきたが、分厚い唇を少し歪めるようにして笑うと、言った。

「先日は失礼しましたな。驚かれましたでしょう」

しきりにむずついている奴の唇が、言葉で語らずとも示している。

(この下卑た男は、語りたくて仕方がないのだ。あの夜の続き……スワッピングの自慢話を、咲美の夫である僕に)さすがに職場ではおおっぴらに話さないだろう。だが、場所さえ変えれば、必ず語りだす。

確信が持てたことで、智の秘めたる計画も、いよいよ現実味を帯び始める。

(……咲美と藪沼が、なんてのは僕の想像の中でしかありえない話。僕は咲美を……信じてる)その妻を裏切ろうとしている己の行いは棚に上げ、彼女の貞操観念の強さにすがった。

(それに、もしうまくいったとして、危うい所でやめたっていい。仕掛け人の立場でいさえすれば、ストップをかける権利を有し続けられる)保険はかけてあると、繰り返し胸の内で反芻した末。抗えぬ誘惑に押されるがまま。

「その、件で。お話ししたいことが、あるんですが……」

智は、声に混じる震えを極力隠して、言葉を紡いだ。

「……ほう」

藪沼の細い三白眼が、値踏みをするようにねめつけてくる。そうして一分ほど、互いに無言で視線を交わし、腹の内を探り合った後。藪沼は、また分厚い唇をニタッと緩め、短く「お伺いしましょう」と告げた。

4

藪沼と二、三言交わした後。何食わぬ顔を装い、智は咲美の前に姿を見せた。

「あれ? どしたの」

爽やかな薄緑色の制服を身に着けた、妻。咲美は、夫の顔を見つけるなり歩み寄ってきて、突然の来訪の理由を尋ねる。小首を傾げながらも、彼女の表情は、職場での予期せぬ遭遇を喜んでいた。

自宅で出迎えてくれる際と同等に華やぐ妻の笑顔に、罪悪感を抱かされながら。

「うん、営業でこっち来たからちょっと寄ってみた」

また、嘘をつく。

「お弁当食べたの?」

毎日こしらえてもらっている愛妻弁当は、すでに腹に収めて空となっていた。咲美の料理は薄い味つけが基調だが、それも夫の身体を気遣ってのことと承知している。

(薄味なのを勘案しても、世界一美味い)

平素であれば、誰に聞かれても胸を張ってそう答えたであろう愛妻弁当。その味が、今日ばかりは気が急いていたために、ろくに記憶に残っていない。

「いや、まだ。飲み物買おうと思ってさ」

咲美に対する申し訳なさばかりが募る嘘をまた連ねて、智は繕い笑顔を浮かべた。笑顔のぎこちなさを補うための嘘も、昨晩すでに連ねてある。夫の口から伝えられた「また夏バテ気味」という嘘を、咲美は信じきっていた。

「待ってて。冷たいお茶でいい?」

「うん」

夫が嘘をつくとさえ思ってないだろう妻が、愛する者の疲れを癒そうとにっこり笑みかけてくれる。そうして照れたようにはにかんでから、小走りに駆けてゆく。

遠ざかる彼女の背中を目で追う智の胸中は、後悔と懺悔の思いで満杯となった。

──いつも夫を想ってくれる、あんないい妻を、罠に陥れようとしている。

(咲美を愛している、だからこそ僕は……)

他人に抱かれる彼女の痴態を夢想して激しい嫉妬で狂いそうになるのも、愛すればこそだ。嫉妬するたび愛情の深さを再認識し、誰にも奪われぬようにと、咲美の心と身体をこれまで以上に愛でてゆける──。

手前勝手な理屈なのは重々承知。その後ろめたさをもってしても、すでに胸内に留めおけぬほど、妄執は膨張してしまっていた。

妄想の暴走を甘露と感ずる己の異常を詰りつつ。智は、先刻密かに交わした藪沼との約束を、反芻していった。

5

咲美の職場を訪れてから、三日後。智は妄想を現実とするための、新たなステップを踏んだ。

「……きっと、疲れてるんだよ」

夫婦並んで身を横たえた寝室のベッド上。左隣に半裸を寄せる妻の言葉に、項垂れ、消え入りそうな声で「ごめん」と短く応じる。申し訳なさと情けなさを演出した夫を見つめる妻の表情は、一層辛そうに曇った。

「どしたの、もぉ! 智らしくないよ。今日はやめとこ、ね」

愛妻はまず真っ先に夫を想い、叱咤、励まし、労いの言葉を次々とかけてくれる。

けれど先刻、夜の営みに及ぼうと露出した夫の股間で項垂れたままでいる男根を目に留めた一瞬。彼女の瞳は動揺し、明らかな落胆に彩られてもいた。

(咲美にあんな目で見られるなんて……)

夫が夕食後と就寝直前の二度にわたってトイレにこもり、自慰をして精を放っていたなどと、彼女は知る由もないのだから仕方ない。そもそも己で撒いた種ではないか。頭で理解してはいても、胸に溢れる情けなさをどうすることもできなかった。

その一方で、彼女の失望を浴びた瞬間に思わず反骨しかけた肉棒を慌てて手で覆い、さも勃たぬのが恥ずかしくて隠した風を装うのを忘れなかったのだ。

本当は、二度の自慰では抑えるに至らなかった咲美への情愛が湧き溢れ、勃起という証を今も立てたくて堪らない。切々と腰に轟く衝動を振りきるために愛妻の肌から目を逸らしたのに、合わす顔がない風をまた装った。

「……きっと、ぐっすり寝て、疲れを取れば大丈夫だよ」

紡がれる励ましの言葉は、彼女自身に言い聞かせるためのものでもあるのかもしれない。夫の目にそう映るほど、咲美はショックを隠せていない。

愛の営みの一つであるセックスを拒まれたように、感じたのやもしれない。落ちこんでいる愛妻を見るにつけ、急膨張した罪悪感が、智の胸を抉る。

これほど愛しく想える妻を、我が手でさらに罠に嵌めようというのだ。

(僕は、最低の夫だ……)

噴き上がる罪悪感を、禁忌の領域へ今まさに踏みこまんとしている昂揚感が相殺する。その歪さを認識していながら。

「最近、おかしいんだ。ほら、この前、車の中で……しただろ」

おかしい、という部分を強調して語って聞かせ、悩んでいる雰囲気を強く醸した。

「う、うん……」

カーセックスの一部始終、その際夫婦共に激しく盛った事実を思い出し、咲美が赤らめた顔を俯かす。

「ああいう、ちょっと変わった刺激がないとダメになってきてるような……」

「……えぇっ

!?

」

予想だにしていなかった告白に口を開けて驚きつつも、夫が股間の不調に関連する話をしていると思えばこそ、彼女は真剣な表情での傾聴姿勢を崩さない。

先ほど振り返ったばかりのカーセックスの際の夫(と自分)の昂奮ぶりを思えば、さもありなん──仮に妻がそうした考えに至っているとしたら、万々歳だ。

(まずは『夫は普通の行為では勃起できなくなっている』と認識してもらうこと)カーセックスも、今回の勃起不全演技も、そのための仕込みだ。

「あの時は、自分でも信じられないくらいに昂奮したんだ。いったいどうしちゃったんだろう」

悩む夫を見やる咲美の表情は、驚きと心配を交互に浮かべている。

「ヤバイよな、ほんと……ごめん」

「も、もうっ、きっと気のせいよ! ストレスか何かだって。気にしない気にしない」

頭を下げた夫を励まそうと無理して微笑み、髪の毛をクシャクシャと撫でてもくれる。いずれも咲美らしい労り方だ。共に紡いできた時間の中で熟知している分、罪悪感という名の刃が智の胸を深々と抉る。

だというのに、一方で冷静に演技を続けられてもいる自分がいる。

(僕は、最低の夫だ)

己の内に在る二面性を空恐ろしく感じ、免罪符になりもしない懺悔を繰り返しながら。智は昨晩の出来事を思い返し始めていた。

6

先日夕刻。先方の指定に従い訪れた、木造作りの焼き鳥屋。狭さもさることながら、外と内を隔てる扉がなく開け放しの構造であるために、帰路につくサラリーマンの足音がカウンター席に居てもよく聞こえる。そんな、密談を交わすには不適当な場所で、男二人。形ばかりの乾杯をした。

「焼き鳥、ネギマ、つくねに鳥皮になります!」

「いやぁ、うまいっ! 仕事明けの生ビールは最高ですなぁ」

店員がテーブルに置くのも待ちきれなかった様子で、ブツブツだらけの顔が串にかぶりつく。

「さ、どうぞ、ここの鳥は旨いんですよ」

口元にタレをつけたままクシャッと顔を歪めて勧めてくる男──藪沼。セールの日に智の側から持ちかけた誘いに乗って現れたその男は、甘いタレ付きの串を頬張り終えるや。

「いやあ、嬉しい。ご主人とこうして飲めるとは思ってませんでしたよ」

わざわざ顔を寄せておいて、不必要に大きな声を張り上げた。

店内に知り合いがいないのは入店時に確認済みだ。それでも改めて周囲を見渡し、要らぬ注目を浴びていないのを確かめた上で、智は実感する。

(咲美の言った通りだ。デリカシーが欠片も感じられない。こんな男と、僕は)手を組もうとしている。事実を噛み含めるほど、自己嫌悪が胸を衝く。

「それで、いったい今日はどういうご用件で?」

藪沼は、その無神経さゆえに智の胸中に気を配ることもなく。締まりのない唇から、早々に本題を切り出した。

(本当に、これでいいのか?)

前もって用意してある返答を奴に与えてしまってよいものか。今日に至るまで数知れず重ねた煩悶に再び苛まれる智を、じろり。藪沼の濁った眼がねめつける。

「ひょっとして……興味湧きましたか?」

奴の目尻にはすでに、こちらの意図を見透かしたかのような笑みが浮かんでいた。無神経だが、相手の心中を察せられぬわけではないらしい。意外な洞察に驚き、智が身も心も強張らせていると、機を逃さぬとばかりに奴が畳みかけてくる。

「それとも私の早合点ですかな?」

ビール臭い息を吐きかけながら、助平なヒソヒソ声で、とうとう奴は例の言葉を口にした。

「ス・ワッ・ピ・ン・グ! ……興味、湧いたんでしょう?」

脂ぎった顔をますますテカテカと光らせ、喉から空気を漏らすような不気味な笑い声を出し、詰め寄ってくる。そうした奴の剣幕に誘引されたがごとく。出そうか出すまいか惑っていた返答が、智の喉より漏れ落ちる。

「え、ええ、まあ……」

ついに、言ってしまった。強い後悔と、著しい解放感。相反するはずの二つを同時に味わいながら見つめた、話し相手の表情は──。

「そうこなくっちゃ、浅岡さん

!!

」

嬉々とたるみきっている。その分厚い唇が酒臭い息を吐きつけて、さらに続けた。

「人生は楽しむもんです。いくら仲のよい夫婦でも倦怠はやって来るんですから」

(別に、咲美と倦怠期に入っているわけじゃない!)思わず反論したくなるほど、男のだらしのない笑顔が目障りだ。

「そう深刻にならず! 海外では夫婦円満の妙薬みたいなもんで、それなりの市民権を得てるんですよ」

奴は堰を切ったように早口になり、わかったような、わからぬような理屈を並べ立ててゆく。喜色満面の表情は、まるで獲物を前にした赤鬼だ。

「うちら夫婦はそれなりの経験積んでます。悪いようにはしませんよ。ぜひお相手させてくださいよ!」

ついに切り出されたその言葉に、ドクン、と心臓が大きく音を立て、酔ってもいないのに頭が眩む。研ぎ澄まされた意識だけを頼りに、智は藪沼の顔と向き合った。

「パートナーになりましょうよ!」

(まだ今なら、やめられる。踏みとどまるなら今だ。いいのか? こんな奴に、咲美を……大切な妻を、抱かせる……なんて……っ)受諾してしまえば、もう戻れない。娘を抱いた咲美の顔が一瞬浮かんだ。

──咲美を愛している、愛しているからこそ、僕は──また、手前勝手な理屈に背中を押されて──。

「は、はい、よろしく……お願いします」

ハッとなった時にはもう、独りでに唇が言葉を紡いでいた。

「いやぁーっ! 嬉しい! 旦那さんありがとうございますっ! こりゃなんていい日なんでしょう! よっしゃ、今日は前祝い、私のおごりです。さ、飲んだ飲んだ!」

虹彩のありかが覗けぬほどに目を細めた藪沼が、奇声じみた響きで喜びを表す。そのあまりの大声に、周りの客が一斉に振り返った。

「ところで、奥さんにはこの話は?」

注目を浴びているのに気づき、今さら顔を寄せてきた藪沼が耳打ちする。

「いえ。……まだ、何も」

返答を得た藪沼は、しばらくクチャクチャと口を動かしていたが、いきなり智の太腿をパチンと叩くと、こう言った。

「旦那さんの腕の見せ所ですよーっ。アサオカちゃん、いや失敬、奥さんは真面目そうですもんね」

咲美が、藪沼の『アサオカちゃん』という馴れ馴れしい呼び方を嫌っていたのを思い出す。夫の立場からしても気持ちの良い物であるはずがなく、それがそのまま顔に出た。ムッとなった顔を確かに目端に留めておきながら、藪沼は急いた心情そのままに早口で綴る。

「いっそのこと、私たち夫婦と四人でお会いしませんか。説得しますよ」

そんなに簡単に事が進むなら、苦労はない。無神経な男だ、との幾度目とも知れぬ確証を得る。

「アルコールでも入れて、その晩のうちに、って手もあります。少々強引ですが」

(何を言ってるんだ、こいつは。人の妻を何だと思ってる!)咲美は、断じてそんな手に堕ちる女ではない。その辺の馬鹿な小娘とは違うのだ。

だが、図に乗り始めた藪沼の品性のなさを痛感するほどに、咲美を穢される妄想は捗った。嫉妬に相乗して漲る咲美への情愛が、頭の芯を痺れさせ続ける。

「いや、藪沼さん、咲美は用心深いんです。強引にやるのは無理だと思います」

語る声に動揺がにじまぬよう留意しつつ、紡ぎだす。

「実は……僕なりに色々と考えたんですが……」

「ほぉ……。んむっ、ははぁ、なるほど……」

智が、散々考え抜いた方策を淡々と、目だけに熱意を潜ませて述べゆく間。藪沼は、終始口の中に物を頬張り続け、合間合間に相槌を打つばかりだった。

結局、一切合切、智の立てた計画通りに事を進める運びとなり、小一時間ほどで最初の密会は終了した。

(同性の自分から見ても藪沼という男からは何一つ、好感は得られなかった)思い返すたび、悩ましさが募る。あんな男を、咲美に受け入れさせるのは至難の業だ。それでも決意は鈍らない。

帰り際に藪沼の発した一言に、強く心を惹きつけられていたからだ。

『僕はモテないんですが、アッチのほうだけは自信あるんですよ。アサオカちゃ……いや、奥さんにも絶対悦んでもらえると思います』

聞き留めた瞬間に、怒りと不安と焦燥、そして期待が急膨張した。それらが混濁して押し寄せた結果身に奔った言いしれぬ背徳感も含め、今なお智の内に堆積し続けていた。

(咲美はお前など大嫌いなんだ。お前のような下種を相手にするような女でもない)すでに咲美とヤれる前提で話していた藪沼。この場に居ない奴に向け、悪態をつく。

(大学時代はサークルでも憧れの的だった。ナンパなどには振り向きもしなかった。それを、僕は一世一代の猛アタックでモノにしたんだ。その咲美を……っ)お前などが、落とすというのか? それほど自信があるというのなら、手並みを拝見してやろうじゃないか──。

「……っ、はは、いよいよおかしくなってきやがった……」

挑戦的な感情が溢れ出すに至って、さすがに頭を抱えた。

自分でも収まりのつかない種々雑多な感情に憑かれて、藪沼と別れる際どう挨拶を交わしたのか、交わさなかったのか。それすら記憶にない。

一方で、奴と語らう間中、胸と股間に響いたシグナルを、忌みつつも忘れられないでいる。それどころか、もう一度味わいたいと、甘露に思えてならなかった衝動に焦がれてすらいるのだ。

『いや、実はご主人の前で恐縮ですが、ほんっと……タイプなんですよぉ~』

酒席の半ば。ぬけぬけ言い放ってみせた藪沼の、下卑た面。夫の前で悪びれもせず、職場での咲美を視姦した日々を語って聞かせる、無神経な男の、劣情にまみれた卑しき眼差しを思い出す。その都度、心臓がギュッと竦み、苦悶に見舞われた。

(あんな野郎に、僕は……最高のプレゼントをしようとしている)奴への蔑みが高まるほどに、ズボンの奥で呻くように男根が脈を打つ。

どれだけ考えても理解の及ばぬ、不条理な情動にそそのかされるがまま。次第に異常を異常とも思わなくなりつつある、己を改めて空恐ろしく感じながら──。

智はさらなるステップに進む決意を固めた。

7

藪沼との密会から、ちょうど一週間となる日。智と咲美の姿は、夜の歓楽街──智と藪沼が不意の遭遇をした、あの店の前に在った。

二人共に頭上で煌めくネオン看板、「ラマン」と英文字で店名を掲げるそれを見上げて、息を呑む。

「全然、喫茶店って感じじゃないじゃん……」

現物を目にするまで、ネットカフェの延長のようなものと思いこんでいたらしい。余所行きの薄い青色ワンピースに身を包んだ咲美が、口を尖らせて夫を睨む。

「まあ、喫茶店というか、バーみたいな感じだよ」

カップル喫茶への入店は、こちらも初体験だ。藪沼からある程度の情報は得ていたが、いざ店を前にすると緊張が宿った。

持っている情報が少ない咲美の不安は、夫の比ではないはず。睨んでくる妻の目の色に怒りではなく恐れを見て取って、今さらの罪悪感が胸に刺さる。それでも夫は、今日に至るまでの労苦を無にせぬよう、妻の背を押した。

「大丈夫だって。入るだけ入って、嫌だったら出ればいいから」

「う、うん……智が、そう言う……なら」

嫌になったらすぐ帰るからね、と付け加えて、渋々といった様子で咲美が受諾した。その代価と言わんばかりに身を寄せてきて、手を繋ぐことを要求しもする。不安を拭うのに躍起となっているのが察せられた。

そんな妻のいじらしさに感激し、感謝して、内なる昂奮をひた隠しにしたまま。寄り添う彼女の温みが勇気をくれた皮肉に、心震わせながら。智は咲美の手を引いて、カップル喫茶の店内へと足を踏み入れた。

店内は、まさにお洒落なバーといった様相だ。ブラックライトが幻想的な空間を演出し、カウンター席の向かいにはぎっしりとボトルが並んでいる。シェーカーを振る若いバーテンダーと目が合うも、心得ているとばかりに彼の側が自然と視線を外す。

目が慣れると、壁沿いにソファーが設えてあり、幾組かのカップルが座っているのがわかった。カウンターにも二組。その内、二十代のカップルの隣に、ひとつ席を空け、浅岡夫婦は腰を落ち着けた。

バーテンダーに向かい、妻はカンパリソーダ、夫はビールをオーダーする。その際も咲美の緊張が声と手の震えという形で伝わった。

特に何事もなくオーダーを終えて待つ間。周りの客が誰も彼も普通に飲んでいるのが目に入るにつれ、拍子抜けする。

「案外普通だね……」

ヒソヒソ声で笑いかけてきた咲美の表情や仕草からも、ずいぶん硬さが取れていた。安堵した智自身も緊張を解いてゆく。すると、今まで抱えていた不安が失われた分、胸中に余白が生じ、心苦しさが湧いて出る。

思い出されたのは、今日妻をこの場へ連れ出すため連ねた、言葉の数々だ。

『普段とは違う、変わった刺激を得られたら、勃起不全に好影響があるかもしれない』

『智美なら、今度はうちの実家が面倒見てくれるって言ってるから』

『いつまでも智美を一人っ子にしておくのも、可哀想じゃないかな……』

特に三言目を発した際の、妻の困り顔を思い返すと、愛娘をダシに使ってまで欲望に傾倒する己の浅ましさを痛感し、今もひと際胸が痛い。それを誤魔化すようにビールを呷ると、頭の芯に熱が点った。

酔いの力に頼ったのを少し悔いた直後に、マナーモード状態でズボンのポケットに収まる携帯電話が震えだす。一度のバイブ振動を残して、早々に電話は切れてしまった。

──すでに店内に潜んでいる藪沼が、かけてきたのだ。事前の取り決め通りの切り方に、確信を得る。それは、これから行う蜜戯のための準備が整ったことを知らせるサインでもあった。

「ね、後ろに行ってみようよ」

急いている心情を悟られぬよう、極力平素の声に努めて、妻を誘った。

ようやく落ち着いてきたばかりの咲美は、案の定、不安げな顔を向けてくる。

「大丈夫、大丈夫」

落ち着かせるように言い、彼女の手を取って席を立つ。

「ちょ、ちょっと待ってよっ」

一人取り残された時のことを考え、不安を強めたのだろう。握る手に熱をこめて、咲美は夫に導かれるがまま、店の奥側にあるボックス席へと連れられていった。

「あそこがいいね」

近場から順次目で追い、落ち着き先を探していると、最奥にがら空きのソファーが向き合って並んでいるのが見えた。

間接照明に照らされているとはいえ、気をつけないと足元が不安なほど暗い店内を、互いに杯を片手に持ったまま歩みゆく。不安を煽られた咲美が身を寄せてきたせいもあり、性交を断って久しい夫の胸が期待の鼓動を刻む。

浅岡夫妻がたどり着くまでに、意中のソファーに腰下ろす者は現れず。まず咲美を中央に座らせて、わずかに隙間を設ける形で右隣に智も腰を下ろした。次いで、テーブルに各々の飲み物が入ったグラスを置く。

直後に頭上のキャンドルライトが揺れ、咲美の横顔を妖しく照らした。

(あぁ、今日の咲美はなんだか……)

いつにも増して綺麗に見える。贔屓目と思いつつも、居合わせる誰よりも美しく映る妻に見惚れた。しばし見つめて、照れた彼女が目線を落としたのを契機に、智も名残惜しむ視線を逸らし、周囲の様子を窺った。

近場では、斜め前のボックス席に、向かい合って二組のカップルがいるのみだ。両カップルとも身体を寄せ合っているのがシルエットでわかる。

じきにカップルの一組がキスを始めた。夫の目を追ってそれを目撃した咲美が、酒のせいではない火照りを頬に染ませて、困った表情をする。さらに、そのままの表情で助けを求めるように夫を見つめた。

頼られたのを嬉しく思い、咲美の手を握ってやると、彼女がまた強張っているのがよくわかる。

(あれ……って、しちゃってる、よね?)

咲美が声を出さずに口の動きで驚きを伝えてくる。それからほどなく。彼女の手に一層力が入り、見つめ返した夫の瞳に、驚愕で固まる表情が映った。

驚愕に固まる咲美の視線は、キスしているカップルの向かい側。もう一組のカップルの女性の、露わとなった乳房に釘づけとなっている。

「ね、ねぇ。やっぱりもう帰ろ?」

夫の太腿を揺すり立て、咲美が訴えかけた。小声でも要請を受けた、夫は──。

「……んっ

!?

」

顔を寄せ、ひと際目を見開いた妻の唇を吸う。即座にビクンと跳ねたきり、咲美の身体がひと際強張る。逃れられぬよう手で押さえた彼女の両頬は、平素よりも、ごく普通に夜の営みをこなしていた時よりも、ずっと熱を湛えていた。

繋がる口内を伝う唾に、カンパリソーダの甘苦い味が染みている。夫が使うと怒られるのが常の、咲美専用のシャンプーの香りが鼻を衝く。潤んだ瞳が見つめてきてもいて、押し当たっているワンピースの胸からは早鐘のごとき鼓動が繰り返し伝わった。

五感のすべてで味わう妻の愛しさに、瞬く間に魅了された。

「ンッ……! やっ、智……」

(咲美も、昂奮してくれてる。なら、もっと……いける)夜の営みが無沙汰という前提があったにせよ、咲美は人目のある状況に羞恥しつつ悦を得ている。以前カーセックスに興じた時に確認済みの彼女の性分を、この場で存分に利用する。

「……もう、勃ってきてるよ?」

来店前にすでに固めていた腹に従う夫の言葉が、妻の羞恥を煽り立て。

「そ、それはっ……だって……うぅ」

夜の営みが途絶え、飢えているせいだ、などと人前で言い出せるはずもなく。夫の目論見通りになお羞恥し、それに由来する悦を内に溜めゆく。そうしてとうとう堪らず瞼を下ろし、咲美は視界を閉ざしてしまった。

その庇護欲そそる在り様に、また夫の胸と股間が鼓動する。

(恥ずかしさに耐えきれなくなると、いつもこうだ。これまでは、夫である僕が占有していた、可愛らしい咲美の姿。それを今、アイツが……)今も薄闇に乗じて店内のどこかに潜み続けている藪沼の、ねめつく視線を想起した途端。智の独占欲に火が点った。それが、毎度歪な情欲の呼び水となると知っていながら、抑える努力を放棄して、うわべだけ平静を装い、新たな提案を紡いでゆく。

「触っても、いい?」

「う……も、もうっ。いちいち確認しなくて……いいよ……もう」

察して、と言わんばかりの態度を見せる咲美の身は、固まったまま。一層きつく閉じられた瞼に、開く兆候は見られない。

「触りやすいように、テーブルを少し動かすね」

向かいにソファーがあるために、動かすといってもたいしたことはないと心得ていたから。向かいのソファーに人が座るスぺースがなくなるのが、歓迎する所でもあったからだろう。夫が付け加えた言葉にも頷くばかりで、咲美は目を開かなかった。

何もかも夫に任せると決めた妻からの、信頼と愛情。愛しむべきそれらを今から裏切ってしまうのだ。懺悔と共に、智の喉に言葉が上りかける。

──愛してる。

紡がれることなく喉奥に押しこめられた言葉の代わりに、智は、愛妻の頬から離れたばかりの、まだ彼女の温みが残る左手を自身のズボンのポケットに入れた。空いた右手でテーブルを押し動かすと、隣接した席に聞こえるのが精々の小さな振動音が響く。その音に乗じて、そっとポケットより左手を抜きだし、握っていた携帯電話を開いた。

テーブルを押す手を止めるのと同時に、届いていたメールメッセージを視認する。

『こんばんは。奥さんの衣装、エロくていイイですね』

(──ああ、相変わらずだ、この男は)

短い文面からも、容易に想像できてしまう。奴はきっと、この文を打つ間中、ワンピース姿の咲美を視姦し、特徴的な醜い面に下卑た笑みを張りつけていたに違いない。うんざりする気持ちと、言いしれぬ不安が拡大する。なのに、奴が今も咲美を情欲の糧としている様を思い浮かべた途端、滾った占有欲が、智に行動を促した。

「ね、ねぇ智。誰もこっち、見てない……よね?」

──君がもっとも忌み嫌っている奴が、今もどこかから視姦しているよ。

「……うん。大丈夫」

嘘を吐いた瞬間に、なぜだか男根がドクリと脈打った。

禁忌の妄想に耽る際と同様の、不安と恍惚の入り混じった快楽衝動が奔ったせいだ。ほろ酔いの頭で状況を理解していくと、己の昂奮ぶりが嫌というほど知れた。

身に滾る感覚は、確かに「藪沼に咲美が抱かれる妄想」をする際に味わうのと同種。だが、妄想にない現実的な期待感を伴っており、桁違いの熱量を孕んでもいる。おかげで、見る間に起き上がってゆく己が男根を意識し続けねばならなかった。

(お、おぉ、っ……!)

思わず感嘆と恍惚をこぼしそうになった唇を、とっさに噛んで諫める。

これ以上待たせて、咲美に不審を抱かれては元も子もない。左腕に寄りかかっている薄着越しの乳房の温みと柔い感触に、より気を惹かれて、改めて、目を瞑り通しの妻に顔を寄せる。

(藪沼……あんたはそのまま、咲美に気づかれるような真似をせず、潜み続けてろ)居所の知れぬ藪沼に勝ち誇りながら、その彼の熱烈な視線を意識し、強い緊張と昂奮を身に宿す。妄想自慰の時と同種で、より上等の複雑怪奇な感覚にせっつかれながら、再度。智は愛妻の唇を吸った。

「ん……ふ……っぅん……」

夫の唇と重なった咲美の口腔が、ねっとりとした息を吐き出した。待ちわびていた心持ちを体現したような鼻声と、鼻息にも歓待される。おかげで、むず痒さと、面映ゆい感覚が、先にあった複雑怪奇の上に加味された。

(咲美はキスの際に絶対に目を開かない。夫である僕だからこそ、知ってるんだ)胸内で繰り返し反復する藪沼に対する優悦感情も、滾りの種となる。誰よりも乱れた鼻息を聞かせ、意図せず咲美の意識を独り占めしつつ。長いキスを終えてすぐに、夫は右手を、そっと愛妻の腿に乗せた。

「……っ! あ……と、智?」

「うん、そうだよ……」

不安がる彼女の肌をスリスリと撫で、緊張が抜け落ちる様を堪能する。相手が夫であるからこそ、慎み深き妻は肌を許してくれているのだ、と。思うほどに優悦が高まり、姿を見せぬ藪沼に見せつけたい衝動が、抑えられなくなる。

スカートに手をかけた瞬間も。

「誰も見てない、よね……?」

夫の左腕にすがり、羞恥で真っ赤の面を頼れる胸板に摺りつけ隠して、わずかに腰を浮かせてくれた。夫の意図を察し、捲る助けとなってくれた。

「あぁ……」

肉付きのよい腿が露わとなるにつれ、彼女の身の震えが増す。撫でる夫の手にも、妻の緊張が伝わった。が、それを凌駕する恥悦が火照りと化し、伴侶の身を炙っているのもまた、切々と伝わる。

藪沼がどこに潜んでいるか知らないが、夫の胸に摺りつき甘えている咲美の体温、柔らかさは、触れずにわかるものではない。

(咲美は、僕の手で……こんなにも盛ってくれてるんだ!)夫側の恍惚を知らせる熱の点った指先を、滑らかな腿肉に滑らせ、付け根側へと移動させてゆく。夫の意図に気づいた咲美は一瞬身を硬くしたものの──。

「ん……ふ、ぁ、ぁ……」

ほんのわずかではあったが股を自ら開き、腰を押し出して、刺激を待ちわびる。

(……ずっと夜の営みが途絶えてるから、その分貪欲になっているんだ)現に自分がそうなのだから──言い聞かせる夫の胸に、手前勝手な妄執が再来する。これほど感じやすい状態であるなら、他の男の手に依っても肉悦を得るのでは──と。

(違う! それはあくまで僕の想像の中だけの……咲美は、そんな女じゃない!)想起しただけで瞬時に呼応し、限度目一杯に張り詰めた肉棒の卑しさを呪う。同時に占有欲を満たすべく、腿肉を滑る指の速度は増し、ほどなく妻の股の中央に達した。

「は、ぁぁ……んっ!」

スカートを捲り上げた時点からすでにブラックライトに照らされ、目を惹き続けていた薄水色のショーツ。カーセックスした時とは異なる、無地でもなければ白でもない下着を目に留めた瞬間から、期待せずにいられなかった。

さすがにこの場で、という考えがあったわけではなかろうが──。

「ひょっとして咲美も、この後ホテルかどこかで……って、期待してた?」

耳元で囁いた途端に、咲美の身の火照りと強張りが極まった。夫も同じ期待を抱いていたと知り、安堵しもしたのだろう。強張りは一時的に強まった後、すぐにほぐれゆく。

嬉々と弾む心の赴くままに、夫の手指が妻の薄水色の布越しに潜めく割れ目を撫で愛でた。

「やっ! あ! ああっあふぅっうぅ、駄目ぇぇっ」

言葉で拒みつつも、尻を忙しげに揺するその様からは、本気で嫌がっているようには、とても思えない。おまけに指で押した途端に、熱い飛沫が溢れたのがショーツ越しにもはっきり伝わった。

嘘をつくのが苦手で、恥ずかしがりな癖に、甘え上手な所がある。咲美そのものな感応を前にして、夫の胸内を愛しさが占めてゆく。

「覆い被さって、隠してるから。こっちを向いてる人はいないよ。だから……安心して、僕だけに、エッチな咲美の姿を見せてよ……」

「ふ、うぅ……う、ン……ッ。……うんっ」

頼れる伴侶の申し出を受諾するなり、また、咲美が甘えるように鼻息をこぼした。

愛しき妻の痴態に魅入られて、夫の身にも愉悦の痺れが駆け巡る。ズボンの前面は、肉勃起に内側から押し上げられて、いつ留め金が飛ぶとも知れぬ有様。少なくとも、昂奮に呑まれている智自身には、そう映った。

(もっとだ。もっと、咲美の秘所を見せつけたい……咲美を欲しているあいつ、藪沼が悔しがるような……スケベな様をっ!)そんな、心の声が届いたわけでは、あるまいが──。計ったようなタイミングで、智の手中の携帯電話が再びバイブ振動した。

「今の……音……?」

驚き、恐る恐るといった様相でわずかに薄目を開いた妻に向け、安心をもたらすための笑顔で、夫が応じた。

「ああ、どっかの広告メールみたい。……ん、気にしなくていいよ」

告げながら文面に目を落とす智の胸中は、先ほど以上の熱に炙られていた。

『奥さんの喘ぎを聞いてるだけで、射精しちまいそうです。湿ったショーツもめちゃエロいっ! 感じやすいアサオカちゃん、最高にスケベです!』

藪沼からのメールだった。記されていた文面に、喉がひりつくほどの怒りと、思わず身を毟りたくなるような焦燥を覚えずにいられない。

(くそっ! 人の妻をAV嬢か何かみたいに、くそぉぉっ!)怒りの熱と、焦りによる寒気。双方に炙られた肉体に、震えが奔る。

「智……? あ……っ、ン……んんぅんっ」

藪沼などに、渡すものか。もっと、奴が嫌になるほど見せつけてやる。より増した激情に憑かれた智の指腹が、愛妻のショーツ越しの割れ目を下から上へ。上から下へ、忙しく幾度も反復した。

奴に寝取らせる計画を立てておきながら、矛盾している。そうは思えど、胸を衝く激情もまた、同じ占有欲に由来する物であるだけに、鎮める方策が見当たらない。鎮めたいとも、思えなかった。

「ほら。咲美も、触って……」

咲美の右手を取り、張り詰めたズボンの前へと触れさせる。手を取られた瞬間、小さく「えっ」とつぶやいた愛妻の瞳が、手の平で男根の熱と硬度を測り知った途端、見開いた。

「あ……っ、う、嘘。もう……そんな……に?」

潤み湛えた彼女の視線と、声にも滲む悦び。それらに感応して、モジ、と慎ましやかにすり合わさった両腿に挟まれ、智の手に情欲の熱が伝う。

「キス……しても、いい?」

ショーツ越しに感じるクリトリスの芯のある感触。その硬直ぶりと熱のこもり具合を指腹で味わいながら。負けず劣らずの熱のこもった調子で問うた。

今日すでに三度目だというのに、このキスだけは特別だ。占有を知らしめるという意識が生じているせいで、より一層の期待のときめきが、智の胸と股間に轟き渡る。

週に一度の夜の営みや、人目を気にしつつのカーセックスとは比ぶべくもない、ぬるい行為。だというのに、それらでは得られずじまいだった、焦燥感伴う悦びに胸躍らされている。

「……尋ねなくても、いいって……」

言ったじゃん、と言い終えることなく、咲美が瞳を閉じ──かけて、固まる。たった今まで潤み蕩けていた眼が、ただ一点を注視したまま驚愕に見開かれている。

愛妻の視線の先。浅岡夫婦が睦むボックス席の向かいに、女性を伴い立っている男の姿。そこに、一目見れば忘れ得ぬ忌まわしき顔が在った。

「藪……っ」

いつの間に、近寄ってきた。なぜ、このタイミングで顔を見せたのだ。

妻の唇に触れる直前、ショーツの脇から滑らせた指先が蜜の源泉に届く寸前という所で現れた男の名を、仇敵のそれがごとく叫びかけ。智もまた、妻同様の緊迫に呑みこまれる。

そうして一瞬の沈黙が訪れ──。

「やっ!」

ほどなく、事態を呑みこんだ咲美が短い悲鳴を上げ、斜め前の二組のカップルが振り返る。周囲の視線を浴びたことで、急速に理性を取り戻した咲美が、被さる夫の身体を押し退けて席を立つ。まだ性的昂揚の影響が残る身体をふらつかせつつも、咲美は脱兎のごとく駆け出した。

「咲美っ!」

衣服を整えながら遠ざかってゆく妻の後を、智も急いで追う。

店内の人波を縫うようにして追いすがるさなか。冷静さを取り戻した頭で、改めて事態を整理する。

(藪沼は、元々取り決めておいた通りのタイミングで顔を見せた、だけだ……)今宵の第一の目的は、「平素の夜の営みでは勃たなかった夫の股間が、状況が違えば著しく反応する」と咲美に知らしめること。よって、勃起を彼女に触れさせた時点で目的は成っていた。

(全部見越して策を講じたのは、他の誰でもない。僕自身じゃないか)今回に限っては藪沼に非はない。理性の諫めにより怒りを消化しながら駆けること、一分弱。途中、往来する客にぶつかったせいで手間取ったものの、ちょうど店を出た所で、咲美の背を捉えた。

「ごめん! まさか藪沼が来るなんて」

「ありえない、もうっ、どうしようっ」

咲美は動揺が大きく、冷静な判断ができそうにない。追いついてきた夫の右手に右の二の腕を捕まえられていなければ、足を止めず歓楽街から駆け去っていたに違いなかった。

「落ち着いて」

できるわけがないのを知りつつ語りかけ、自身も慌てている風を装うことで「それでも妻の身を先に案じる夫」を演じる。

「落ち着いてられないわよっ。もうっ、なんで藪沼がいるのよぉ……」

明日からの職場での藪沼との対面を憂い、嘆く妻。夫はその言葉をこそ待っていた。

「こんなお店来なきゃよかった……」

「でも、向こうだって同じ気持ちじゃないかな。このまま帰るとかえって気まずいよ。一言挨拶すればなんてことないって」

夫の宥めを、妻が取るに足らぬ慰めと捉えるか、否か。そこは重要じゃない。

肝要なのは、咲美が考える時間を設けること。長じて、藪沼が店に居た理由も多少意識してくれたなら、文句なしだ。

夫の引き留め工作にまんまと嵌まった妻が、無言で俯き、足を止めること、一分と少々。打ち合わせ通りに藪沼と、連れの女性が追いつく。

「浅岡さん! いやあ、申し訳ありません! 気まずいことになってしまって。どうかお気になさらないでくださいっ。……とにかく、こんなとこじゃ何ですから……」

平身低頭、矢継ぎ早に話す男の顔を、終始咲美は直視できないでいた。

そして──。

8

三十分後。

「いやぁ、浅岡さん。大変失礼いたしました。どうか、ご容赦ください」

カップル喫茶ラマンからもそう遠くないファミリーレストランの一席で、浅岡夫妻は幾度目とも知れぬ藪沼の謝罪を受けていた。

「もう結構ですから。どうか頭を上げてください。お互いに水に流すということで。……咲美も、それでいいよな?」

計画の片棒を担ぐ智が取りなすと、隣席の妻は正面の藪沼夫妻を直視できぬまま、小さく首肯する。

「そう仰っていただけると、こちらとしてもありがたいです。では、早く忘れるためにも、一杯。グッとやって水に流しましょう!」

図々しい藪沼の性分が、こんな時ばかりは奏功する。すでに各人の前に置かれているビールジョッキを順に眺めた後。率先して奴が音頭を取った。

「では、乾杯!」

グイッと杯を傾け呷ってから、藪沼はこれまたすでにテーブルの中央に置かれている料理に手をつける。そうして、以前に焼き鳥屋で見せたように、頬張ったものをクチャクチャと噛む音を響かせだした。耳触りの良くないその音を前に、咲美が眉をひそめたのが、隣席の夫の目にのみ留まった。

「主人が謝ったばかりでする話でもないんですけど……ああいったお店を楽しむのは、恥ずかしいことじゃないと、思うんですよ」

夫の食い方を諫めもせずに、その隣に座る女性が口を開く。

桂

子

と名乗った彼女──藪沼の妻は、やや小太りで、パッと見、四十代後半ほど。茶色がかったショートカットで、少し吊り気味の目は左右にだいぶ離れている。エラが張っていて、唇は薄い。お世辞にも美人とは言えないが、若作りの化粧と服装で奇妙な妖艶さを放っていた。

「そうですよ。僕らみたいな爺さん婆さんでも利用しているくらいです」

藪沼が妻の言葉を肯定する。相変わらず俯き黙っている咲美は気づいていなかったが、奴が助平な視線で彼女を舐っているのを、智ははっきりと視認した。

奴の一人称が「私」からより馴れ馴れしい調子の「僕」に変わっているのにも気づいてしまい、憂鬱が深まる。

「よく、ご利用なさるんですか」

喉を衝きかける藪沼への蔑みを呑みこんで、智はなお片棒を担いだ。

余計なこと聞いて──と怒れる咲美にテーブル下で腿を抓られたが、表情はなんとか平静を保った。夫が話に乗ったのも、痛みを顔に出さぬのも、相手に失礼のないようにとの配慮から。咲美はきっと、そう受け止めたはずだ。おかげで、演技のぎこちなさにも理由がつく。

次に語られる言葉こそが、肝要なのだ。自らの練った内容が紡ぎ出されるのを期待して智が見つめる、その先で。タレのついた唇をひと舐めした藪沼が口を開く。

「いやあ、実は常連なんですよ。恥ずかしい話ですが、歳が歳なんで、一時期あっちの方がまったくダメになりましてね」

藪沼の突如の告白に、咲美が小さくピクリと反応を見せた──ような気がする。

「でも、ああいう店に行ったり、色々刺激を受けるうち、今では元気過ぎて困るくらいになっちゃいました。ハハハ」

俯いていた咲美の顔が上向く。またも一瞬の出来事だったが、はっきり視認できた。

「浅岡さんご夫婦はお初ですの?」

「はい……まあ」

「失礼ですが、何か刺激を求められたんですかな?」

桂子が話を振り、智が応じて、藪沼が乗っかる。すべて、予定通りの流れだ。

「は、はぁ」

これまた予定通りに浮かない顔を装った夫が口ごもると、その太腿を咲美がテーブルの下でまた抓る。何も言うな、という合図だろう。

妻の要請がなくとも、そのつもりだった。口を噤んでからも狼狽えている演技を続け、藪沼夫妻が一方的に話を振ってくる、という形式を堅持する。

「私も最初は色々偏見がありましたが、今では感謝してますの」

桂子のどこかセレブ気取りな声に、まだ俯きがちの咲美が「信じられない」といった表情に変わった。間髪容れずに藪沼が本題へと切りこむ。

「実はあの店は夫婦同士の出会いの場でもあるんです」

咲美の動揺が明らかに膨らんだのが、泳ぐ眼から見て取れた。さも彼女と同じ立場であるように装って、智が大げさな声を出す。

「出会いの場

!?

」

「スワッピングってご存知ですか?」

またも繰りだされた魅惑の響きに躍る胸を宥めすかしながら、隣席の愛妻と顔を見合わせる。彼女は顔の曇りを一層濃くして、唯一この場で頼れる夫に向け、不安と居心地の悪さを訴えかけていた。そんな彼女への対応に困るそぶりを演じた後。

「一応……聞いたことはあります」

白々しい嘘をつく。

「夫婦円満の最高の特効薬は、〝嫉妬〟なんです」

被さるように藪沼の言葉が続く。

己の経験に照らし合わせて納得せざるを得ない夫に対し、咲美はただただ茫然と聞き流し、早く終われと願っているようだった。

9

藪沼夫婦と別れ、娘の智美を実家に迎えに行く途中も、咲美は終始不機嫌だった。

ようやく智が咲美と落ち着いて会話できたのは、娘を寝かしつけて、しばらく経った深夜零時過ぎ。寝間着姿で寝室のベッドに並び腰を下ろして間もなくのことだった。

「今日はごめん。よりによって藪沼と会うなんて」

今日幾度目かの謝罪をした夫に対し。

「別に謝らなくていーよ。偶然なんだから」

そう言いながら、咲美の怒りは収まっていない。それは表情や態度から明白だ。

「でも信じられない! 何なの、夫婦交換って」

(やっぱり、そこだよな……)

案の定の反応。咲美は、会食中に藪沼が説明したスワッピングという性癖について腹を立てていた。

「スケベだってのは前から分かってたけど、あそこまで変態とは思わなかった」

娘が眠るまではと我慢していた分、余計に今、怒りが再燃しているらしい。

彼女の性分を考えれば、こううなるだろうことは予想に難くなかった。

(それでも、告げる必要はあった)

咲美に、スワッピングという性癖の存在を知らせ、意識づける。そのために藪沼夫妻と出くわす流れを設え、藪沼の口から「勃起不全経験者で、それがスワッピングという刺激を得ることにより改善した」という、嘘の筋書きを語らせた。

直球を咲美にぶつけるのが賭けであることに違いはなかったが、妄想を実現化するためには避けて通れぬ道でもあったのだ。

(物事は最初にハードルを上げておいたほうがいい)その分、後々の展開が楽になるからだ。現状は、まだ最初の高いハードルを越えられていない。しかし、ハードルを越えるための素地ができたのは確かで、その意味では今夜の一件は成功と言える。

ただ、やはり咲美の中で藪沼に対する嫌悪感は増大したようだ。それこそ夫の妄執を勢いづかせる火種であると知らぬまま、咲美は藪沼への嫌悪を吐き出し続けている。

「でも……あれって、当たってるかも」

自身が怨嗟を巻いているさなかに発せられた夫の言葉の意味が瞬時には理解できず、二度三度、瞳を瞬かせた後。咲美は殊更驚いた表情で「えっ!」と短く声を上げた。

「その……嫉妬ってやつ? あれ、もしかすると僕にも当てはまるかな……って、思えちゃって、さ」

男の精力回復には〝嫉妬〟がもっとも効果的と、藪沼は説明した。実際は智の与えた筋書きに沿い語ったのだが、とにかくそれを、場に居合わせた咲美は聞いている。

つまり、夫の精力を回復させたいならヤキモチを妬かせるのが一番だと理解した、はずなのだ。

「智!」

夫の話を遮るように、咲美が声を荒らげる。膝の上でぐっと握り拳を作っていることからも、堪りかねている様子がありあり伝わった。

その様子から、智は先の想像が当たっていたと確信する。

「まさか、スワッピングとかってのに興味湧いたんじゃ……ないよね?」

あるわけないって。当たり前じゃないか。そんな言葉を期待して発せられた咲美の言葉に対し、夫は無言を貫くことで答えとした。

「ねぇ、智っ。違う、よね?」

焦れる咲美が、詰問口調で問い直す。なお無言で見つめ返す智の手が、彼女の肩に触れると同時に押した。

「……えっ。や、やだ、ちょっと智っ

!?

」

ベッドに押し倒された咲美が抗議の声を上げる。今は真剣に話しているのに、と。キッと睨みつけてくる瞳が物語っていた。

「ちょっと、どうしたのよっ」

それでも真っ先に理由を尋ね、揺らぐ眼差しで夫を案じてくれる。

「な、なんかさ、なんか、なんだか分かんないけど」

その夫は、狼狽える演技を敢行しつつ、罪悪感を凌駕する昂奮に支配されていた。

「とっ、智っ、あ……っ

!?

」

覆い被さってきた夫の重みに小さく呻いたのも束の間。夫の寝間着の股間前面部を押し上げる、硬く熱々に滾った隆起物の存在を確かめて、咲美の目が驚愕に見開く。

「ごめん、咲美。怒ん……ない?」

「な、何っ? どういう……こと? ちゃんと、話してよ」

昨夜まで勃起不全だったペニスが、かつて以上に硬化している。数時間前にカップル喫茶の暗がりで触れた時と比較しても、段違いの熱を漲らせていた。

その理由を知りたがり、怒りを忘れた咲美が問うてくる。

「咲美が……」

──とうとう、告げる時が来た。意を決した夫の眼差しに何かを嗅ぎ取ったのか、妻もまた口を噤み。緊迫した空気の中、自然と夫婦は向かい合った。

「……咲美が、他の、男とっ……」

どうしても、声に震えが混じる。たどたどしさが際立つ。こればかりは演技でなく、未だに残る迷いと、不安。そして例の奇怪な──妄想自慰の際と同種の、歪な昂揚感。それを恥じる気持ちと、恥じるほどに強まる誘惑。複雑に絡まる情がもたらしたものだった。

「いや、正直に言うと、その、咲美が……」

「……あたし、が?」

首を傾げた咲美が、口ごもる夫をまっすぐに見つめ、話の続きを促す。

──彼女がそうしなければ。いや、そもそも最初から告げずに終えるという選択肢は、なかったではないか──。迷いを断つように首を振り、渇く口中を咀嚼させた。

(そのために積み重ねてきたんじゃないか。ここを越えさえすれば……)下種な藪沼に咲美が抱かれている様が脳裏に思い浮かんだ瞬間。最後までねばっていた理性が、根負けしたように溶け落ちる。

腹の決まった男の声にもはや震えはなかったが、あえて言い淀むそぶりを足して発した。

「や……藪沼とっ!」

名を挙げた瞬間、咲美が「ひっ」と引き攣った。どうして今その名前をと言いたげな眼差しを差し向けてくるが、まだ引き攣りが残っているがために、うまく言葉を発せられずにいる。その機を逃すことなく、罪深き夫の告白は紡がれた。

「咲美が、藪沼と……っ、しっ、しちゃうのが、頭に浮かんでっ。そしたら……何か、すごく……昂奮っ! ……したんだ」

「……っ! な、何言って」

信じられない。信じたくない。嘘だって、今すぐ言ってよ──。涙ぐむ瞳で想いを訴えるのがやっと、なのだろう。続きの言葉を紡げずにいる愛妻の、わなわな震える唇が、庇護欲をそそる。

吸いたい──不意に生じた衝動に従い、智は改めて咲美に被さり、唇を重ねた。

「やっ! あ……っ、んんっ、ン……」

吸いついた夫の唇の熱っぽさに驚きつつも、愛妻は受け入れてくれる。

硬く隆起した肉棒を剥き出してみせ、摺りつければ、腰を揺すって身の内より生じる煩悶を素直に表してもくれる。

だからこそ、止まれなかった。

性交を断って久しい身体に、愛しき妻を求める想いが巡り、歪な心は飽くことなく、愛妻とその上司が肌摺り合わせる様を夢想し続ける。

貪るような時間は、時計の長針が二回りしてもまだ終わらず、大量の精を体内に放たれた妻が絶頂に達しても、萎えることなく持続して、二度目の、より濃厚な種汁を注ぐに至ったほど。この身で愛したいという想いと、寝取らせ願望。二乗の恍惚に煽られるがままに劣情と慕情を注ぎ続けられたことは、忘れ得ぬ記憶となって身と心に刻まれた。

(それはきっと咲美にとっても……)

事を終えた後も、彼女は複雑な表情を崩さなかったが──。

寝る間際に、少しだけ頬膨らませた表情を見せて、暴走気味の性交を詫びる夫の鼻梁を摘まみ、こう言った。

「……ヘンタイ」

蔑むでなく、なじるでもなく、拗ねた口調での可愛らしい抗議。

それを受けて夫婦の間に日常の空気が取り戻され、久方ぶりの性交を経ての心地のよい疲れも相まって、ほどなくして共に眠りの淵へといざなわれる。

咲美も確かに、久方ぶりの激しいセックスに満足していた。それでも、彼女は眠り際、念を押すのを忘れなかった。

「……智。あたし、スワッピングなんて絶対ヤだから……ね」

──いいのだ、今は。

〝嫉妬〟がスイッチになり、〝藪沼〟というキーワードが、夫を滾らせたという事実。咲美がそれを肌で覚え、意識下にも刻んだ。今はこれで充分。

焦ってはいけない。慎重を期すのだ。

早くもより濃密な悦を欲し、逸りたがる胸に言い聞かせる。寝息を立てだした妻を背に、智はすっかり眠気の飛んだ脳内で、次なる策のシミュレーションを開始した。

ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌 第二章 カップル喫茶の暗がりで (2/7)
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