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毛皮を着たヴィーナス:マゾッホとマゾヒズムの契約

BDSMとフェティシズムの語源を辿るなら、レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの中編『毛皮を着たヴィーナス』(Venus im Pelz、1871)に戻ることになる。ポルノグラフィとして消費されがちだが、ジル・ドゥルーズはこれを「ポルノロジー」という一段高いジャンルで扱え、と求めた。契約書、毛皮、鞭、第三者の介入が、マゾヒズムの核になる形式だ。サディズムが命令と制度の破棄で進むのに対し、マゾヒズムの本質は「説得」と「署名」であり、教育によって他者を拷問者へ養成する過程である。

枠物語の夢と原稿

小説は枠物語で進む。「私」は毛皮を着たヴィーナスと戯れる夢を見、友人宅の従僕に起こされる。友人ゼヴェリーンにその奇妙な夢を語ると、壁の絵がまさに「毛皮を着たヴィーナス」である。ゼヴェリーンは独自の女性観を持ち、女は男の奴隷になるか暴君になるかのいずれかで、肩を並べた朋輩にはなりえない、と言う。夢への返答として、かつての経験をまとめた原稿を読め、と薦める。

原稿はゼヴェリーンと未亡人ワンダの話だ。ワンダはごく若く奔放で、ゼヴェリーンは知性と教養がある。彼は自分が苦痛に快楽を見出す「超官能主義者」だと告白し、足で踏みつけ、鞭で打つときは必ず毛皮を羽織ってくれ、と頼む。はじめワンダは拒むが、愛ゆえに受け入れる。二人は契約書を交わし、奴隷と主人になる。肉体の責めだけではなく、装いを指定した儀式でもある。

演技と治療、第三の男

ワンダにとってそれは結局、演技でしかなかった。奴隷を連れて旅したイタリアで第三の男が現れる。ゼヴェリーンは嫉妬に狂いそうになるが、ワンダは再び愛を告げ、その男は意中にないと断言する。翌朝、寝室でいつものように鞭打ちを頼み、縄で縛ってもらうと、隠れていた第三の男が現れる。男は力の限りゼヴェリーンを打ち、ワンダは笑いこける。縄を解かぬまま二人は屋敷を出て行く。しばらくして届いた手紙に、当時の行いが「治療」であったと書かれ、ゼヴェリーンは心から納得する。

原稿を読み終えた「私」がテーマを問うと、ゼヴェリーンは持論を繰り返す。女は絶対に肩を並べた朋輩にはなりえない、と。この語りはマゾヒズムの「宙吊り」——時間が止まり、動作が彫刻や絵画のように凝固する未決定——を暗示する。ドゥルーズがマゾッホとサドを分ける鍵も、ここにある。

実人生への複製とフェティシズム

小説はマゾッホ自身の恋愛をなぞっていると考えられ、契約書などの細部は切子のように嵌め込まれている。ワンダのモデルとされる女性は主に二人いる。当時愛人だった人妻ファニー・ピストールと、執筆後に出会い伴侶としたワンダ・フォン・マゾッホ(本名アウローラ・リューメリン)である。マゾッホはワンダとともに本作の筋を追うような生活を送り、第三者からの寝取られで関係が破綻する点まで小説と同じだった。彼はワンダへ手紙を送り、毛皮の縁取りをしたジャケットを家の中で着てみる気はありませんか、と文学の条件を生活へ伸ばした。

平野嘉彦は、時系列の狂いと複製性こそマゾッホの倒錯の本質だと指摘する。ワンダのイメージである「ヴィーナス」は、本人が登場する前に夢、ティッツァーノの複製画、大理石の彫刻として何度も現れ、その後も彫刻・鏡・肖像画として反復される。これらのモチーフが小説に自己言及的な性格を与え、物語そのものが金の額縁に収められた図像であるかのような状況をもたらす。反復にある単調さと退屈さは、作者のマゾヒズムの一部であり、意図的なものだ。

教育と契約

ドゥルーズによればマゾッホは人格的訓育者であり、マゾヒズムの享受者は専制的な主人を養成せねばならない。ワンダは出会った当初から奔放だがサディスティックな人間ではなく、ゼヴェリーンが足を頸の上にのせようとすると、すばやく足を引っ込め、ほとんど激怒して拒絶する。しかし彼に「教育」されたワンダは契約を結び、ついには愛人である第三の男に彼を鞭打たせるところまで変貌する。悦楽を覚える拷問者はいない。あくまで犠牲者が拷問者を説得し、訓育する。

SMの現場で「女王様を育てる」と言われる関係の原型が、ここにすでに書かれている。マゾッホの小説は説得と署名で進み、命令と破棄では進まない。サド・マゾと一語で括ると見えなくなるのは、まさにこの非対称だ。第三の男に鞭を打たせ、自分が笑うワンダの変貌は、最初からサドだった女の物語ではない。超官能主義者の男が契約の先で自分を壊す物語である。

東と西、毛皮の儀式

汎スラヴ主義に駆り立てられていたマゾッホは、「東と西」という対立項を持ち込んだ。舞台こそドイツやイタリアだが、ゼヴェリーンの愉楽は殉教者のそれに比せられ、ワンダは古代ギリシャの価値観で自らを定位する。「エカチェリーナ2世のような」という形容が繰り返され、ゼヴェリーンが奴隷契約に相応しい場所をコンスタンティノープルだと考えるように、時空間はつねに西欧・近代からずらされていく。ドゥルーズはワンダを「ギリシャ風娼婦」と「サディスト」のあいだの宙吊りに置く。ワンダは毛皮のドレスとともに、ウクライナの農婦が身につける毛皮の着物カツァバイカをしばしばまとい、西欧の貴婦人が好むビロードと絹と重ねられる。

毛皮そのものがフェティシズムの核であり、契約が成立するための衣装規定でもある。鞭を打つときは必ず毛皮を羽織れ、という条件は疼痛の演出ではなく装いの儀式だ。毛皮と毛髪——覆うものと露出するもの——が入れ替わり、ワンダはヴィーナスとして何度も複製される。フェティシズムは小道具ではなく、西欧近代の権力・暴力を東欧の一地方と結びなおす紐である。

いまBDSMの現場で「契約書を書く」「女王を育てる」「毛皮や革を指定する」と呼ばれる手順の、文学的な原型がここにある。マゾヒズムという言葉の元になった小説としてではなく、契約と毛皮と第三の男をどう組むかという、プレイの設計図として読める。

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