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縄味 1 · 第1部

縄味 1 第1部 (1/4)
次の話

本作品はすべてフィクションであり、実在する人物・地名・団体とは一切関係ありません。また、特定の個人、団体、宗教、人種、性別などを誹謗中傷する意図はありません。

あんぷらぐど

SM雑誌に「仲ゆうじ」名でSM小説を執筆して作家活動をスタート。その後、作家活動は休止し、編集の仕事に携わる。ネットでは「ふにゃふにゃ」「あんぷらぐど」名でSM小説を執筆。独自の自虐的SM、一人称による告白形式の作品、伝奇SM小説などを発表し続けている。東京在住。

主な登場人物

画廊にて

スタジオ

指縛

サイン

初縄

感じる

濡れる

生身

義兄

外出

縄奴隷

縄責め

水責め

吊り

異形

マリオネット

撮影

表情

奥付

主な登場人物

私 有森

菜

緒

美

二十七歳 大学時代から読者モデルの経験あり。大手メーカーに勤める夫とは展示会の仕事で知り合う。都内近郊のマンションに住む。

有森哲次 三十一歳 菜緒美の夫。大手メーカー勤務。

有森金男 三十三歳 哲次の兄。バイク事故によって下半身に傷が残っている。

吹雪清玄 五十歳 カメラマン。緊縛写真で知られている。商業写真の仕事もしている。

深川明 六十二歳 縄師。

赤岩陽介 三十五歳 深川の弟子を自認するが、本業は日本画家。

喜美江 三十八歳 ホステス。元女優。緊縛モデル。

絵

夢

奴

二十二歳 緊縛モデル。

シェリー(反町美代) 二十五歳。ファッションモデル。菜緒美を姉貴と慕う読者モデル時代からの友人。

画廊にて

「顔は出さないようにもできますから。少ないですがギャラもお支払いしますし。場所はスタジオなので、ホントにモデルとしてだけなんですけども」

中年のニコニコしたおじさん。ベレー帽が怪しいですが、どうしてか、私に積極的に声をかけていただきました。

興味はあるのです。

なにしろ、この写真展にわざわざやってきたのですから。

ツイッターの裏アカウントで知った「緊縛写真展」。行ったことのない建物ですが、買い物ついでに寄るのだから、と自分に言い聞かせて。

秋風がときおり吹き抜けるかと思えば、突き抜けた青空から夏を思い出させるギラッとした視線を投げかける太陽を感じたりもする、十一月にしては暑い日でした。

銀座で、にぎやかな表通りのすぐ近く。昭和を感じさせる、いまにも壊れそうな雑居ビルの中にギャラリーはありました。

かつては事務所などが入っていたビルでしょうが、ほとんど画廊やレンタルスペースになっています。

中に入るとヒンヤリとした空気が流れ、ホッとしました。

ガタガタするエレベーターは怖そうなので、艶々の木の手すりがついている階段をのぼりました。

四階。少し息が切れます。

木のドアに、凹凸のついたガラスがはめ込まれています。廊下に比べると、室内は明るいようです。

ドアが閉じているので、ちょっと緊張しました。すると中から若い男女がニコニコしながら出てきて、普通な感じです。

彼らがドアを支えてくれたので、お礼を言って入りました。すぐに受付があり、女性に料金を払います。

狭い画廊でした。写真が四方の壁にぎっしり。中央のソファには緊縛の写真集(販売しているのです)。飾りとして縄の束が置かれています。

直視できません。

モノクロの写真を順番に見ていきます。芸術的で、女性の顔ははっきり見えません。陰影が濃く、肌に食い込む縄の表情を浮き上がらせているようです。

目がそれほどよくないので、近づいて見ることになりますが、食いついているようでちょっと恥ずかしいです。

だけど、せっかく入場料を払ったのですから。

肉付きのいいモデルさんは、幾重にも縄でからめ捕られ、とても痛そう。

裸だけではなく、着衣の写真もあります。チャイナドレス、着物、下着、OLのようなブラウスとスカート。むしろ身近に感じてしまいます。

日常のすぐ横に、この世界はあるのです。

立って柱に。鴨居から吊られて。足を開かれて。裸に剥かれて。逆さに吊されて。廊下に寝かされて。檜の風呂で。庭の木々の間に……。

モノクロなので、黒く潰れている部分が多くて、どうなっているのかわからない写真もあるのですが、それは少し引いて見ると、なんともいえない気持ちを喚起させてくれます。

見に来たのに、見えないことがいい、というのも不思議なのですけども。

どのぐらい見ていたのかわかりませんが、時間を忘れるほど夢中になっていたようです。

入ったときに三、四人ほどだったお客さんが、気づくと十人ぐらいに増えていて、突然、息苦しくなり、外に出てしまいました。

「はー、はー」

落ち着くまでしばらく荒い呼吸をしていました。

息苦しさは、部屋の狭さだけではなく、とても興奮してしまい、セックスにも似た快感がこみあげてきたからでしょう。

もちろん、似てはいても、まったく違うものです。

肉体の触れあいから生じる快感である前に、行為にいたる部分で感じる快楽があると思います。

そこには、普段しないことをする快楽とか、思うばかりで実行できない快楽がまざっていると思います。

女性が縛られている写真に囲まれた部屋に自分を置いてみる。それだけで、タブーを犯したような興奮を感じてしまっていたのです。

日常に戻れるでしょうか。このドキドキはいつまで続くのでしょうか。

もう一度、見たいのですが、出てしまったので、再入場はお金を払わないといけないかもしれません。

あの写真集にも興味があったのです。その横の縄の束にも。

結婚して四年。子どもはいませんが、写真集を持ち帰る勇気はありません。

手に入れたら、違法かもしれませんが、スマホで写してどこかに捨ててしまうというのはどうだろう、と思ったりしていました。

そういうことをするのも、よくないことをするようで、妙なトキメキを感じてしまいますが……。

夫は大手メーカーの技術者で、誠実でおもしろい人です。会社でも人気があります。東京ビッグサイトの技術展でコンパニオンとしてお手伝いしたことがきっかけで、お付き合いを二年ぐらいして結婚しました。けっこう時間がかかったのは、夫の休日がほとんどないからです。

技術者は徹夜も多く、たまの休みはデートどころではなく、体を休めるために使うしかないのです。最初の半年、そのことがよくわかりませんでしたが、月に一、二回会ううちにわかってきたので、その後は押しかけ女房のように、手料理を見よう見まねで作って、彼のアパートに届けるようになったのです。

だから、最初に手をつないだのも、キスをしたのも、そしてセックスをしたのも、全部彼のアパートでした。学生時代に戻ったような、退屈だけどいい思い出です。

とても優しくて、いい人で、その彼に「私を縛って」とは、とても言えません。

いまも夫の部屋は、あの頃のアパートのように技術関係の本ばかりです。趣味も鉄道模型や自動車模型なので、その関連の本も、私から見ると、すべて同色に思えてしまうのです。

どんなことでも、専念している人はすばらしいと思う一方で、満たされていない気持ちもあるように思うのです。

贅沢なのでしょうか。

だいたい、彼のキャラクターで「縛ってあげよう」と言ったとしても、雰囲気が台無しでしょう。私は笑ってしまい、彼は「冗談だよ」と言うしかないでしょう。

いい人なので、ずっと一緒にいたいのですが、三年ぐらいたった頃から、退屈のあまりネットでいろいろな情報を見聞きするようになって、自分の中の隠れた欲望がしだいに大きくなっていきました。

満たされないもの。

それを探してはいけないと思いつつ、ネットの手軽さ、便利さから、どんどん検索をして、海外サイトにまでアクセスして……。

ないものねだりで、いっぱい情報を仕入れるようになっていました。

楽しい青春、楽しい仕事、そして恵まれた結婚。なに不自由ない現状。悪い人に出会ったことがありません。酷い目にも合ったことがありません。子どもがいないという点を除けば、順調すぎる毎日。

これで人生はつつがなく終わっていくのかもしれません。

それでいいのかな。

いいに決まってるのですが、ちょっとした隙間を突くようにアダルトな世界にはまりこんで、怪しいブログなどを拝見しているうちに、ついつい裏アカでツイッターまでするようになっていました。

ハンドルネームは大胆にも「なわ」。自分は人妻で毎日男たちに縛られている……。そんな妄想でつぶやくのです。

これまでまったく知らなかった世界に身を置くこと。

ちょっとした楽しみ。わずかな興奮。タバコやお酒のようなもの……。

マゾで男の人からいろんなことをさせられている女性たちのつぶやき、そして写真などを見ていると、私にはとてもできないことですが、体が燃え上がってオナニーをしてしまうようになりました。

こういう人たちが本当にいるのではない、これは商売としての幻想ではないか。

そう思う一方、いてもいい。いなければ、私がなろう、などと夢想して。ひとり興奮するのです。

「菜緒美。おまえを今日から私の奴隷にしよう」

顔の見えない男性に、ぎゅっと腕をつかまれて、私は身動きできなくなる……。

夫は、私とのセックスに飽きたのか、仕事が忙しすぎるのか、ただでさえ頻度が少ないのに、さらに少なくなってきたのも原因かもしれません。

オナニーを日常化してしまい、その場所も寝室ではなく、トイレ、お風呂、居間、ベランダまで広げてしまうのです。

妄想の世界をふくらませていくうちに、わずかな隙間だったはずが、かなり大きな空間になっていました。

妄想はどんどん広がっていきます。空っぽで、表面しかありません。中身を埋めるには、具体的になにかをしなければ。そこに身を投じなければ。オナニーだけでは埋まらない……。

ちょっと思い詰めていたようです。

どうしたら、この虚しさを埋められるのか。中身を埋められるのか。

このところ悶々としていました。

他人に身を任せることはできません。汚されるのはいやなのです。彼との生活が大事ですから。

犯されたいとか、お尻を開発してほしい、恥ずかしいことをされたい、というのは妄想の中だけのこと。

現実では絶対にできません。オナニー用の道具さえも買えないぐらいなのです。

こうして、できないことを捨てて行ったあとに残ったのが、縄でした。

汚されるのはいやですが、縄で縛られることを体験したい。誰かに縛ってほしい。

ぎゅっと、強く。

縛られたら体の自由がききませんから、実際には犯されたり汚されたりする可能性もあるでしょう。

都合のいい話ですが、肉体的な関係なしに、ただ縛られるわけにはいかないものでしょうか。

ネットでモデルを募集している人がいるのはわかっていましたが、いきなりは難しいです。

大学から大学にかけて、読者モデルをやっていたので、あの世界のことは少しは知っているつもりです。

いい面も悪い面も。

なんといっても撮影される快楽に慣れてしまったら、そこで表現する自分が幻だとはわかっていても、一番大切な自分になっていきます。撮られる自分であるために、二十四時間を費やすようになります。

しかも、仕事は自分の都合では得られないのです。楽しみがわかった頃に、はしごをはずされます。

きれいだから、かわいいからではすまない世界です。

いつの間にか、自分は置いて行かれて、隅っこでおとなしくしていた目立たない子が、雑誌の表紙を飾り、専属のスタイリストがつき、「カリスマ」と呼ばれ、テレビに出る……。

どうしてそんな差がついたのか、わかりません。

取り残されましたけど、私はそれほど未練はなかったので、すんなり考えを変えて、大学を卒業することに集中しました。

でも悔しかったんだと思います。細々とカタログのモデルや展示会のアルバイトは続けていました。

そんなときに、展示会のアルバイトで、彼と出会い、今度は結婚にまっしぐら。

読者モデルの世界は遠い過去の、ちょっとしたエピソードにすぎません。

でも、かすかに接点はありそうな気もします。

あの頃の名刺を見て、数人のプロカメラマンの名を思い出しましたが、でもやっぱり「縛って撮影してください」なんて言えるはずはないのです。

オナニーの幻想に登場してもらうことはあっても。

これではいけない。どこまでも虚しいまま……。

だから、思い切って写真展を見に来たのです。

緊縛の写真ばかりの部屋に自分を置いてみたかったのです。

本当に自分はこの世界が必要なのか。

答えがわかると思いました。

現実はやっぱり疲れます。神経がくたくたになります。買い物もやめて帰ろうかな。答えははっきりわかりませんが、考えるのはまたにしましょう。

そう決めたときでした。

ドアが開いて、中年のおじさんが出てきたのです。ベレー帽をかぶって。入り口にあったカメラマンの自己紹介を思い出します。写真展の作家である吹雪清玄さん。

ブログやツイッターを拝見しています。でも会ったことも言葉を交わしたこともありません。

「心配しましたよ。飛び出していったので、具合でも悪いのか、私の写真のせいか、と思ったもので」

「い、いえ。大勢の方がいらっしゃって、ちょっと息苦しくなってしまって……」

「そうですね。私もですよ。あんなに来ていただけるとは思いませんでした。でも、あなたのような方に来ていただけると、本当にうれしいんです」

「え?」

「失礼ですけど、あなたはこの業界というか、そういう趣味の方ではないでしょう? そんなニオイがまったくしませんね」

返事ができずに黙っていました。

「そういう人を探しているんです。なかなか出会うことがないものでね。募集をかけると、いかにもな人がいっぱいきちゃって。人に頼んでも、シロウトさんはこのジャンルは敬遠されるから。たまにいらっしゃるシロウトさんはこの世界のことを知らなすぎて、それも怖いし……。こういう写真ですから、無理やりってわけにはいかないですからね」

私は思わず微笑んでいました。言い方がおもしろいのです。撮っている写真とのギャップが大きいというか。女を裸にして縛って写真を撮っておきながら。無理なことはできないと。

「おかしいですか? いやあ、まあ、そうでしょうね」

彼は名刺を取り出して私に押しつけました。

「失礼ですが、モデルをなさってらっしゃるんでしょう?」

「え?」

「いえ。ファッションとかそちらの。どこかで拝見したことがあるような……」

「とんでもありません」

私は恥ずかしくて、学生時代の読者モデルのことなど、口に出せませんでした。

「そうですか? とても横顔がいいですよ。さっき、見とれていました。カメラマンなら、ほっとかないと思いますけど」

誉められて、少し気分がよくなりました。

そうか、と気づいたのです。

秘めたる思いの中には、やっぱりこれがあったんだな、と。

短期間ながら、読者モデルをしていたとき、カメラマンも編集の人も、とにかく誉めてくれました。仕事のため、いい表情をしてもらいたいからだとは思いますが、一生の間で、あれだけ誉められたことはありません。

「菜緒美ちゃん、いいね、目がきれいだね」

「そうか、そう来たか、そのワンピース、すごくよく似合うね。足が長いなあ。いまの子だなあ」

思い出すとバカバカしい誉め言葉もあったと思いますけど。

あれからは、結婚式のときを最後に、誰からもなにも誉めてもらったことがないように思います。

「すみません。余計なことを言いましたか? 口だけは達者なもので……」

吹雪清玄という名刺。写真家として、業界の組織のメンバーであること。あとは携帯電話の番号しかありません。

「そこそこプロでやっている人間ですから、ご安心ください。主にファッション関係のカタログとかやっています。ですが、まあ、半分以上はこの世界の仕事です」

「そうですか」

ファッション関係のカタログ……。もしかしたら、吹雪カメラマンと仕事をしたことがあるかもしれません。なんだか耳が赤くなっているようで、かなり恥ずかしくなってきました。

「気が向いたら、電話をください。いえ。気が向かなくても、とにかく電話をください。お願いします。スタジオは恵比寿や目黒をよく利用しています。一度、見学にいらしてみたらどうでしょう」

「はあ」

「この展覧会をご存知だったので、私のブログもご存知では? そこに撮影のスケジュールがのっています。モデルさんの関係で動くことも多いのですが、電話いただければ確実なところをお教えします。見に来るだけでも大歓迎ですから」

「夜は出かけられませんので」

吹雪清玄が笑いました。

「ぼくも夜は酒を飲みたいので、だいたい午後に撮影していますよ。二時頃から準備をはじめます。モデルさんの準備ができるのは三時頃かな。打ち合わせもしますからね。それから撮影。衣装を変えたり。けっこう大変なんですが、遅くても九時までには終わります。スタジオを借りる都合がありますからね。それから、私と被写体が二人きりになることは絶対にありません。助手もいますし、ヘアメイクさんとか女性スタッフもいますから」

私は曖昧な挨拶をしていました。

そういえばこの業界、夜の八時、九時は夜ではないのです。終電がなくなる頃が夜。編集者から夜十一時頃に呼び出されて打ち合わせと飲み会が一緒になったようなものに朝まで付き合わされたこともあります。二度とそういうところとは仕事をしませんでしたが、その人と組んだ子はそこそこ出世していきました。

「これを差し上げましょう」

気になっていた写真集です。

「いえ、そんな。お支払いします」

「いいんです。ご覧になって感想を聞きたいんです。お手元に置きたくないなら、この次にお会いしたときにでも、返してください。ぜひ、あなたのような方から感想を聞きたいなあ」

困ります、と言えませんでした。

子どものような笑顔を残し、彼は会場に戻っていきました。後ろ姿を見ていると、最後にニコッと笑って手を振ってくれました。

ズキンと私の下腹部になにかが突き刺さりました。

扉を開けてしまった……。

いえ、まだ開けただけ。

踏み出してはいません。

ドキドキはおさまらず、建物を出て電車に乗ったことも覚えていません。電車の座席に座ることができたとき、はじめて、トートバッグから写真集の角が飛び出していることを発見し、真っ赤になっていたと思います。

角には真っ黒な背景の部分しかなく、文字も写真も見えないのですが、それでも、私はその中身を知っているのですから。

思わずハンカチをその上にかぶせました。

スタジオ

この風景。化粧品の匂い。機材を運ぶ人たち。

懐かしい。

このスタジオは来たことがあります。なんだかホッとします。吹雪さんは、プロの写真家です。スタッフも数人います。

昼の二時から撮影をするということをブログで知り、メッセージを送りました。裏アカからです。

「なわさん、ぜひ来てください。あなたのつぶやきも拝見していました。なわさんだとおっしゃってくれればすぐわかったのですが……」

吹雪からの返事でした。私の裏アカを知っている……。

裏アカでのつぶやきは、すでにいっぱい縛られたことのある女のふりをしていますから、恥ずかしくて名乗れるはずはないのです。

「つぶやきはすべて妄想です」と返事をしました。

すると、こういう返事が来たのです。

「妄想は人間だけが見ることのできる夢。夢をすべて実現できるわけではありませんが、ほんの少しでも夢に近づくことで、あなたの人生はすっかり変わると思います。あなたが踏み出せば、私がしっかり受け止めましょう。それから、あなたは昔、といっても三、四年ぐらい前までモデルをされていたでしょう? 古いカタログを探したら、よく似た横顔の大学生を見つけました。何回かお仕事をさせていただいているんですよ。違っていたらごめんなさい」

もうこうなると、「これは偶然ではない」とさえ思い込んでしまいます。

あの頃、毎日のように仕事でカメラマンの前に立ちました。自分のことだけで精一杯でしたから、ほとんど名前は覚えていません。名刺をいただいたカメラマンもいますが、数十人のモデルたちが一度に登場するような仕事の場合、そういうこともしませんから、ご挨拶だけだったと思います。

仕事が楽しくなってくると、できるだけ仕事をしたくなるのです。正確には仕事ではなく、撮影されたい、その快楽を楽しみたい一心で、読者モデルだから、学生だからと、難しい部分をすべて事務所や大人に任せて、楽しみだけを得ようとしていたのです。

ほとんど捨ててしまったなあ、と思いつつ、古いカタログを探しました。カタログのモデルは、つぎつぎと着替えて短時間に撮影しますから、忙しかったことしか覚えていません。

それにカタログの中の私は、お人形のようであまり好きではありません。

やっぱりファッション雑誌にグラビアで登場するときが一番よくて、それはしっかりファイルして大事に保管しています。

ちょっとした青春の思い出です。

カタログには、数人のカメラマンがクレジットされていましたが、その中に、確かに吹雪清玄の名がありました。

安心したわけではないのですが、「見に行くだけ」というのは、この業界の常套手段だということも知っています。

いかにもビジネスな世界。同時に芸術的な才能のぶつかりあい。そこに、少しでも前に出たいという気持ちの強い人たちが絡まって、独特の緊張感があるのです。

消費するだけなら、もっと気軽にのんびりした空気でいいのでしょうが、創造する場では、ぴーんと張り詰めた空気があって怖いぐらいです。

見学すると、その怖さに魅入られるのです。いやな人は馴染めませんからそこで終わりです。魅入られた人は、一歩前に踏み込みます。いえ、引き込まれます。

恐いもの見たさもあるでしょう。無鉄砲な気持ちもあるでしょう。

学生の頃、私は「これはおもしろい」と思って、その線を踏み越えたのです。

一度でも舞台に上がったことのある人は、その喜びを忘れないと言います。それに似たものがあったと思います。

おまけに、モデルというものは、正直、生まれもった外見が中心なので、最初のうちは才能や訓練の成果だけを求められるわけではないのです。

それだけに、「これでいいのか」と迷いますが、やりはじめると、モデルに求められるものがなにかわかってきて、そこに集中していく楽しみを見つけます。

とはいえ、競争が激しく、すぐ蹴落とされてしまう世界なので、生き残るのは難しいし、やりたい仕事を得るのもかなり難しいことです。

私はそこまで努力ができませんでした。学生気分で甘く見ていたこともあると思いますが、たちまち仕事がなくなって、気づいたらただの学生に戻っていました。

スタジオ見学は、あまり早く行ってもいけませんし、遅すぎてもいけないので、タイミングが難しいのです。二時入りだとしても、すぐ撮影が始まるわけではありません。

モデルが入って、打ち合わせをしながら、衣装を決めたり、メイクをする時間があります。

カメラマンや商業誌の場合は編集者、アートディレクターらがメイク、ヘアスタイルなどを決めるため、準備にかなりの時間を必要とします。

それからカメラの前に立っても、すぐ撮影がはじまるわけではなく、ライティングを変えたり、背景を変えたり、メイクの手直しをするなど、細々とした作業が続きます。

ドラマで見る撮影シーンは、シャッターを切ってばかりいますが、実際にはそれはほんの一部。そこまでいくのが大変なのです。

カメラの前に立つ瞬間。得も言われぬ苦痛と快楽を私は感じていました。緊張の前に、あまりにもそれが強いときは直前にトイレに駆け込んでオナニーにふけったこともあるほどです。

緊張を和らげることはできますが、それほど気持ちがいいわけでもありません。あの頃はセックスを知らなかったので、いまの夫と知り合ったあとは、「セックスを知っていたらよかったなあ」と思ったりもしました。

撮影が終わったあとのセックスは最高かもしれません。残念ながら夫と知り合ったあとはそういう仕事も来なくなっていたので、経験がありませんけども。

スタジオの入り口で先生の名を告げると、許可をもらい中に入っていきました。

「そうそう、この感じ」なんて思いつつ。

作業をする人たちの行き交う姿を見ながらも、それがどういう仕事なのか、すべてわかるのは過去の経験のおかげでしょう。

最初の頃は、どこをどう歩いていいのかさえわからず、怒鳴られたこともあります。

現場というのは、よく怒鳴るのです。このことも、慣れていないとびっくりすることでしょう。

ただ怒っているのではないのです。スタジオは広いので、大声でなければ伝わらないことがあるからです。また重い機材などは危険も伴うし。

本気で怒っているときも、もちろんありますけど。

「ちょっとすいません」という言葉でさえ、怒鳴っているように聞こえる人がいたりします。

スタジオの主役は、こうして忙しそうに飛び回る人たちであって、被写体ではないのです。

「なわさん、よく来てくれましたね」

吹雪さんはうれしそうです。写真展で会ったときとは風貌が違います。目が鋭く、タバコ臭い息をしています。興奮しているのです。ベレー帽を脱いでいます。薄い髪がべったりと貼り付いています。

私が来たからうれしいのではなく、撮影の日だからでしょう。

「あのあたりにいてください。ぼくは仕事になると夢中になっちゃうので、帰るときは声をかけなくてもいいです。いやになったら、お帰りになってください。きょうは早く終わるとは思うけども六時は過ぎるでしょうから」

「はい」

「そうだ。いい人を紹介します。ちょっと待ってて」

まだライティングが決まっていない、緑の

毛

氈

を敷かれたスタジオに残されます。

カメラはなく、三脚だけが四台ほど、脚

立

が三基ほど置かれています。その間で、傘を開いてスタンド式の照明を用意している助手がいます。

電源コードを這わせている助手がいます。

スタジオの天井にあるライトの調整をいろいろ試している人もいます。

吹雪さんは、三十代ぐらいの

顎

髭

を生やした長身の男性を連れてきました。

「まだ師匠が来ていないんだけど、彼は赤岩君」

「赤岩陽介です」

私は挨拶をしました。「なわ、というハンドルネームです」と。

「いいですね。縄のことですよね。ぼくはまだ修業中ですけど、縄師の端くれです」

「彼は、芸大出身の日本画の画家だよ。それでいて縄好きなんだ。とうとう弟子入りしちゃってね。この間、フランスでイベントをやったんだよね」

「ええ。芸大の先輩の個展を手伝って、ついでに緊縛ショーをやりました。着衣でですよ。フランスのモデルでしたが、手足がすごく長くてね。やりにくかったなあ。やっぱり日本人女性がいいですよ」

「はああ」

芸術的な話になると、さすがに私も追いつけません。私の欲望はもっと下世話でドロドロなので恥ずかしくなります。そもそも、安易にハンドルネームを「なわ」としたことを後悔しています。

そこに、ガリガリに痩せた男性がやってきました。黒いシャツに黒いズボン。それでいて雪駄を履いています。お祭りでみかけるような感じの老人で、まずい、関わってはいけない、と思ってしまう印象があります。

そちらの世界に踏み込んではいけない、と。

「こちらが師匠。有名な縄師ですよ。深川明先生」

正直、私の乏しい知識では縄師の名前まではよく知らないのですが、考えてみれば、カメラマンが必ずしも縄を扱えるわけでもないでしょうから、専門家がいて当然でしょう。

「こちらが今日のモデルさん? いい子じゃないか。どこかでお会いしましたっけ?」

「師匠。こちらは見学の人」

「うーん、それは惜しい……」

そういいながら、深川先生は、私の全身をしっかりと見るのです。そして枯れ枝のような手で、私の手首を握りました。その力はものすごく強くて、それだけで身動きができなくなるほどです。

手を引いて、私のバランスを崩すと、左手で肩に手をやり、角度を変えさせました。

「うん。いいよ。うなじもきれいだ。二十代だろ」

「だめですよ、師匠」

赤岩が笑いながら止めてくれますが、言葉だけなのです。

「おれは今日はあんたを縛りたい」

助けを求めて、吹雪さんに目をやりますが、彼は真顔です。そうなればいいと思っているようです。

「あのう」

かろうじて、声を出せました。

「ああ、そうだ、すみません。なわさんは、見学ですから」

「なわ? 本名じゃないよな?」

「ハンドルネームですよ」と赤岩。

「はんたらねーむ? そんなもの知るか。名前が縄なら、いいじゃねえかよ」

「だから、きょうは見学なんです。ねえ、そうですよね」

三人が三人とも、私が「お願いします、縛ってください」というのを待っているようです。

「ごめんなさい。今日は心の準備が……」

謝りました。

「いいんです。当然です。見学なんですから」と吹雪がようやく柔和な表情になりました。

深川先生がようやく手を離してくれました。

そこにヒョウ柄のパンツを履いて、豊満な乳房を見せつけるようなニットを着た女性がやってきました。遠くからも香水が鼻をくすぐります。

「おはようございます。ちょっと遅かったかしら」

大遅刻です。おまけに濃い化粧までしています。これからメイクをするのに。

「ちょっと一件、仕事があったので遅くなりました」

「なんだ、喜美江か」

深川先生はがっかりしたような声。

「あら、喜美江で悪かったですわね。深川先生も、今日もお元気そうで。吊すときに骨折しないでくださいね」

「おまえが体重を減らせばいいんだよ」

仲間内らしい掛け合い。

私は放り出されます。

一瞬だけ、私はスターでした。

三人の男たちの期待をこめた視線。断りにくい誘惑。もう少し時間があったら……。

「じゃ、打ち合わせをしよう」

男たちは喜美江を連れてメイク室に行ってしまいました。そこについていくのは、見学の域を超えているような気がして、私は、用意されたイスに座って待ちました。

モデルは待つのが仕事です。

髪をやってもらい、顔をやってもらい、衣装をやってもらい、写真を撮ってもらう。

私の知らないところで写真が加工され仕上げられ、出来上がってくるのを待つ。

完成された一枚。そこにいるのは私であり、私ではない。みんなの力を合わせて生まれた蜃気楼のようなものです。

どれぐらいの時間が経ったでしょうか。

吹雪、深川、赤石が戻ってきて、今度はカメラのアングルだとか、背景についてあれこれやっています。

助手たちが走りまわって、指示された作業をします。足りない機材を持ってきます。いらない機材を片付けます。

退屈な時間。それが私には楽しいのです。わくわくするのです。なにかが密かに進行していくのです。

とうとうモデルの喜美江さんが戻ってきました。赤い襦袢を着ています。髪をアップにして青いかんざしをさしています。

肌を白く塗り、芸者さんのようなメイクにしています。

「よーし、じゃあ、最初は立ってポーズ取って」

赤い襦袢をはだけながら、今日の主役がポーズを取り、撮影が始まりました。

その間に、影のところで、深川、赤岩の二人が、何本もの縄を用意しています。一本ずつ、ほどいて手でしごき、長く伸ばし、強度をチェックするかのように確認しています。まるで儀式のようです。

「じゃ、軽く上から」

その合図だけで打ち合わせをしているので、みんなわかるのです。

立ったまま、喜美江の腕を背後にねじると、縄がかけられていきます。

捕らえられた女性。立ったまま、しゃがんで内腿をあらわにして。

遠いのと、モデルと私の間には機材やスタッフがいるので、表情まではわかりません。ライトを浴び、ストロボを浴び、どんどん撮影が進みます。

もし、あれが自分だったら……。

「こう、ぐっと開いて」

襦袢の上から縄がかかっていましたが、その襦袢を左右に引っ張って、乳房の大半を剥き出しにします。

白い。ボリュームもあって、とても美しい。最初の印象はもう関係なく、そこには被虐的な女性の姿があります。

ゾクッとしました。

「うしろをまくって!」

赤岩が襦袢の裾を持ち上げて、その先を背中の腕に巻き付けます。

真っ白なお尻が剥き出しになっています。きめ細かな肌。太っていることを揶揄されていましたが、そのプロポーションを保つために、それなりに苦労をしているのではないかと思われます。

「よーし、じゃあ、足もね」

緑の毛氈に横になった喜美江の足首に縄が巻かれます。その間も、シャッター音が響きます。手持ちのカメラで、接近して。手や合図で、助手たちがライトの角度を変えたり、コードをさばいたり。

吹雪さんが手を出して、乳房を引っ張り出します。大きいのですが、少し崩れた感じで、それもまた美しいのです。

乳首がピンと立つように、指先で揉んでいます。

「はあ」と喜美江が声を出します。

愛撫ではありません。必要なカットを撮るための作業なのです。それでも女は感じてしまい、男たちは生唾を飲みます。その気合いが写真になるのでしょう。

私も熱くなってきました。

ファッションのモデルでは絶対にない光景ですから。

表情にも注文をつけています。この撮影はあの展覧会のものとは違い、カラーで、顔も入ったものになるようです。

「いったん、休憩」

縄が解かれて、ストローでお茶を飲む喜美江。髪を直しに来た若い女性が、吹雪さんに言われて、ほつれた髪を目の横に入るようにしていきます。

男たちはさらに入念に打ち合わせ。

「じゃ、次。脱ぎましょう」

喜美江は襦袢をさらりと脱ぎます。化粧を少し直していた人が、それを受け取ります。

襦袢を脱いだ彼女。赤い褌をしています。

それが、とても私にはショックでした。

全裸ではないのです。褌……。

縛られ、撮影されていきます。

吊りは実際にはせず、脚立にのった赤岩が上で縄を引っ張って、吊られているような感じを出しています。

首に、乳房に、褌の上から股間にも。縄がしだに増えていきます。

座らされ、寝かされ、足を開き、逆さにされ。

青竹で足を開いたまま縛られていきます。

カシャ、カシャとシャッターの音。充電されるストロボの音。静かなスタジオ。

それでいて、たまらないエロスの香りが漂います。

もうダメ。

私はゆっくりと立ち上がり、夢遊病のように、ふらふらと廊下を歩きました。

この衝撃をどう受け止めていいのか、自分でもわかりませんでした。

慣れ親しんだスタジオ。ですが、そこで展開されているのは、日常ではあり得ない世界。私にとっては幻想の世界なのです。

喜美江は悦んでいたのでしょうか。表情がよく見えませんでしたが、吹雪さんの作品の中では、彼女はきっと喜悦の表情を見せているはずです。

それがつくられたものであったとしても。

いえ、本気でしょう。もう、そんなことはどうでもいいのです。そうとしか思えない表情が出せていれば、それはもう、ホンモノなのです。

この日、どうやって家に帰り着いたのか、思い出せません。オナニーをするどころではありませんでした。しばらく放心状態でした。

指縛

スタジオ見学のあと、吹雪さんから一度だけメッセージがありましたが、それは撮影した作品が掲載される雑誌の発売日などを告げた事務的なものでした。

親切にしてもらい、アクションを起こすなら、今度はこちらの番です。

それができずに、ずるずると時間ばかり経っていきました。

頂いた写真集は大切にしまってあります。置き場所に困るのですが、洗面所の引き出しに場所を作りました。ここはおそらく安全です。パッと見ても、洗剤や柔軟剤のストックしか見えないでしょう。

頻繁に写真は見ています。

「これが私だったら……」

どんな感じがするのか、想像しています。

少し踏み込んで行動をしたのに、近づくどころか、かえってその世界は遠くなったように思えました。それでいいのかもしれません。ハンドルネームでのつぶやきも、やめています。

ほかの人たちの言葉を眺めるだけでした。

珍しくメッセージがありました。

赤岩。縄師である深川明の弟子を名乗る男からでした。

「なわさん、雑談でけっこうですので、どこかでお会いしませんか」

そんな内容。

私も、とっかかりを失い、ふんぎりもつかず、赤岩の申し出にのりました。

渋谷の文化村で待ち合わせました。地下のカフェに行くと赤岩が一人でいました。サングラスをかけて、少し自意識過剰なのではと思わせるように、足を組んでコーヒーを飲んでいました。

「いやあ、まだ暑いですね」

「ええ。着るものに迷います」

私は長袖の薄いニットに、一枚羽織って、スカートでした。

「なわさんは、お時間は大丈夫ですか?」

「はい。昼間は比較的」

仕事をしていません。子どももいません。買い物や友人たちと会うほかは、けっこう退屈しています。

ドラマや映画を見ていたこともありましたが、最近はすっかりあきています。

なにかがしたい。それが間違った方向だとしても。

「吹雪さんの撮影に参加されます?」

「迷っています」

「顔を出さなくてもいいんですよ。服を着たままでもかまわないし」

「はあ」

「見学がかえってよくなかったですか?」

「そんなことはありません」

「縛られたこと、あります?」

赤岩はさらっと言います。

「いえ、ありません」

「そうですよね。普通はそうです。一度に二つのハードルは越えられませんからね。私たちのモデルになる、しかも縄ですからね。一つずつ、クリアしたほうがいい。どうでしょう、いまから少しお教えしてもいいでしょうか。縄は持っていません。これなんですけど」

荷造りなどに使う、細い麻紐を彼は取り出しました。

彼は麻紐で輪を作り、あやとりをはじめました。

「やったことあります?」

「ええ」

「じゃ、これを取ってみて」

彼が両手の指の間につくった図形のような紐に、指を入れて、自分のほうに紐を移しました。保育園か幼稚園でやって以来だと思いますが、なんとなくできました。

それをまた彼が取り、私がまた取ります。

「あ、わからなくなっちゃった」

取り方を間違えたらしく、模様ができませんでした。

「どうです、こういうの?」

「え?」

「指の感触ですよ」

「はあ」

よくわかりません。

「手を出してみてくれます?」

「こうですか?」

ガラスのテーブルに右手を出しました。

「指を縛ってみますから。ほんの試しなので」

彼は人差し指に麻紐をかけました。

「緊縛といっても、基本は同じです。きゅっと絞る、ぐるっと巻き付ける、そしてぎゅっと縛る」

輪を使って、指にかけて引き絞ります。ぎゅっと絞ったあと、中指にまきつけて、最後に間に通して縛りました。

これを縄で閉じた足にされたら、私は身動きできないでしょう。

「さらに、縄を組み合わせます」

縛った二本の指に新たな縄をかけて、内側へと絞り、手首にしばりつけます。

「痛いですか?」

「ええ、ちょっと」

さらに薬指と小指も同じように縛って、手首に結びます。

指を曲げることができず、伸びたまま、手首の方を向いています。

変わり果てた自分の手。

「こちらの手も」

左手を差し出すと、人差し指を小さく曲げて、縛られます。中指、薬指と順番に小指まで。少しは動かせますが伸ばすことはできません。色が変わってきます。

「痛いですか?」

「かなり」

「ちょっとガマンしてください」

赤岩は、自由な私の親指をつかんでいます。親指に輪をかけて根元を縛りました。そしてその紐を右手の親指にかけます。

「どうです」

指の自由を失い、親指同士が結ばれてしまうと、腕の自由そのものがきかなくなります。

「お茶を飲めますか?」

「ムリです」

手首は回りますけど、なにもできません。

「痛くなってきたでしょう」

「はい」

「だけど、あなたはこれが好きなんです」

そうでしょうか。

不思議な感じがしています。

「このまま、帰りますか?」

「え?」

「冗談です。でも、こうなると、ちょっと焦るでしょう?」

「ええ」

これだけ縛られると、自力で解くのは難しそうです。口を使えば解くことができるでしょうか。歯で切るには丈夫すぎる紐です。

「鬱血してきて、ほら、指の色が紫色になってきましたよ」

「あ、ホントだ」

自分の指が、自分ではないような感覚。痛いのです。もう耐えられないと思うのに、彼にそれを言えずにいます。

「こんな姿の指を見たこと、ありますか?」

「いえ」

「どう思います?」

「不思議です。自分のものじゃないみたい」

「そう。それでいて、痛みは感じるでしょう」

「ええ」

「つまり、それがあなた自身なのです」

よくわからない。

「あなたは、こうされたいんだ。全身で、これを感じたいのです。自分ではないようで、紛れもない自分を自分で感じること」

私は指を動かしてみました。もがいてみたのです。すると、紐が食い込んできて、じわじわと肌を痛めつけていくのがわかります。

どうにもならないのですが、そのもどかしさと苦しみは、不思議なおもしろみに変わります。

「なわさん、笑っていますね」

「え?」

「どんな感じなんです?」

「おもしろいです」

「なるほど」

赤岩はニコリとしました。

赤岩はスマホで私の手を撮影しました。いろいろな角度から。

それだけではないのです。

スプーンを縛られた右の指の間にねじ込んできました。

「あっ」

テーブルにある砂糖の細長い袋も。

「なわさんは欲張りですね」

右手の指の間にはさんでいきました。

なにをされても、抵抗できません。

昼間のカフェで、こんなことをして遊んでいる大人はいないでしょう。

店員さんやほかのお客さんに見られているように思うのですが、これがなにを意味しているのか、わかっている人はいないと思います。

それなのに、全裸の私自身がこの場で縛られて、さまざまな器具で責められているような妄想をしている私は、すごく淫らな気持ちになっていました。

赤岩は自分のコーヒーをスプーンですくい、動かせずにいる縛られた指の上に。

「もう、あまり熱くはないでしょうけど」

スプーンがほんのわずか傾くと、黒い液体がぽとりと手の甲に落ちました。

「あっ」

あまり熱くはないのですが、それでもとても感じてしまいます。

「ふふふ。なわさんは敏感すぎるのかな?」

彼が私の手を取り、持ち上げました。

そして唇を近づけていき、ニコッと笑い、コーヒーで濡れた手の甲にキスをしました。

声も出ませんでした。

「失礼。このぐらいで許してあげましょう」

素早く紐を解いていきました。あれだけがっちり食い込んでいた紐ですが、ハサミで切ったりすることなく、やすやすと解いていくのです。

徐々に血が通い、自由になっていく指。そして手。

紐の跡があちこちにくっきり残っています。

握ったり開いたり、さすったり。指と指をこすり合わせながら感覚を確かめます。

「それが、あなたです」

彼に言われて、つくづく眺めました。かわいそうな指。紐で縛られて、不自然なかっこうをさせられて。恥ずかしい思いをして。深く跡がついて。

全身を縄で縛られたら、どうなってしまうのでしょう。

「吹雪さんとうちの師匠から頼まれましてね」

「は?」

「年齢的にぼくなら少しは近いから、話がしやすいだろうってことなんで……」

ぼんやりしていると、彼はこう言うのです。

「あの二人はあれから、あなたのことばかり話しています。どういう風に縛り、どんな作品にするか。夢中なんです。なんとかあなたを口説きたい。スタジオに来てほしい。というわけで、ざっくばらんに話をしてこいと、全権を任されて来ました」

迷いがふっきれたわけではありません。指に残る痛みを味わいながら、切望している自分を感じてはいても、承諾をする勇気はありません。

「着衣でいいんです。条件は飲みます。一度でいいから、作品に参加してほしい。あまり高いギャラは払えませんが、多少はご用意できます、きっといい思い出になりますよ」

説得してくれるのはうれしいのですが、いまここでの決断は下せそうにありません。

「最終的に決めるのは、いらしてからでもいい。明日、この間のスタジオに来ていただけませんか。プランだけでも聞いてほしいそうです。いやなら、その場でやめます」

「そんなことをしたら……」

「大丈夫です。あなたがNGなら、ほかのモデルさんを呼ぶことになっていますから」

「申し訳ないわ。ほかのモデルさんにも……。私みたいなシロウトが……」

「その人もシロウトで主婦で、候補になっている人なんです。テストで撮影しようという話になっています。ですから、その人のことは気にすることはありません。ただ、明日の撮影はあなたのために準備したのです」

「考えさせてください」

「明日、二時まで待っています。その時点でもう一人のモデルさんに連絡することになっていますから……。来られないときは、それはそれで、またの機会があればということにしますので。お待ちしています」

一人で帰りましたが、ずっと指を見ていました。

跡は簡単には消えません。こすっても、さすっても。

あの感触。

縛られていく間の気持ち。

なにもできないんだ、という感覚。

きつく、痛く、それでいてジーンと痺れるような熱さ……。

いまのところ、なにものにも代えがたい悦び。

私の中で、なにかがはっきりと動き出したように感じました。

サイン

スタジオの前に立っていました。

二時の約束ですが、まだ一時です。近くに、昔よく行った喫茶店があり、久しぶりにパスタのランチを食べました。

夕べから、ついつい指を見てしまいます。直後の電車の中では、くっきりと恥ずかしいほどに残っていた紐の跡。それが夕食の支度をしている間に薄れていき、お風呂に入る頃にはほとんど消えていました。

帰りの遅い夫を待ちながら、何度も指を見ていました。

忘れられない感覚……。

跡のあるままの指で自分の股間を触ってみたかった……。

ギリギリまでゆっくりすればいいのに、そうはせず、スタジオに向かいました。

もう一人、シロウトで主婦のモデルがいるという話が、少し引っかかりました。二時までに行かなければ、その人を呼ぶというのです。

いつも、ライバルに先を越されて、苦い思いをしてきました。それは、度胸というか踏ん切りがつかなかったからだと思います。

もし、私が行かないことで、そのシロウトさんのテストがうまく行き、二度と誘いが来なかったら……。

正直、悔しいと思うのです。

吹雪さん、深川先生、そして赤岩までもが、その主婦に夢中になって、彼女を縛り撮影していく……。

彼女は歓喜の中にもだえるでしょう。全身を縄に包まれて……。

その写真集が出たと、パソコンの前で知ったら……。自分だったかもしれない写真集。きっと、嫉妬すると思います。後悔すると思います。

したことへの後悔より、しなかったことへの後悔の方が大きいと、昔の人が言っていたそうです。

受付で連絡を取ってもらうと、吹雪さんがやってきました。いつものベレー帽。

「ようこそ。お待ちしていました」

握手されました。

「いろいろプランがあるんです。慎重に進めていきましょう。いやあ、本当に来ていただいてうれしいです」

深川先生と赤岩もいましたが、彼らはひっそりとたたずんでいます。

赤岩に笑顔はありません。真剣なのです。

「向こうにスタイリストがいますから、着替えてください。着衣で、顔を出さない、という約束は守りますので」

強引ではないにせよ、テンションの高いカメラマンのリズムで、小部屋に入ります。

「じゃ、よろしく」

彼らは入ってきません。

女性二人が待っていました。

用意されていたのは振り袖です。

まさか着物だとは。

あまりに意外でびっくりしてしまいました。そもそも、髪は長く伸ばしていますけれども、今日は伸縮性のあるスリムパンツとニットという軽装でしたから、ヘアバンドで簡単にまとめただけでした。

モデルは素材なので、あまりいろいろなことを勝手にしてもダメだろうと思っていました。

「すごく髪質がいいわね。ストレートのロングヘアだから、そのままでいけますね」

二人は相談しています。

「着物はよく着ますか?」

「一応、着付け教室には通いました」

「きっちり着てみましょうね」

彼女たちの前では服を脱ぐことになりますが、それほど抵抗はありません。モデルの真似事をしていたときも、大勢の中で着替えていましたから。

「まあ、すべすべつやつやね。もち肌だわ、うらやましい。日焼けしたことないんじゃない?」

「水着は苦手なので」

一度も水着の仕事は受けませんでした。その頃はあまり色っぽくないからダメだと思っていたのですが、いまから思えばそのふんぎりのなさも、ライバルたちに置いていかれた原因でしょう。

「すてきなプロポーションよ。水着もいいと思うわ」

二人は三十代後半のようです。業界の人らしく、楽しい会話をしながらも、てきぱきと進めていきます。

一度、着付けを最後までやってしまいます。

振り袖を着るのは久しぶりで、ちょっと恥ずかしいようなウキウキするような。

白を基調としてそこに朱色の大輪の花があしらわれ、周囲に雪のように模様が散らされています。

吹雪さんたちが入ってきて、確認をします。

「いいね」

「髪はどうしましょう」

「上でまとめておいて、あとでほつれるような感じがいいなあ」

カメラマンが決めることなので、ほかの人たちは彼に意見を問われるまでは黙っています。

「よし。これでいきましょう。メイクは濃い目にしてください。顔は写さないけど、唇と頬は入れたいのです。菜緒美さん、それぐらいはいいですよね?」

「はい」

「じゃ、その線でいきましょう。なわさん、申し訳ないけど、今日は振り袖で、生娘の雰囲気でお願いします。あなたにはその雰囲気がありますからね。成人式の頃を思い出してください」

すると深川先生が「今日が本当の成人式ってわけだな」とつぶやきます。

冗談かなと思って見ると、まじめな顔をしていました。

男性陣が引き上げると、着物を脱ぎ、襦袢のままメイクに入ります。いわゆる白塗り。朱色の紅を口に。髪はいま風の成人式でよく見られる上に盛り上げていくタイプ。

二人は手際がよく、しばらくちょっとした緊張と髪をいじられる快感に酔っていました。

なんと久しぶりのことでしょう。プロの人たちとの現場。

読者モデルとして遊び半分で仕事をしていたときは、これがそれほど大切な時間だとは気づきませんでした。

いま、噛みしめながら、自分にとって、すごく貴重な宝物ではないかと再確認していました。

いつの間にか、鏡の中に、別人がいました。写さないことになっているのに、目元まできっちり派手なメイクをしてくれています。チークがピンクになって、本当に成人式の頃を思い出させてくれます。

鏡の中の自分を縄で縛りあげて、めちゃくちゃにしてやりたい……。

そんなことを想像する自分がいました。

赤岩が来ました。

「準備いいですか?」

鏡の端に彼が見えます。

メイクさんたちが「終わりました」と宣言しました。

いよいよ始まるのです。二度目の成人式。深川先生に言わせれば「本当の成人式」が。

「そうしたら、これにサインをお願いできますか?」

撮影の許諾と契約書です。細かい文字ですが、きちんと全文を読みました。顔を出さない、本人と特定されるような写真にしない、着衣での撮影のみ、といったこと。そしてちょっとしたギャラが提示されていました。

私はそこにサインをしました。

「菜緒美さん、なんですね。なわさんは」

縄味 1 第1部 (1/4)
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