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縄味 1 · 第2部

縄味 1 第2部 (2/4)
前の話 · 次の話

はじめて本当の名を明かしたのです。

「菜緒美さん、ありがとう。とりあえず、第一歩ですね」

赤岩がやっとニッコリ笑ってくれました。

初縄

スタジオは、暑く感じられました。振り袖を着て、興奮しているのでしょう。

アシスタントの人たちは準備をすっかり終えていて、以前見学したときとは違い、吹雪さんと、深川先生、赤岩だけが前面に立っていました。

「美しいですね。そのまま撮りましょう」

セットは群青色の背景、黒い布の上に畳が二枚置かれているだけです。

そこに立って、よくある立ち姿のポーズを取りました。何カットか撮影されます。右を向き、左を向き。手の位置を変えて。

「じゃ、先生、お願いします」

深川先生と赤岩が縄を持ってきました。

いよいよ、初めての縄です。

「手を出して」

言われるままに両手を出すと、細い皺だらけの手で強くつかまれました。手首に縄がからみつきます。

「いわゆるお縄だな」

両手首をしっかりと縛り付け、縄は長く余っています。

「これ」

縄尻を赤岩が手にして、背景の後ろへ回ります。そこに脚立があるらしく、縄が上に上がっていきます。

「もうちょっと上」

吹雪さんが指示します。

私は立ったまま、手を上げるかっこうになりました。目よりも高いぐらいのところ。肘は曲がっています。振り袖がそこまでずり落ちます。

「どうですか、痛いですか」

赤岩が上の方から声をかけてくれました。

「大丈夫です」

むしろ、初めての縄を手首に受けて、興奮しきっているのです。想像していたよりも細い縄なのに、それががっちりと手首に食い込み、まったく動かせません。それを吊り上げられると、自由がないことがよくわかります。

いつ撮影されているのか、意識することさえなくなりました。

最後には吊り下げられているかのように、手を真上まで上げられました。

深川先生が別の縄を持ってきて、赤岩もおりてきました。いったん、縄がほどかれます。

「手をうしろに」

両手を帯の上に。上下に揃えられ、なすがままに縛られていきます。そこからの先生の速いこと。あっという間に後ろ手に縛られていました。首に縄がかかり、胸の上に水平に何度か縄が回されました。脇の下を縄が通っていきます。

しばらく男たちの息と、布と縄がすれる音しかしません。

「そのまま座ってみよう」

縛られた腕をとられて、慎重に正座します。肩を押されて横座りに。

振り袖がだらりと垂れています。

「足袋を片方、半分脱がせてみて」

こはぜを外してかかとが剥き出しになります。

「少し髪をほつれさせて」

ピンと飾りでまとめた髪の一部を、ヘアメイクの女性が外してほどけさせます。

「もうちょっと」

男たちがやり取りし、照明の位置が変わり、気づくと吹雪さんはかなり近いところにカメラを構えていました。

ああ、なんだかすごくうれしい……。

ぎゅっと縄で縛られながら、自分の気持ちとは関係なく、被写体にされている感覚……。

かつての経験では、ここまで物体のようにされることはなかったし、ちやほやされて、気取っていたと思います。それに、あの頃は、自意識ばかりで、このような物扱いされることに激しい抵抗感がありました。

「はっ、はっ」となぜか、浅い呼吸をしています。

「休憩入れましょう」

いったん、縄が解かれました。

その場での休憩で、赤岩にすすめられてセットの横にあるイスに腰掛けました。スタイリストさんが水と炭酸を持ってきましたので、私は水をもらいました。ストローで飲みます。

「見ますか?」

「はい」

吹雪さんが、カメラを持ってきて、液晶画面を見せてくれました。

何十と撮影されている私。巧妙に角度をつけて顔をはっきり撮らないようにしてくれています。

「いいでしょう」

「自分じゃないみたいです。もちろん、いい意味ですけど」

「もう少し本格的にやってみましょう」

「はい」

前で腕を交差するかっこうに縛られました。自分で自分を抱えるような感じです。

そして畳に仰向けに寝かされ、裾をはだけていきます。ヘアメイクさんが一段と髪を崩して、顔を隠すように前に垂らしていきます。

「ここを、ぐっと開いて」

赤岩が吹雪さんに言われて、襟に手をかけ、左右にぐいっと開きました。

「あうっ」

きっちり着込んだ着物を崩すのです。

その間に深川先生が足首に縄をかけていきます。

気づけば、左右に足を開かされ、膝のあたりまで裾がめくれ上がっています。

赤岩、先生がそれぞれに足首の縄を手にして、セットの横で引っ張るのです。

「あっ」

私はむりやり開かされて犯されている女性のように、左右に上体を揺らしながら、膝を曲げて抵抗します。

「そらそら、どうだ、菜緒美」

本名で呼ばれてドキッとします。これは幻ではないのです。妄想ではないのです。かりそめとはいえ、現実のこと……。

「菜緒美、感じてるんだろ?」

「ああ、許して」

「だめだ」

深川先生とそんな会話を自然にしています。

「膝曲げないで!」

吹雪さんが怒鳴りました。

曲げすぎていたのでしょう。伸ばしたら、足首の縄がぎゅっと引っ張られていきました。

「ひっ」

このまま三人に犯される……。

そんな妄想と締めつける縄の感触に、だらりと涎が……。

その後、しばらくなにがなんだかわからない時間が過ぎました。

「帯を解こう」

吹雪さんがそう宣言しました。

感じる

腕の縄をほどき、帯を取っていくのですが、その崩れていくところで、いくつか手首に縄がついたままで撮影されました。

このまま着物を脱がされていくまで、撮影が続くのでしょうか。着衣、顔NGの約束でした。だけど、いまは、すっかり脱がされてしまいたい。最後まで撮影を続けてほしい。そう思いはじめていました。

時間の感覚はなくなっていて、スポーツをしたり、夫とのセックスでも、これほどの浮遊感は味わったことがありません。

帯をすっかり緩めて、股間に垂らして、足でからめるようなかっこうをさせられます。

少しそのまま休憩。

「トイレに行っていいですか」

このまま非日常の中にのめり込んでいくのが少し怖くなり、スタジオのトイレへ。帯を解いたので着物も脱いで襦袢姿でいきます。

冷たい空気の流れるトイレで用を足していると、少し気持ちが落ち着いてきました。

股間を拭くと、かなり過敏になっています。ただ、緊張しているのでしょう。ここでオナニーをするような気分にはなれません。

このあとの撮影、いえ、撮影なんてどうでもよくて、正直に言えば、縄が気になってしかたがないのです。

戻ると、「足を縛ろう」と深川先生が縄を手にして待ち構えていました。

帯と着物が、抜け殻のように拡がった上に襦袢姿で横になりました。

「いい足をしている」

先生が足首を持ちながら、ふくらはぎを触ってきました。

「この子、すごく筋肉が柔らかいんだよ」

吹雪さん、赤岩も、私の足を触ります。

「くすぐったいです」

「ほんとだ。若いからじゃないですか?」

「いいや。そんなことはない。最近の子は体が硬いやつが多くてさ。ガキの頃から肉ばっかり食ってるからだ。アフリカを見ろ。肉食獣は草食獣を襲うんだよ。肉が柔らかいからに違いない。人間だって、同じだろ。肉の硬い女は縄のノリが悪いっていうか……」

深川先生はぶつぶつとなにか文句を言っています。

「菜緒美さんは、すっかり気に入られたみたいですね」

赤岩が苦笑しています。

「私が先に見つけたんですからね」と吹雪さんが言います。

「わかってるさ。こいつは大当たりだよ」

深川先生はそういいながら、早くも足首に縄を回しています。

ぎゅっと縄がからみます。

「もうわかったと思うけど、縛るといっても、やたらに締め付けているわけじゃないんだ。必要以上に締まらないように工夫もしている。もちろん、簡単には緩まないけど」

赤岩が教えてくれます。

両足を揃えて縛ったあと、その縄を

脹

ら

脛

から膝へと、右へ左へと縄を渡しながら、編み上げるようにしていくのです。

先生の手が太ももに達します。縄と先生の指で愛撫されているような感触。慣れるのでしょうが、はじめてなので、感じすぎてしまいます。

足が荷物のようになりました。

「いいですね」

撮影が再開されていることに、気づきませんでした。

この時から、私は撮影のことよりも、自分が縛られていくことにだけ集中していきました。

こう言ってはなんですが、撮影は方便です。

ただ縛られたいだけなのです。いきなりでは、自分でも受け入れにくい。そこに「これはモデルとしての撮影だ」という方便をプラスすると、少し受け入れられたのです。根っ子にあるのは自分の欲望に過ぎません。

それが、このときから、ふーっと自然に解きほぐされていったのです。

体は縛られているのに、気持ちはほぐれていく。

妙なことですけども、「ああ、これが私の望んだことなんだ」と感じて、「素直に縛られればいいんだ」と開き直ることができたのです。

これが私なのだ、いまの私は縛られる私なのだ、と。

さっきはトイレでなにも感じなかったくせに、いまはびっちり足を閉じて、縛り上げられたとたん、自分の陰部を激しくかき回したくなってしかたがなくなっています。

「はー、はー」

はしたなく、荒い息をしてしまうのです。

赤岩が手首も縛ります。先生がやったように、両手首を縛り、そこから肘まで、腕を揃えて荷物のように縛り上げていきました。

手足の自由を完全に奪われたとき、エクスタシーは頂点に達していました。

彼らが、私を横に向けたり、うつ伏せにしたり、体を無造作に触ってポーズを変えていく間、声を出さないようにするのに必死になっていました。

「あああ」

ついに少し声が出てしまいました。

「菜緒美さん、大丈夫? 痛いですか?」

赤岩が気遣ってくれます。

返事ができません。

激しく燃え上がっている私は、場所もわきまえず、反り返っていました。

「菜緒美さん」

赤岩が慌てていますが、深川先生は彼を押しとどめます。

「いいぞ」

いつの間にか、吹雪さんは私を正面から撮影していました。

顔は出さない約束でしたが、写真のことなど、どうでもよくなっていたので、何十枚と写真が撮られるまで、気づきませんでした。

「よーし、いいのが撮れた!」

吹雪さんがガッツポーズをしています。

「今日はここまでですね」

赤岩が縄を解きます。

吹雪さんと深川先生は少し離れたところで、なにかをひそひそと話しています。

恥ずかしさがこみあげてきます。

同時に、私の感情のほとばしりのせいで、撮影を台無しにしたような気がしてきました。

すっと冷めて、不安になってきたのです。

「すみません」

謝っていました。

「え? どうして菜緒美さんが謝るんですか?」

「よくわからなくなって。ご迷惑をかけたかと」

「そんなことはないですよ。素晴らしかったですよ。かなり痛かったですか?」

「いえ。そんなことはありません」

手と足だけの束縛で、こんなに感じてしまったのです。痛みなど、大きな問題ではないのです。いえ、もしかしたら、もっと痛い方がよかったかもしれません。

赤岩がすっかり縄を整理していると、吹雪さんと深川先生が戻ってきました。

「ご覧になりますか?」

「はい」

今度は吹雪さんはカメラのデータを、大型のタブレットで見せてくれました。

鮮やかな陰影の中に、私がいました。

いやらしい顔をした菜緒美。

自分でも見たことのない自分。

縄がからまる足。白い肌。感じていることがはっきりわかるのは、当人だからでしょうか。

それとも、吹雪さんたちにもバレていたのでしょうか。

自分からは確かめられません。

「これは発表はしません。約束ですからね。顔は隠します」

「お願いします」

「ですが、いずれ、許可をいただけるのではないかと期待しているんです」

「え?」

深川先生が私の手首を握りました。

「あんた、感じているだろう?」

返事ができません。

「いいんだよ。隠すことはない。縄の魅力にひかれて、吹雪さんの写真展に行ったんだ。そこで声をかけられて、とうとうここまで来た。そういう人がいてもいい。どうだ。縛られて、よかったか?」

「はい」

深川先生はにっこりと笑いました。

「気に入った。おまえさんをまた縛りたい」

「ぼくも、また撮影がしたい」

二人に迫られて、私は胸が苦しくなりました。

「また連絡します。考えておいてください。今日の写真は発表前に必ず、連絡してチェックしてもらいます」

「お願いします」

「モデルとしての名前はどうしますか?」

赤岩が言うのです。

「菜緒美さんじゃマズイんでしょう?」

そこまでは考えていませんでした。

「考えておいてください」

女性たちが着物を片付けていきます。

一緒に控え室に戻ってメイクを落としました。

襦袢を着た自分。そのすぐ下は皮膚です。

吹雪さんたちの手放しの喝采。あれは、間違いなく、次の段階へと私を進めようという圧力でしょう。

「

絵

夢

奴

さん、入られました」

赤岩の声がした。

えむど? なんだろう、と思って振り向くと、小柄な若い女性がやってきました。ほっそりとして、長い髪を背中に垂らしています。

「おはようございまーす」

スタッフと挨拶をして、私の隣に座りました。

「あ、今日は振り袖なの?」

私の着た着物を見ています。

「楽しみー」

赤岩が来ました。

「こちら、絵夢奴さん。もう一人、お願いしていたモデルさんです」

「あら、よろしく」

彼女は屈託なく笑顔です。

私がこれまで見たモデルたちの範疇には入らないタイプの女性です。若い。小柄で、胸がすごく大きい。でも、顔が下品というか、歯並びがとてもひどい。笑うと、その歯が出てしまいます。しかもやや黄ばんでいます。

男好きのする愛嬌のあるタイプだとは思いますが……。

「菜緒美さんは、今日、テストで来た方です」

私のことを赤岩が紹介してくれます。

「なわみさん? どう書くの? 私は、マゾの

M

、奴隷の

奴

からとって、絵と夢と奴で、えむど。そうだ、あなたは縄好きで、縄に味で『なわみ』でしょう? きっとそうよね!」

彼女の勘違いというか。トンチンカンな会話です。

菜緒美だと言っているのに。そんな平凡な名前では、モデルになってはいけないとでも言うのでしょうか。そんなことはないと思います。ハーフの子たちはともかく、私の知る限り、覚えやすい普通の名前の子が多かったし、本名でやっている子も多かったのです。文字を少しだけ変えたり、平仮名や片仮名にするといった工夫はしますが。

絵夢奴なんて名前、私は好きではありません。そして縄味なんて。本気なのでしょうか。

私がダメだったら、別の主婦をテストすると言っていたはずです。二時までにスタジオに来なければ、その人に連絡すると。

それが彼女? ベテランのように見えます。

そこに吹雪さんと深川先生が来ました。

「絵夢奴さん、忙しいところ、ありがとう」

歓待しています。

「今日はあれ?」

振り袖を指さします。

「そう。最初から着崩した感じで。今日は吊りますからね」

「あら、うれしいわ。逆さ吊りは?」

「いいですか?」

「ええ。平気。今日は気分もいいし。いけそうよ」

「じゃ、やりましょうか」

同じ衣装なのですが、彼女の場合はずっとハードな撮影になるのです。

「見ていけば?」

絵夢奴さんが私に声をかけてきます。

「ごめんなさい。行かないと」

昔のことが甦ります。

友だちになろうと接近してくる同業者の狙いは二つしかありません。まとわりついて、こっちを踏み台にするか、こっちに乗っかって一緒に引き上がろうとする人。そのどっちかでなければ、悪いことを教えるか、なにかを売りつけようとする人です。

友だちができることもゼロではありません。それでも、たいがいは共通の友人を通して紹介されるまで、距離を置くほうがいいのです。

彼女とは距離を置かないと。

「こういうの、使うけど」

吹雪さんが、箱を持って来ました。ピンクや黒の淫具が並んでいます。彼女はそれを手にして、スイッチを入れ、ぐねぐねと動かします。

「あら、これいいわ。使ってみて。ね、赤岩さん」

一番若い赤岩に、媚びます。

見ていられないので、私は立ち上がりました。

「どうもありがとうございました」

きちんと挨拶をして、そこから出ました。

彼女の大げさな笑い声が響いています。

吹雪さんたちに、私のことを根掘り葉掘り聞くでしょうか。

せっかく気持ちのいい、初めての緊縛だったのに。

心がざわざわしたまま、暮れていく中を急いで帰宅したのでした。

濡れる

なにかに気づいたわけではないのでしょうが、珍しく夫が積極的に体を求めてきました。

「おまえ、本当に気持ちのいい肌をしているな」

珍しく誉めてくれました。

不思議なことです。

手首と足の縄の跡は、ごまかす必要さえありません。夫は暗い部屋でするのが好きだし、あまり体をべたべたとは触らないのです。だいたい首と肩、腕、そして乳房が好きなのです。

すっと入って来て、キスを長くします。抱き合ってそうしていると、とても安心します。

裏切ってはいないのだ、と思いながらも、気がとがめます。

内緒でやっていることがあるから。それは浮気ではありませんが、裏切りと言われても仕方がないこと。

「あなた。今日は、振り袖で縛られてきたの」

「ふーん。どうだった?」

「すごく感じてしまったわ。セックスとは違うけど、すごく感じたの」

「おまえは、敏感すぎるんだよ」

そんな会話をするわけがありません。

夫に言うべき機会はいつか来るかもしれません。いえ、すでに逃したのかもしれません。

なんだか撮影のことを思い出し、自分がいま縄にからめとられていると想像しつつ、彼にされるがままになっていると、はしたないほどの欲情がにじみ出て、なんでもしてほしい気持ちになってしまいます。

ごくごく慎ましい、普通のセックスでも、この夜はとても乱れてしまって、楽しい時間でした。

夫も満足してくれたようです。

手をつないで寝ました。

彼を裏切ることはできないな、とあらためて思うのです。

着物の上からとはいえ、縛って撮影もしてもらったし、思い残すことはないのではないか。

もうやめるべきではないか。

これ以上、関わってはいけないのではないか。

幸い、次回についてはなにも聞いていません。契約書にもそのような、拘束性のある項目はありませんでした。むしろ秘密を守る義務などの厳しい項目は吹雪側にばかりあったのです。

契約書そのものは、昔からやっている仕事のものと変わりはないのですが、いまも大事に置いている昔の仕事の契約書のファイルフォルダーに入れたものかどうか、迷っていました。

もし仕事となったら、夫に隠しておくことはできなくなるでしょう。むしろ、夫の協力がなければできません。

遊びのような読者モデルのときでも、忙しい日は、立て続けに電話があり、私がほかの電話で携帯に出られないと、家にもかかってきたものです。メールも来ます。ほとんどが、仮に日時をおさえるためのもので、たいがいはバッティングしてしまうため、調整するのに何度もやり取りをしなければならないことがありました。

いま、夫と二人だけのこの静かな生活の中に、あの喧噪が入ってくることは考えられません。まして、日曜日に夫が、私宛の電話を取るような場面も、イメージできません。

彼はきっと喜ばないでしょう。多少の稼ぎになるとはいえ、スーパーなどにパートへ行くのとは違いますから。

事後承諾のような形で、夫が納得するでしょうか。

彼のプライドが傷つくのではないでしょうか。

不安が不安を呼び、心が苦しくなってしまうのです。

翌朝、気持ちは決まっていました。

こちらから吹雪さんに断ることはせず、もし次の誘いがあったら、なんだかんだとごまかして、参加しないようにしようと。あれだけいろいろなモデルさんがいるのです。こちらの事情もわかっているでしょう。

ちょっとした気の迷いからの過ちだったことにします。

大事な夫婦の関係と比べたら、欲望のままに縛られて写真を撮られることは、あまりにも危険なことです。夫婦生活を危機にさらすほどの価値はないはずです。

だいたい、もっとも苦しいのは、正当性を主張しにくいところです。契約があり、恥ずかしいことはなにもしていない、ごく普通のモデルとしての仕事です。有名な女優さんたちの中には、もっと過激な写真を出版している人たちもいるのです。

それも仕事であり、個性です。眉をひそめる人もいるでしょうが、社会的には一定の認知をされています。堂々としていいのです。

でも、私の場合はそれとは違います。

仕事として請けたのではありません。むしろお金のためにやった方がいいくらいです。

自分の恥ずかしくも、あさましいまでの欲望に突き動かされてしたことなのです。

縛られたい。ただ、それだけ。

そのことを理解してもらうことは難しいでしょう。

そして、その部分を伏せて、今回のことを「よくある仕事」と言えるほど、私は強くありません。

あまりにも特別な経験でした。

赤岩に指を縛られたこともそうです。深川先生に着物の上から縛られ、さらに腕と足を縛られたのです。あのことを、一生、忘れることはないでしょう。

裸にされて、全身を縛られて、吊り下げられるようなこともされてみたい……。もっと厳しく、がんじがらめにしてほしい……。

だけど、それは夢。実現する勇気はありません。

吹雪さんの写真集にあるような緊縛の世界に浸りたい。でもそれは、女子校生が現実には存在しない理想の男性に恋するようなもので、ありえないことです。

スタジオで会った絵夢奴という女性や、以前に見学のときに縛られていた喜美江という女性のことを思うと、あまりにもかけ離れた世界です。彼女たちのようにはできません。

ぼんやりと家事をしていました。土曜日ですが、夫は今日から出張です。技術者が集まるフォーラムに会社の人たちと出席するため、名古屋へ行ったのです。土日とフォーラムがあり、そのまま名古屋の提携先とのミーティングを月曜にするそうで、月曜の夜まで帰って来ないそうです。

昼になった頃に、突然電話が鳴りました。

普段は携帯電話が主で、固定電話はほとんど使わないので、それが鳴ったときには火災警報かと思ったほどです。

どうせなにかのセールスだろうと受話器を取りました。

「有森さんのお宅でしょうか」

案の定、滑らかな女性の声です。

「菜緒美さんはご在宅でしょうか」

「私ですが……」

「ああ、菜緒美? 久しぶり。シェリーです。覚えてます? ガールズコレクションで横浜と神戸に一緒に行きましたよね?」

「シェリーって、反町美代ちゃん?」

「シェリーって呼んでくださいよ、姉貴」

ハーフのような顔立ちの美少女を思い出します。

ハーフではないのだと本人は言っていますが、周囲ではクォーターかなにかで、祖先に北欧系の遺伝子が混ざっているに違いないとウワサしていました。

一つか二つ下なのですが、私を「姉貴」と呼ぶのです。

「懐かしいわ。いまどうしているの?」

「へへへ。実は仕事ですぐ近くに来てるんです。お茶とかしません?」

「え、ホント? いいわ。行くわ」

すぐ近くではないのですが、二駅ほど離れたところにある文化会館でやっているイベントでした。

さっそく化粧して着替えて、待ち合わせの文化会館のカフェへ行きました。

シェリーは、ほかに二人、やっぱり一緒にモデルをやっていた子たちを連れていました。

大手のファッション系の雑誌がアパレルのブランドと共同でやっている展示会に、ゲストで出演しているのだそうです。トークとミニファッションショーを午前と午後にやっているので、その合間だとか。

カフェは若い女性客でいっぱいでした。なんだか懐かしい雰囲気です。

「姉貴、すっかり奥さんっすね」

シェリーは男子のような口を聞くのです。おてんばの妹のようでかわいくもあり、少し怖くもありました。

みんなで久しぶりの挨拶。

「ね、どうして、うちの電話、わかったの?」

簡単なことでした。

結婚式に招待した事務所の人に、偶然に最近会って、私のことが話に出たので、「連絡取ってみたら」と電話を教わったのだそうです。

「でも、急でびっくりしたわ。シェリーも結婚するとか?」

彼女はイタズラ子のような目で、見ています。相変わらず白い肌に、そばかすがあってキュートです。

「違いますよ。こんな悪ガキ、もらい手、いませんから」

ケラケラと笑い声が響く。

「それよりも姉貴、マジ、やばいです」

「え? なんのこと?」

「これですよ」

急に真顔になった彼女が、最新のスマホをテーブルに置きました。大型の鮮明な液晶に、黒っぽい写真がありました。それをこちらに向けて、近くへすべらせます。

「わかりますよね?」

声も出ません。

昨日、吹雪さんに撮影してもらった写真です。顔がしっかり入っています。襦袢姿で、手と足を縛られて、ほつれた髪の間から、うっとりした表情を見せています。

自分で言うのもなんですが、一瞬をとらえた写真はホンモノ以上に迫力があり、妖艶でした。さすが吹雪さんだと思ったものの、それどころではありません。

「これ、どういうことっすか?」

ショックで言葉が出ません。こっちこそ、同じことを言いたいぐらいです。

「マジ、へこんでるっす。姉貴ともあろうものが、カネに困ってるとか?」

「そんなことはないわ」

「仕事がしたいなら、前みたいにやりましょうよ。姉貴、ぜんぜん変わってないし。ぜんぜんいけますよ」

「そういうことじゃないの……」

「じゃあ、どういうことっすか? これ変態写真ってやつでしょ。ヤバイんじゃないすか?」

なにも言えません。

「ちょっと話題になってますよ。姉貴が笑い物になってると、こっちもマジ、くやしいっす」

「ごめんなさい」

「なに謝ちゃってるんです? どういうことなんです?」

「この写真はどうしたの? どこから?」

「わかりません。前の事務所の人と会ったんで、聞いてみたんですけど、出所はわからないって。カメラマンが怪しいっす。誰です?」

最初の話はウソ。つまり、最初から前の事務所が心配して、シェリーに家へ電話させたのです。

「ごく普通のカメラマンよ。こんなことをする人じゃないと思う。なにかの間違いだわ」

「だけど、これ、姉貴っしょ? まさか、こういうのが好きってことすか? 姉貴、変態ってこと?」

さらに言葉が出ません。私はこういうことが好きで、その意味では変態と言われても仕方がありません。だけど、それをみんなの前で認めることはできません。怖すぎます。

「いいんすよ、正直言っちゃってくださいよ。姉貴の好みなら、それはそれでいいと思うことにしますから。しょうがないもの。だけど、脅されているとか、借金とかでこうなってるなら、大変っすよ。手を打つなら早いほうがいいし。同じ仲間として、ちょい幻滅してますけど。正直なところ、言ってくださいよ。お願いします。できることがあれば助けになりたいっす。姉貴にはさんざん、お世話になってるし」

「ごめんね。大した理由はないの。そのカメラマンに偶然出会って、こういうモデルを一度、どうですかって誘われただけなの。顔は出さない約束だったけど……」

「もっと過激なのもあるんすか?」

「ないわ」

「流出してるんじゃないすか? 大丈夫ですか?」

「確認してみる。心配してくれて、ありがとう」

「気をつけたほうがいいと思います」

「そうするわ」

昨日の今日で、吹雪さんからはなんの連絡もなく、しかも仕上がりを見せてくれる約束で、発表前には事前にチェックもさせてくれるはずだったのに……。

裏切られたのでしょうか。

信じた私がバカだったのでしょうか。

そうは思いたくありません。

なんとかしなければ。でも、どうしていいのかわからないのです。

生身

赤岩は、困り果てた表情です。

新宿にある静かな喫茶店の奥。私は厳しくなじったりはしません。ただ、こちらがとても危険な状況になっていることを、きちんと伝えたのです。

顔がはっきりわかる縛られた写真の流出。これが、どこから出て、どういう人の間に流れているのか。

かつてのモデル仲間から知らされるということは、狭い業界の中ではもう知れ渡ってしまっている可能性があります。

「いま吹雪さんに調べてもらっています。ぼくたちはこんなことはしませんから」

「でも、現実に出ているんです」

「参ったなあ」

そこに吹雪さんがやってきました。やはり渋い表情です。座るとすぐに、タバコの箱とライターを取り出しました。

「吹雪さん、ここ、禁煙席」と赤岩が注意しました。

「あっ、ゴメン」

「やめていたんじゃないんですか?」

「うーん。困ったよ。本当に、こんなことがあるかね。赤岩さん、絵夢奴のやつがさ……」

「やっぱり」

なにがやっぱりなのでしょう。

「いえね。まことに申し訳ないけども」と吹雪さんが私に向かって言うのです。

「悪気はなかったらしいんだよ。絵夢奴は、ちょっと思い込みが激しくてね。菜緒美さんを見た瞬間、ぜったいにいけるから、プロになるべきだと思い込んで、知り合いの事務所に売り込んで、写真まで勝手に送ってしまったんだよね」

「え?」

「君をデビューさせたいと思ったんだよ。彼女が言うには、いい条件の事務所を君に紹介してあげれば、喜ばれるだろうし、ぼくたちも助かると思ったみたいなんだな」

「そんな……」

「まさか、君が以前にモデル活動をしていたなんて知らなかったんだよね」

信じられません。彼女とは控え室で一言か二言、会話しただけなのです。

「誠に申し訳ない。彼女はちょっとここが弱くてね」

吹雪さんは頭を指さしていますが、そういう問題ではないと思います。そもそも、彼女はなぜ、私の写真をコピーできたのでしょう。

「あれで、けっこうこの業界が長くて、機材にも詳しいんだよね。ちょっとしたスキに、ぼくのパソコンから抜き取ったらしいんだ」

聞いていると、ほんの出来心で、いとも簡単に子どもでもできるようなことに聞こえます。

それでいて、確実に私を窮地に追い込んでいます。

「ぼくから、わかる範囲のところには謝罪して回っているから……」

吹雪さんがプロのカメラマンであり、私も彼と契約したわけで、責任をもって写真のデータを管理しなくてはいけないのは彼なのです。

ごめんなさい、ではすまないでしょう。

それに、いくら謝って、関係者に謝罪したところで、写真はコピーされて多くの人たちのものになっています。シェリーも自分のスマホに保存していたのです。どこの誰が見ているか、私は知らないのです。

さらに深川先生までやってきました。

「なんだ、禁煙席か」とボヤキながら、私に「大変だね」と言います。

彼らがずいぶんとすまなそうにするので、こちらも困ってしまいます。

そもそも、あの写真。私は縛られて感じていたのです。その場で顔をカメラから外せばよかったのに、挑みかかるような目で、レンズを睨んでしまったのです。

シェリーに写真を見せられたとき、思った以上に、あのときの私の気持ちが描かれていて、びっくりしたほどです。とんでもないことになったと思う半面、あの時を思い出して、再び股間が熱くなってしまったのです。

それほどの迫力。それは知らない人にも、なにかを感じさせている可能性があるかも知れません。

恥ずかしく、つらく、体が焼け焦げてしまいそうです。それを怒りとしてぶつける先は彼らだけですが、吹雪さんたちの暗く沈んだ顔を見ていて、私は「これは自分が撒いた種なのだ」と改めて思いました。

いずれは、バレることです。それが、このようにすぐさまなのか。それとも何年後か。その違いは大きな違いかもしれません。私の人生の何年分もが、この瞬間に大きく変わってしまうのですから。

夫のことも気になります。彼はどう思うでしょうか。

「あのう」

私は彼らに言いました。

「起こってしまったことはしょうがないと思うのです。これは、すべて、私が自分の気持ちで始めたことです。いずれ、こういうことが起きたかもしれないと、覚悟していなければなりませんでした」

「そんなことはない。菜緒美さんは悪くない」と赤岩が言います。

「そうです。もしご家族に謝罪するとなったら、私がうかがいます」と吹雪さんが妙にまじめな顔で言います。

タバコが吸えないからか、天井の方を見ながら薄目でこちらを見ている深川先生だけが、なんだか超然としています。

「正直にうかがいたいことがあります」

背筋を伸ばしました。

彼らはこちらを見ています。

「私は使い物になるでしょうか?」

「もちろんですよ」と吹雪さんと赤岩が同時に言いました。

思わず笑みがこぼれました。

昨日、シェリーに写真を見せられたときはパニックになっていました。でも、あの写真は、本当にステキなのです。吹雪さんの写真集の中にあってもおかしくないほど。

「では、顔があったほうがいいのでしょうか?」

吹雪さんは少し考えました。

「はっきり言って、顔をはっきり写さないかもしれません。今回、たまたま、ワンカットだけはっきり顔が写っていたものがあったので、それを流用されてしまったわけだけど、顔はマストではないのです。かといって、ぼくは、覆面をした人を撮りたいとは思いませんけども。そういうシチュエーションだったら考えますが、ぼくはあんまり好きじゃない。生身、というのがテーマですからね」

「生身?」

「そうです。ぼくはめったに複数の被写体も置きません。扇情的な写真なら、いくらでもやれるかもしれないけど、やろうとは思わない。一人、生身を晒して、縛られている女性。それを撮りたい。小道具は使いますけど、それは構図の中でアクセントとして欲しいときだけで、モデルさんを責めるためではありません。複数の人を配置するときも、当然、その中の一人を撮りたいからです」

わかる気がするのです。この人たちの求めているものが。

それは私の求めているものとかなり近いのではないでしょうか。

「もちろん、ぼくは芸術論なんてふりかざしませんよ。赤岩君とは違うから」

男たちは遠慮がちに笑った。

「撮りたい写真を撮るのです。それを気に入ってくれる人が出てくる。それがうれしい。それだけなんです」

商業的な写真にも芸術性が求められる。それも、かなり高度なものが求められることが多いのです。何人かのカメラマランとモデル時代に話をしたことがありますけど、その真剣さは恐ろしいものがありました。

笑顔でモデルたちと話をするようなお兄さん的なカメラマンでさえ、いざとなると、とても厳しいのです。

その撮りたい写真の中に自分を入れていく作業。

それは、ある意味で、自分を縛るような作業だったのかもしれません。

「今回のことは、深く反省しています。ぼくの管理が甘かったんだ」

私はあれだけの写真を撮ってくれた三人に申し訳ない気持ちもありました。

「私は事務所に所属してプロのモデルのように仕事をする気はありません。絵夢奴さんには悪いですけど」

男たちはガッカリしています。

「私も、生身でやっていきたいと思います」

「生身?」

「生身の私を撮ってください。もし、あの流出した写真と同じぐらい、いい写真が撮れたら、夫に見せようと思います」

彼らは驚いたようです。

「もし、私たちのやっていることが真剣なら、理解してもらえると思います」

男たちは考えている。

しばらくして深川先生がボソッと言うのです。

「やめておきましょう。あなたは向いていない」

そして席を立ってしまいました。

「先生」

赤岩が慌ててあとを追っていきました。

ものすごい覚悟で発言したのに、私は取り残されてしまいました。

吹雪さんは、しばらくそこで考えていましたが、テーブルの上の勘定書きを手にしました。

「とにかく、責任を持って対処します。なにかあったら、教えてください。ぼくにできることはなんでもしますから」

そう言って支払いに行ってしまいました。

私は一人。置いていかれるのです。

とまどいの中にいます。

「あなたは向いていない」という言葉。なにを言いたかったのでしょうか。

しばらくして帰宅したのですが、留守電にメッセージが入っていました。

電話番号を見ると、夫の哲次の実家の番号でした。

とぼけるわけにもいきません。かけ直します。

「お電話いただきましたか? 菜緒美ですけど」

「ああ」

ぶっきらぼうな声は、夫の兄、つまり義兄の金男です。

「話があるので、いまから行く」

「え?」

電話はもう切れていました。

義兄はここに来たことが何度かあります。大学院へ行き、研究者になる道を歩んでいたのですが、メンタルの病気になってそこを外れ、いまはときどき、アルバイトのような仕事(研究助手と聞いています)をしているそうです。

無口で、ぶっきらぼうなところがあり、どういう人なのかよくわからないのです。

これまでこのマンションに来たときは、夫がいました。兄弟は仲がいいようで、半日ぐらい、二人でいろいろな話をしていました。

私はほとんど、その中に入ることはありません。

一度、「菜緒美さんのようなきれいな嫁さんを見つけるには、どうすればいいですか」と聞かれたこともありました。

「誰か紹介してくださいよ」とも。

弟に先を越された兄という立場もわかりますし、私としても、幸せな結婚をしてほしいので、紹介したいのは山々でしたが、定職についていないこともあって、紹介しにくいのです。

急にやってくることはこれまでなく、夫に連絡しようかとも思いましたが、会社にいる夫には電話やメールをするのが気が引けます。

出張中に義兄がくる、という状況はあまりいいことではないでしょう。私はメールで「お兄さんがこちらに寄るとおっしゃっています」とだけ、送っておきました。

出張先なので、夫がどういう状況なのか、よくわかりませんが……。

返事はなかなか来ません。

チャイムが鳴りました。思ったよりも早いのです。バイクで来たのかもしれません。義兄は大型バイクが趣味です。兄弟そろって工学などのメカが好きなのです。義兄はロボット工学関係の研究者を目指していたはずで、兄弟はそういうところも気が合うようでした。

常識的に私しかいない部屋に、たとえ義兄でも男性を入れることは、かなりマズイのではと思います。

了解を取らず、今日は夫がいないことも伝えられないうちに電話を切ってしまったのは義兄の方です。

申し訳ないですが、事情が事情なので、ロビーで話をしようと決めました。

インターホンに義兄が映っています。ライダースーツ。ヘルメットを抱えています。

「いま、そちらへ行きます」と返事をしました。

「え? なに? 開けてよ、ここ」

義兄は夫よりも痩せていて、似た骨格なのに、顎が尖っているように見えます。

「いま、出張でいないので……」

「いいよ、別に。早く、開けて」

「それはムリです」

「なに言っているの。これだよ、これ」

義兄はスマホの画面を向けたのです。

そこには、流出した私の写真がありました。

いつもちゃんと見ることのないインターホンですが、はっきり見えることに驚きました。

「早く、開けて」

気が動転しています。なにをしていいのか、してはいけないのか、判断がつきません。

「菜緒美さーん、開けてくださいよー。いつまで待たせるんですかー」

歌でも歌うように、妙な節をつけて義兄が叫びます。その背後にはほかの来客の姿も。

私はオートロックの解除ボタンを押してしまいました。

義兄

「菜緒美さんの写真はすべて見ているつもりだったけど、これは衝撃的だったなあ」

黒いライダースーツの胸元を少しはだけて、義兄の有森金男は、エスプレッソマシーンで作ったカフェラテをうまそうに飲んでいます。

「ネットで偶然、見つけたんですよ」

「ネットで!」

「そうですよ。いつ頃の写真なんですか?」

黙ってしまいます。つい昨日撮影したものだとは言えません。

「さあ。ホントに私でしょうか?」

「間違いないですよ。とぼけないでください」

私は兄の正面に座ったのですが、突然、彼が立ち上がると、首に手をかけられました。のど輪のように。

「うっ」

「とぼけちゃダメですよ、菜緒美さん」

スマホを私の横に並べるのです。

「ほら。この表情。してみてよ」

「できません。やめてください」

私は彼の腕をつかみましたが、あらがえません。

「してみろって言うんだよ」

「できないです」

「演技なんだろ? これはモデルとしてわざと、こういう表情をしたんだよな?」

「それは私じゃない」

「そんなことで、騙せると思うのかよ。もし演技でないなら、本気で感じていたんだろ。縛られて、涎を垂らして。こんなの演技じゃない。おまえ、感じまくってたな」

「ウソ、涎なんて垂らしていません」

「ハハハハ」

義兄は大声で笑います。手は緩めないので、息ができないほど苦しい。

「なんでそんなことがわかるんだよ。これはおまえで、何度もこの写真を見ているから、涎なんか垂らしていないって言えるわけだろ?」

口をつぐみます。

「だけど垂らしたんだな。おれが見ても、これは垂らしそうに見えるしな。その直前って感じだものな。そうなんだな? 答えろよ」

「うっ」

彼の手がさらに強くなります。殺される……。

「そうだよ。その表情だよ。そっくりだよ。誰がどう見ても、おまえだよ」

苦しいだけなのに、縛られたときのような表情になっているのでしょうか。

「哲次はこのことを知っているのか?」

首を振るのが精一杯です。

「じゃあ、これは哲次が撮ったんじゃないんだな。誰が撮ったんだ」

首を横に振り続けます。

「言えよ、菜緒美」

「お願い、手を離して……」

「いいさ」

金男はようやく手を緩めてくれました。

しばらく咳き込んでしまいます。

「全部、話すんだ。どうしてこの写真がネットにあるのか。それも変態のエロサイトだぞ」

「へ、変態じゃありません」

しょうがなく、私はすべてを義兄に話しました。写真展。吹雪カメラマン。見学。そして撮影。

「顔は出さない約束でした。それに着衣のみという約束でした」

「カネは? いくらだ?」

契約したわずかな金額を正直に言いました。

「ふん。そんなはした金で? なぜだ?」

肝心のことは言えません。

「どうして、緊縛の写真展に行ったんだ? おれも知ってるけど、あそこは有料だし、ぶっ壊れそうなボロビルの上の階だった。なにかのついでにふらっと間違って立ち寄るようなところじゃないよ」

金男があのギャラリーを知っている……。

ますます、窮地に陥ってしまいました。

「菜緒美は、こういうことが好きなんだな?」

反射的に頭を小刻みに左右に振りました。

「縛られたいんだ。こんな風に」

「ち……」

違います、と言えません。

「うん? なんだよ。言いたいことがあれば言えよ」

「なんでもありません」

「ふざけるなよ。きれいな顔して、すごい美人だなあと思って、おれはおまえを自慢に思っていたんだぜ。哲次は最高の弟だ。頭もいいし、仕事もできるし。健康なんだぞ」

健康? 妙な単語だと思いました。

「貞淑な妻としてこういうことをして済むと思うのか?」

「ごめんなさい」

「くそっ」

義兄はうろうろと部屋の中を歩きはじめました。

ツメを噛んでいます。

こんな彼を見たのははじめてでした。

そして、彼は突然、革のつなぎを脱ぎはじめました。下には、紺色のタイツ。そしてピッタリとしたTシャツです。細い体だと思っていましたが、筋肉質ですごく鍛えています。

そのかっこうで、動けずにいる私の前にやってきました。

「いや。やめて」

犯される……。

「勘違いするな」

金男はそう言いながら、タイツを下げたのです。

「いや!」

私は顔をそむけました。

「見ろ」

「やめて。お願いです。義兄さま。こういうことは、なかったことにしませんか?」

「見ろって言ったら見ろ!」

頭をおさえられます。

彼の汗。男の臭いがします。

仕方なく、目を開けました。

「うっ」

最初、それがなにか、わかりませんでした。

彼の股間は赤っぽいケロイドで覆われています。ひきつったように縦横に傷跡が盛り上がり、まだら模様になっています。そこに、毛に覆われた精嚢がぶらさがっています。奇妙な形。

「おれは、まだガキだった頃、バイク事故でこうなったんだよ」

男性器はなく、肉が盛り上がっているところに人口的なカバーのようなものがついています。

「小便するんだって、この器具がないとうまくできない」

ドキドキしながらも、彼の股間を見つめてしまいます。

「弟は知ってるんだ。おれが不能だってことをさ。この精嚢も役に立たない。気休めの飾りなんだよ。だから心配はいらない。おれは菜緒美を犯すことはできない」

「そんな……」

「同情はいらないよ」

義兄はタイツを上げ、ソファに座りました。

そして、大学時代の話をしたのです。哲次さんが無免許で、義兄を後ろにのせて、大型バイクを運転したこと。運悪く、飛び出してきたトラックにぶつけられて、後部座席にいた金男さんが吹っ飛んだこと。

そして、トラックが彼の上の通過したこと。

「チンポどころの話じゃなかった。左大腿骨、そして腰骨がぐちゃぐちゃになった」

奇跡的に歩けるまでに復活できたのですが、その代償は大きかったのです。潰れた腰骨とタイヤに挟まれて切断された陰茎と精嚢の大半は、戻りませんでした。大学を中退し、つらい手術とリハビリの日々。

大検を受けて大学に入ったのでした。

「笑っちゃうよな。これでも、おれの玉は精子を作れる日が来るかもしれない。なんにも感じないけど、夢精するようになるかもしれない。医者によれば、将来、医学がもう少し発達すればチャンスがあるらしい。ハハハハ」

痛ましい話です。

哲次さんは軽傷だったそうですが、無免許であることから、すべての責任を金男さんが被り、彼が運転していたことになっているそうです。だから哲次さんは、金男さんをすごく大事にしているのです。

「こんな話、はじめて聞いたんだろ?」

「はい」

「ま、いつかはわかることだ。あんまり気にするな」

そんなことを言われても、気になります。

「おれもカミングアウトしたんだ。菜緒美もカミングアウトしろよ」

「え?」

「いつかはバレることだぞ」

胸にぐっと重いものがこみあげてきました。

「この写真、哲次が他人から見せられたらどう思う? なにも知らないでいたら、恥をかくのはあいつなんだぞ。女にはわからないかもしれないが、男ってのは、そういう、どうでもいいようなプライドで生きてるんだ。美人で自慢の嫁が、裏で縛られてよがっている変態だってわかったら、どれだけ傷つくか想像したことがあるのかよ」

変態、変態となじられて、涙がポロリとあふれました。そして、なにがなんだかわからない悲しさで、どっと泣き出してしまったのです。

しばらくひとり、泣いていました。

「女はいいな。泣けばいいんだから」

「だって……」

「正直に言えよ。隠していることがあるんだろう?」

金男さんは、やさしく促してくれました。

「ごめんなさい……」

私は縛られたいのだ、ということ、それは理屈ではないのだということを、なんとか伝えようとしました。ぜんぜん、うまく言えません。バカみたいです。

「縛られた自分。それを想像しただけで、気が遠くなるような憧れがあって……。だから写真展に行って」

ハンドルネーム「なわ」でツイッターをやっていることも話しました。

「じゃあ、この写真のとき、菜緒美は感じていたんだね」

「はい」

とうとう認めてしまいました。

「カメラマンなら、この表情は逃したくないよ。発表はしないとしても、撮っておきたかったんだろう。だけど、それが流出してしまったんだね」

「はい」

「これからどうするの?」

「わかりません」

どうしていいのか、わからないのです。

「じゃあ、おれから哲次に話してみようか。それとも自分で言うか?」

再び胸が苦しくなって、嗚咽してしまいます。

「はっきり浮気はしていないと誓えるよね?」

「はい。それは絶対にありません」

「哲次のこと、好きなのか?」

「もちろんです」

「わかった。この件はとりあえず、おれに預けてほしい」

「はい」

「そのかわり……」

「え?」

「おまえは、おれの言うことをなんでも聞くんだ」

やさしい言葉づかいのままで、義兄がなにを言っているのか、最初は、わかりませんでした。

「何回も言わせるなよ。おれの言うことは、なんでも聞く。つまりおれの奴隷になれ」

「そんな……」

「おれだって弟の幸せを壊したくはない。そんな気持ちはないんだよ。だけど、こういう写真を手に入れることができたのも、おれにはおれの好みがあってさ。理解してくれる女はあんまりいないからね」

「どういうことでしょう」

「縛られたいという菜緒美の気持ちはわかったし、できれば緊縛のモデルもやりたいんだろ? 見られたい、撮影されたい、縛られたいんだよな。だったら、おれがそれをかなえてやるよ」

「もう、終わりにしようと決めていました」

「それはダメだな。これからじゃないか。もっと、いっぱい縛られて、苦しんで、泣いて、感じればいい。それが菜緒美の夢なんだからさ」

「だって、もう、それはムリです……」

吹雪さんたちに見放されたことをどう説明すればいいのか、わかりません。

「ムリじゃないよ。どうだ。悪くない取引だろ? おれはおまえを肉体的に犯すことはできないんだから。これほど安全なパートナーもいないんじゃないか?」

なんという取引。悪魔の契約ではないでしょうか。

「もし、お断りしたら?」

「いますぐ、この写真を哲次に送る。おれはおまえの味方はしない。敵になる。徹底的にやっつける。おまえは親からも見放され、友人も失い、夫も家庭もすべて失うだろう。だって恥ずべき変態女なんだからな」

どっちを選んでも、そうなるような気がしました。

たった一度の過ちで、そこまで追い込まれるなんて。

彼の傷を見せられて、つい自分のホンネを話してしまったのが大失敗だったのです。やさしい言葉の裏には、恐ろしくねじくれた考えがあるのではないでしょうか。

だけど、選択の余地はなさそうです。

「わかりました」

「よし。じゃあ、さっそくその証拠を作ろう。おれのこのスマホを手に持って、同じ表情を作ってみろ。おまえの携帯を寄こせ」

私は義兄の前で、写真に似せた表情をつくり、写真が表示されているスマホを顔の横につけて、別の写真を撮られました。

「次は動画で記録しよう。こう言うんだよ」

セリフを義兄が教えます。

「スタート」

彼の合図。私の携帯のムービーに。

「菜緒美です。私は縛られるのが大好きで、それが夢でした。これからは金男様の奴隷となって、あらゆる命令に従いますので、どうか私の夢をかなえてください」

そのとき、縛られているわけではないのに、下半身にじわっと熱いものが拡がっていきました。

感じてしまっています。

深川先生に縛られてから、私の中の構造が変わってしまったようです。ふいに、いままでに感じたことのないエクスタシーが熱くたぎってくるのです。自分では抑えられない、淫らな欲情です。

こんなときに。

「菜緒美。裸になりなさい」

「えっ」

「黙って命令に従うんだよ。そうすれば、すべてうまくいくんだからね」

「あああああ」

「返事は?」

「はい」

私は立ち上がりました。体がすごく重いのです。

そして、部屋着を脱ぎました。ブラとショーツだけになりました。

「全部、脱ぐんだよね?」

「あっ、はい」

催眠術にでもかかったように、ショーツのゴムのところに指を入れました。

「待て。すごいシミがあるぞ。これは証拠として撮っておこうね」

縄味 1 第2部 (2/4)
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