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机の下の楽園(下) · 第2部

机の下の楽園(下) 第2部 (2/2)
前の話

「あのね、しあわせっていうのとは、ちょっと違うかもしれないんだけど……なんていうか、ここからはどうしても逃れられない、ご主人様のなすがままになるしかないって思うと、もういろんなことがどうでもいいって気持ちになるの。自分を、放り出す感じ」

それが、快感と言えなくもなかったと、ミュウはいった。

「前は、その無力な自分を想像する事で、気持ちよくなっていたんだろ?」

「そう。たしかにそうだったんだけど……昔のあれは、自己破壊なんだと思う。無力なまんま、壊れてゆく自分をただ見ていたの。でも今は、壊れたくないの。ご主人様と一緒にいろいろ楽しみたい。だから、ご主人様にミュウの気持ちが通じなくなると、淋しいの」

「通じていれば、ああいうのも楽しめそう?」

ぼくの問いかけに、ミュウは少し考えて、「きっと楽しめると思う」

といって、また少し考えた。

「……たぶん、あれが、すべてをご主人様にゆだねる感覚なんじゃないかと思うの。

こう……自分を手放す感じ。もう考える事もやめて、悲しいとかつらいとか、そういうのが一切なくなって、ミュウの全部がご主人様で出来ているような、そんな感じ」

ミュウは、月光を映した瞳で僕を見つめながら、「ねえ、アキちゃんは、もうその感覚を持っているんでしょ?」

「おそらくね」

「佐久間さんにロウソク責めされるアキちゃん見てて、なんてしあわせそうなんだろうって思った。アキちゃんは、すっかり佐久間さんに身をゆだねてた」

「あの二人は、どういうプレイをするとかしないとかの前に、強い信頼関係がもうしっかりとできあがっているんだよ。アキちゃんは佐久間を絶対的に信じているし、佐久間はアキちゃんが悦ぶことなら何でもしてやろうと思っている。

アキちゃんのほうに、あらかじめちゃんとしたSMのイメージがあったから、まだテクニック不足の佐久間でもなんとかなっているんだろうな」

「ミュウは、まだいろいろ足りないのね。こんなにご主人様が好きなのに……」

「ミュウのせいばかりじゃないよ」

そういった僕の言葉を、どう受け取ったのか、ミュウはすっかり機嫌のなおった顔で、「そのうちアキちゃんみたいに、ロウソクも好きになれると思うの。だから、もうちょっと待ってて」

僕は、ほろ苦いものと一緒にミュウを抱きしめた。

「今日は、僕のおしっこがちゃんと飲めたから、許してあげよう」

そうなのだ。アキちゃんのロウソク責めが終ったあと、佐久間はムチで彼女の股間のロウをはじきとばし、「久我、一緒にご褒美をやらないか」

と、誘ってきた。

聞けば、アキちゃんへのご褒美は、いつも「ご主人様の聖水」なのだという。

「いいね」

と僕は乗り、互いの奴隷にひざまずかせて、その口へ放尿した。

ミュウはアキちゃんのロウソク責めでひどく興奮していた。だから、いつもなら半分も飲めないのに、ゆうべは全部を飲み干したのである。

勢いでできたとはいえ、成果は成果である。僕はミュウをほめ、明日もそうすることを誓わせたのだった。

気がつけば、ミュウは僕の腕の中で寝息をたてはじめていた。

僕は、月に半分照らされたなめらかな額にキスすると、ため息を一つだけつき、すぐに眠りに落ちていった。

六

ミュウの様子がおかしいと気づいたのは、葉山から帰って間もなくのことだった。

何か言いたげに僕を見ては、視線をそらす。

「なに?」と訊いても、「ううん」といって笑い、視線をはずしてうつむく。

一つだけ思い当たる事があった。

ミュウは時々、僕のノートパソコンを使う。特に環境を分けてないので、フリーメールやブログなども、僕が使っているものをユーザーとして書いたり読んだりできる。

たぶんミュウは、あのメールを読んだのだろうと思った。だが、他人のものを盗み見たことで気が咎め、訊くに訊けないでいるのだろう。

僕は、ある朝の食卓で、「何か、僕に訊きたい事があるんじゃないか?」

と、ミュウにいった。

それでもためらう彼女に、重ねて、「メール、見たんだろう?」

と、いってやった。

ミュウは、ハッとしたように顔を上げ、ちょっと唇を引き結んで「ごめんなさい」とあやまった。

「いいよ。ミュウに見られて困るようなものは入ってないから。でも、ミュウには気になる事があったんだろう?」

ミュウはしばらく黙っていたが、やがて、「美鈴さんって誰?」

と、訊いてきた。

僕は、本当の事を答えた。

「前の奴隷だよ。まだ完全に切れたわけじゃないから、今も、と言った方がいいかな」

僕を見つめるミュウの顔がこわばった。

「そんなこと……言ってなかった」

「言う必要も無いだろう? 一人の主が複数の奴隷を所有するのは、この世界では常識だよ」

奴隷は主に忠誠をつくすが、主は節操を求められるわけではない。一人で何人もの奴隷の面倒を見る、いわゆる“多頭飼い”は珍しくなかった。

「だって、だって……初めて会った時、今パートナーはいないって!」

「美鈴とは、お互いが気の向いたときにプレイするだけだからね。パートナーとまではいかない。SM仲間みたいな感じだよ」

「でも……それでも、イヤ!」

ミュウは何度も首を横にふった。

「もう、会わないで! 奴隷はミュウだけにして!」

奴隷にあるまじきわがままを言い始めたミュウに、僕は、「その約束は、できないよ」

これは恋愛とは違うのだということを、ミュウばかりでなく僕自身にも確認するつもりで、そういった。

ミュウは、一瞬顔をゆがめると、立ち上がって玄関のドアから走り出ていった。

僕は椅子に深くもたれかかった。

美鈴とは、ここ五年ほど気まぐれにプレイするだけの関係だ。だから別れてしまってもかまわなかったが、僕は迷っていた。

葉山の別荘で、つい冷静さを失ってしまったことが、思いのほか引っかかっていた。支配者としての自分をもう一度取り戻す意味で、美鈴の存在は必要かもしれないと思ったのだ。

僕は、あえてミュウを追わなかった。これで壊れてしまう関係なら、それでもしょうがないと思ったのだ。

だが、その一方で、ミュウを失う事など少しも想定していない自分に気づき、もうさめてしまったカフェ・オレを一口だけ飲んだ。

ミュウは、その夜遅くなって帰ってきた。

ずっとうつむいたまま、僕の顔を見ようともせず、「ミュウを、またご主人様の奴隷として、ここに置いてください」

とだけいう。

「他の奴隷がいてもいいのか?」

と訊くと、小さくうなずいた。

僕は、「では、ミュウの気持ちをあらわしなさい」

と、命じた。

ミュウは、やはり僕の顔を見ないまま、玄関のたたきに膝をついて僕のモノを取り出し、しゃぶりはじめた。

その晩のミュウは、ひどく従順だった。あんなに嫌がっていたロウソクを、性器へ直接かけるといっても拒まず、震えながら自ら足を開いた。

試しに、美鈴を呼んで3Pをするというと、目を大きく見開いて涙をいっぱいためたが、嫌だとは言わなかった。

「終ったら、ミュウが美鈴のアソコをなめて、きれいにしてやるんだ。いいね」

そう言ったときは、さすがにためらっていた。だが、結局、「はい……ミュウは、ご主人様の大切な奴隷である美鈴さんのアソコをきれいにします」

と、僕が言ったとおりの言葉をくりかえし、声を出さずに泣いた。

ミュウが傷ついた結果そうなっているとわかっていたが、それはそれでSにはたまらない快感だった。嫌だと思う事を主のために我慢し、耐えている奴隷の姿を見ると、ますます無理を言いたくなる。それはまた、Mの醍醐味でもあるはずだった。

実際、耐えながらミュウは濡れていたし、感じて声をあげもした。だが、一度も笑わないミュウというは、どうも物足りなかった。

プレイが終って現実の生活にもどってもミュウの笑顔はもどらず、心の無い人形のようにただ動いているだけだった。僕たちは言葉で会話する事をしなくなり、携帯のメールで「ご主人様」と「奴隷」のやりとりをした。

「ご主人様、おしっこをしてもよろしいでしょうか」

「よろしい」

「ありがとうございます。ではミュウの恥ずかしい姿をみてください」

同じ部屋にいるのに、机の下と上で、僕らはメールを打ち合った。

日に二回くらいは一緒にテーブルでしていたお茶や食事も、ミュウはすべて机の下でするようになった。

そうなると僕も、つくった料理をだまってミュウの「便器」に入れてやるだけになった。

ミュウの食欲は、次第に落ちていった。それはもう主の威厳だのなんだのという問題ではなく、ただの意地の張り合いだった。

目に見えてやせてきた彼女が、こっそり薬を飲んでいるところを見つけた僕は、とうとう音をあげた。

「ミュウ、もうよそう。いいから、そこから出ておいで」

机の下にいたがるミュウを、むりやり引っ張りだそうとすると、「イヤです! ここがミュウの居場所です。ここにいさせてください! ミュウの場所にいさせて……」

ミュウは、そういってクッションを抱えたままからだを丸め、大きな声で泣き出した。

「いやぁ……ミュウはここにいるの……ここが、ミュウの場所なの……なんでもするから、ここに置いて……」

切れ切れに聞こえてくるミュウの訴えは、僕に大きなため息をつかせた。

「ミュウを追い出したりしないよ。そこも、ずっとミュウの場所だ」

そういってやると、ミュウはクッションから顔を上げ、僕を見上げた。

僕たちは、久しぶりに視線を合わせた。

ミュウがしゃくり上げながら訊いた。

「ほんとう?」

僕は、はっきり「ああ」とうなずき、「だから、出ておいで」

と、もう一度いった。

ミュウはまだ、じっと僕の顔をみていたが、やがてごそごそと起き上がると机の下から這い出てきた。

僕は、柔らかくて小さなミュウを膝の上に抱き上げた。

「僕に他の奴隷がいるのは、そんなにイヤか?」

ミュウは涙でびしょびしょのまま、「うん」とうなずいた。

「……でも、しょうがない。奴隷ってそういうものだから。我慢しなくちゃいけないんだとおもった。……ミュウが帰るところは、ここだから」

「我慢できそう?」

ミュウはしばらく黙っていたが、やがて首を横にふった。そして、僕の首に腕を回すと、「でも……できないけど、がまんするから、ここに置いて!」

といって、また泣き出した。

僕はミュウの背中を強く抱きしめると、自分の甘さに苦笑しながら負けを認めた。

「美鈴と別れるよ。奴隷は、ミュウ一人にする。だから、もう泣かないで。また笑って、ミュウ」

ミュウは、一瞬固まったように動かなくなったが、おそるおそるという感じに顔をあげ、僕を見た。僕は、さらにいった。

「今、彼女にメールを書くから、そこで見てて」

ミュウの目がモニターに向いた事を確かめると、僕はフリーメールの画面を呼び出し、美鈴のアドレスを入れた。

そして、「パートナーができた。美鈴とはもう会えない。このメールのアカウントも抹消するから、元気で。今まで楽しかった」と本文を記入した。

「ほら、ミュウが送信ボタンを押すんだよ」

そういって、マウスの上に右手を持っていってやる。

ミュウは僕をみて、ちょっと申し訳なさそうな顔をしてからボタンをクリックした。

それから僕はアカウントを抹消し、美鈴との関係を完全に切った。

ミュウはしばらく、僕の膝の上で放心したように抹消完了の画面をみていた。

七

まるっきり元通りというわけにはいかなかったが、どうやら普通の日々がもどってきた。

ミュウは、僕の記憶の中にある美鈴にときどき嫉妬した。そして、それとはまた別に、主の僕にむりやり奴隷と別れさせたという負い目もあるらしく、一人で考え込んでいる事もあった。

だが、以前の朗らかなミュウがもどりつつあるのも確かな事だったので、僕はあまり気にしていなかった。こういう事は、やがて時間が解決してくれるものだ。

ただ、夏バテのせいかミュウの体重がなかなかもどらなくて、それが一番僕を心配させた。

8月最後の週末、恒例の里帰りの日、ミュウはいつものつまらなそうな顔で僕に、「じゃあ、行ってくるね」

といった。

「どうせ、一晩で帰ってくるじゃないか。明日は、また会えるよ」

と、これも恒例の僕のセリフを言ってやる。

「うん」

ミュウは泣きそうな顔で僕にしがみつき、深いキスをねだった。

しばらくそうやって、いつものように別れを惜しんだあと、ミュウはうしろを振り返りながらマンションのエレベーターへ消えていった。

アキちゃんから電話がかかってきたのは、ミュウが帰ってくる日の夕方だった。

「ミュウ、戻ってる?」

「いや、まだだよ。いつもなら、もう着いてるはずなんだけど」

「やっぱり……」

「なに、どうしたの?」

「さっきミュウの携帯に電話したら、お母さんがでて、ミュウは電話に出られませんっていうの。何かあったんですかって訊いたら、ええ、とか、まあ、とかいうばっかりで、はっきりしないの。

もしかしたら、ミュウがMだってことがバレたのかもしれない」

「……そうか」

ありえないことではなかった。

「私、もうちょっと粘ってなんとかミュウ本人と連絡取ってみるから」

「ああ、たのむよ。なにかわかったら知らせてくれ」

「うん、じゃあね」

アキちゃんは簡潔にいって、電話を切った。

僕は仕事の続きをする気にもなれなくて、ぼんやりと窓の外を見た。

このところの出来事がなにかミュウに心境の変化をもたらし、もうここへ戻る気がなくなったとも考えられるが、そこまでの深刻さを、僕はミュウに感じていなかった。

むろん、僕にミュウのすべてが分かっているわけではない。だがどちらかといえば、アキちゃんの言った理由の方がありそうに思えた。

(どうして、バレたんだろう)

プレイの痕を、見える場所に残して帰すようなことは絶対にしていない。そのことはいつも、充分に注意していた。

剃毛については、「お風呂は一人で入るから誰にも見られないし、もしみつかっても水着のためだというから大丈夫」

と、ミュウはいっていた。第一、そこからすぐにSMには結びつかないだろう。

(ミュウが、不用意になにかいったのだろうか)

それも考えにくかったが、可能性があるとすればそれだろうと、僕は思った。

いずれにせよ、今へたに僕が動いてはやぶへびになる。アキちゃんからの連絡を待つしかなさそうだった。

そのアキちゃんからの連絡が入ったのは、三日後のことだった。

「やっぱりバレたんですって」

どうやっても直接話せないので、ミュウのお兄さんに電話してみたのだそうだ。ミュウはお兄さんとことのほか仲がよく、アキちゃんもよく知っているのだという。

「お父さんが激怒してしまって、ほとんど監禁状態だっていってたわ。私が訪ねていっても、たぶん会えないだろうって」

僕は、「そうか」としかいえなかった。

「久我さん、どうするの? ミュウをこのまま見捨てるの?」

「今は、仕方ないだろう」

僕は慎重に言葉を選んだ。

「頭に血が上っている人には、何をいっても無駄だよ。なにか行動を起こすとしたら、もう少したってからだ」

「行動を起こす気はあるのね」

アキちゃんは念を押してきた。僕は、ためらわずに答えた。

「もちろんだよ。ミュウを見捨てる気はない」

どんな形で決着するにせよ、ミュウとの関係を、このまま断ち切るつもりはなかった。

「安心した」

アキちゃんは、すこし疲れたような声でいった。この三日間、できるだけ手を尽くしてくれたのだろう。僕は、彼女にお礼をいった。

「ありがとう。ミュウのことは、僕が責任をもつから」

「よかった。久我さんって、どこか醒めたところがあるから、ミュウとのことも切れたらそれまでだって言うかもしれないと思っていたの。主従関係は恋愛と違うから、割り切って考えやすいし」

「僕が手を引いたら、ミュウには別のSを捜してやるつもりだったんだろ?」

と、僕が笑ってやると、アキちゃんも笑って、「そうね。でも、久我さん以上の人を見つけるのは難しいなと、密かに思っていたのよ。ミュウも、かなりハマッているみたいだったしね。責任を持ってくれるって聞いて、ホッとしているところ」

そして、「お兄さんにまた電話して、様子を聞いておくから」とアキちゃんは付け加えた。

僕は、「たのむよ」といって、電話を切った。

ミュウを永遠に失うか、それともそのすべてを手に入れるか。

選択肢は、たぶんその二つのみだ。

にわかに突きつけられることになったその問題に、僕はいくらか虚無的になった。ミュウの父親の怒りが馬鹿げたものであるのはわかりきっていたが、異端者である自分を、下手に出ながら回りくどく説明しなければならないことを考えると、すべての良識というヤツが嫌になってしまうのだ。

だが、親の怒りに一人で耐えているであろうミュウを思うと、そうもいっていられない。時期が来れば、ミュウを迎えに行くつもりだった。

だとすれば、この問題にこれ以上悩んでいる必要はない。

僕は『リア王』の翻訳にもどった。

それから、一ヶ月がすぎた。

すでに『リア王』の翻訳は完成し、僕は次の推理ものに取りかかっていた。

ミュウが、食器&便器として使っていた赤いサラダ・ボールは、相変わらず机の下にあった。

いつでも責めてやれるよう手の届くところにおいてあったクリップや、バスルームに置きっぱなしにしたプラグやローションも、ときおり僕の視界を無遠慮に通り過ぎた。

アキちゃんはほとんど毎日のように電話をくれて、何度かは直接会って話を聞いたりもした。

ミュウは相変わらず、外へ出られないような状態が続いているが、僕の言葉はお兄さんを通じて伝わっているはずだということだった。

ここまで長く続く怒りは相当なものだと、僕は思った。そこにはもしかしたらミュウ自身の意志も入っているのではないかと、勘ぐりたくもなった。

(ミュウがまだ美鈴の事にこだわっているとしたら……今回はこれですんでも、またいつ同じ事があるか分からないと、ミュウが思ったのだとしたら……)いいかげん参ってきていた僕は、ミュウがもう僕には会いたくなくて、お父さんの怒りを利用しているのではないかとさえ、思うようになっていた。

僕は、大学院をやめたときの事を思い出した。

あの時は今よりずっと分かりやすい状況で、その気になれば修復することもできたのに、ほとんど迷うことなくやめてしまった。

今は、僕に会わないことがミュウの意志かもしれないと思っても、あきらめる気にはなれなかった。僕にとってミュウは、もうそんな単純な存在ではなくなっていたのだ。

八

これ以上は待てないと思った夜、アキちゃんから携帯に電話が入った。

「久我さん……」

「どうしたんだ、元気ないね」

「ミュウがね、ミュウがね……」

といったきり、言葉が途切れる。次の瞬間、アキちゃんは泣き出した。

「どうした? アキちゃん?」

「ミュウが……久我さんに会いたがっているの。会ってやって」

僕は、わけが分からなくて、アキちゃんを問いただした。

「もう、お父さんの怒りはとけたってこと?」

いつも冷静なアキちゃんにはめずらしく、まだ泣いたまま切れ切れに話し出した。

「お父さんは、怒っているわけじゃなかったの。帰らなかったのは、ミュウの意志なの」

「どういうことだ。もっと、詳しく話して!」

「ミュウね……ミュウは、もう……長く生きられないの!」

最後は叫ぶように、アキちゃんは言葉をしぼりだした。

「生きられないって……なんだよ、それ!」

「もう、東京に出てくるときから、分かっていたんだって。だから、ご両親も許したんだって」

では、僕と出会ったときから、ミュウの命の時間は決まっていたということなのか。

僕は、絶句した。

「久我さん? 聞いてる?」

アキちゃんの声に返事をしないでいると、「おい、久我!」

と、佐久間の声が聞こえてきた。

「十分で迎えにいく。それまでにシャンとして、待ってろよ!」

そういって、電話は乱暴に切れた。

ミュウが入院しているのは、都内の病院だった。彼女の兄が、そこで内科医をしているということだった。

佐久間の運転する車で病院へ向かう間、同じ車で葉山へ行ったのは、ついこの間のことだったのだと、ふいに思い出す。バカみたいに暑かった夏もようやく過ぎ、騒がしい都会の夜気にも秋の匂いが混じりはじめていた。

夜間の面会時間ギリギリに到着した僕らは、すぐにミュウの病室へ向かった。それは、真っ白な箱を想像させる、清潔すぎるほどの個室だった。

ノックして入ると、白衣の男性がいた。彼は、「美笛の兄です」と名乗った。

そう言えば耳の形が似ていると、僕はらちもないことを思う。

僕らが挨拶を済ませると、彼は「どうぞ」といって、道をあけてくれた。

白い部屋の白いベッドに、ミュウは寝ていた。

「さっき、目を覚ましたところなんです。少しなら、話せますから」

兄という人は、そういって病室を出て行った。

僕は、ゆっくりとミュウに近づいた。

「ミュウ」

呼びかけると、ミュウは……この一ヶ月で、ずいぶん細っそりしてしまったミュウは、重く目を開けた。

「……久我さん」

僕を認めて、かすかに笑う。僕は床に膝をついて、シーツの下のミュウの手をとった。

「……うれしい」

ミュウの力のない声が、僕の胸に突き刺さった。

「急にいなくなるから、どうしたのかと思った」

どうして、こんな間抜けな言葉しか出てこないのかと思いながら、僕はミュウの手をぎゅっとにぎった。

「さびしかった?」

輝きだけは元のままのミュウの瞳が、間近で僕を見上げてきた。

「さびしかった」

僕は素直に認めた。

「仕事をしてても足元が落ち着かないし、ご飯はつい多めに作っちゃうし…… ミュウが美鈴の事で怒って、もう戻らないつもりかもしれないって、毎日泣き暮らしていたんだ」

僕が笑うと、ミュウもまた少し笑った。

「あのね……」

「うん、なに?」

「死ぬの、黙ってて、ごめんなさい」

病室の隅で、アキちゃんが泣き出した。佐久間が抱き寄せたのか、その声はすぐにくぐもったものになる。

「いいよ、それは。たのしかったからさ、ミュウと暮らせて」

「私も、たのしかった。本当は、何も知らせずに消えて行くつもりだったけど……久我さんがお兄ちゃんを通じて伝えてくれる励ましがうれしくて…… 必ず迎えに行くって、いってくれたでしょ?」

「ああ」

「あれ、何度も何度も、久我さんの声で思い出していたの。そうしたら、やっぱり逢いたくなっちゃった」

ミュウはそういって、恥ずかしそうに笑った。

「最後に望みがかなって、ミュウはしあわせ」

ミュウはそういうと、僕の手を引き寄せて頬に当てた。

僕もそこに唇を寄せて、なんどもキスをした。

「死ぬのねェ、そんなに怖くないの。両親やお兄ちゃんには悪いんだけど、ちょっと楽しみな感じ。だって、初めての経験なんだもん」

そのいかにもミュウらしい言い方に、僕は溜め息まじりの苦笑をもらした。

「だからね、久我さんも、あんまりさびしがらないでね。ミュウは、ちょっと先に行くだけだから」

「そうだな。人間、みんないつかは死ぬんだもんな」

「久我さんがおじいさんになってからきても、ミュウは絶対見間違えないから。もし……もし他に一緒にいたい人がいたら……ものかげからそっとのぞくだけにするから」

ミュウはそういって、微笑んだ。

僕は、笑わなかった。

「もう一度ミュウに逢えたら、二度と放さないよ。ジジイになっていようが、足腰たたなかろうが、ミュウを抱きしめて逢えなかった分をとりもどす」

ミュウの黒めがちな目に、みるみる涙が盛り上がった。

「うれ……し……一番の望み……かなっ」

「ん? 一番?」

ミュウがうなずく。

「あと五ヶ月しか生きられないって分かったとき、自分のしたいことを考えたの。英語もちゃんと勉強してみたかったし、留学もしてみたかった」

「うん」

「でも、一番したかったのは、ご主人様をみつけること。そして、そのご主人様と愛し合うこと」

よい主に出逢い、互いに離れがたい愛で結ばれる。それは多くのM女が見る夢だ。

「恋もSMも、両方してみたかったの」

ミュウはそういって、「あきらめたくなかった」とつぶやいた。

僕は、しょっぱいキスをミュウの唇にした。

「猫耳のミュウに、メロメロだよ」

「じゃあ、猫耳もって先にいってるから、後から来てね。ゆっくりでいいから」

ミュウが笑う。今度は僕も笑った。

「ああ。ゆっくり行くよ。ミュウを想いながら、ゆっくり生きる」

「うん……そうして」

ミュウはそこで、ふわりとまぶたを閉じた。

「……お兄ちゃん、呼んで」

よく聞きとれないほどの、細い声だった。

僕は立ち上がった。僕に許された時間は、もう終ったのだ。

もう一度だけミュウの唇にキスすると、彼女の兄を呼びに廊下へ出た。

九

ミュウの葬儀は、少し曇った秋空のもとで行われた。

薄陽がベールのようにあたりを包む中、若くして病にたおれた娘の死に、参列者の誰もが涙を流した。とりわけ、彼女が最後まで生きる事をあきらめず、英語を学び、留学を夢見ていたという話が紹介されると、会場中がすすり泣きに満ちた。

アキちゃんや佐久間と一緒に参列した僕は、それを他人ごとのように聞いていた。あの真夏の公園で見た、老人のように。

葬儀の後、ミュウのお兄さんと話す機会があった。彼は、病気の事を知らせずにミュウが世話になった事を詫びた。

「小さい頃から、なんとなくまわりのいう事を聞いて生きてきたような妹が、はじめて自分のやりたいことは何かということを考えたんです。僕は、できるだけのことをしてやりたかった。それは、両親も同じでした。だから週一回、僕の診察を受けるという条件付きで、美笛を送り出したんです」

ミュウは、自分がMであることを、お兄さんにだけは打ち明けていたのだという。

「ただ、みなさんをだます恰好になってしまい、それは本当に申し訳なかったと思っています」

彼は、頭を下げた。

僕らは口々に、ミュウにはいい思い出ばかりをもらったといって、彼の頭を上げさせた。本当に、謝られるようなことは何もなかった。

帰りの車の中、僕は一人で座った後部座席から運転する佐久間に話しかけた。

「あの日、僕を『JUNCTION』誘ったのは偶然じゃなかったんだろう?」

ずっと疑問に思っていた事をいってやった。

佐久間はしばらく黙っていたが、やがて、「すまん」

と、一言だけいった。

すると、アキちゃんがすかさずフォローに入った。

「大斗のせいじゃないの。誰かカッコイイ友達紹介してって、私がたのんだの。偶然出会って恋に落ちるって形にしたいから、友達には何も知らせないでって。ミュウにも、何にもいってなかったのよ」

「そんなの分かってるよ。で? あの時はもう、二人の気持ちは通じ合っていたってわけか。……その後の展開を見れば、誰だって気づくけどね」

前の席に並んで座った二人は、気まずげに顔を見合わせた。

「いいよ、怒っているわけじゃない。ただ、感謝してるだけさ」

僕は、何の感情も込めずにそういった。こんなところで、また湿っぽくなられたらかなわない。

「アキから、カッコよくて信用できる男っていわれた時、俺、お前しか思い浮かばなかったんだよ」

「すまんな」と、佐久間は前を向いたまま片手を上げた。

どこかで一休みしてゆくかという佐久間達の誘いをことわって、僕は自分のマンションの前でおろしてもらった。

だるいからだをエレベーターに乗せ、重い腕でドアの鍵をあける。喪服の上着を脱いで適当に投げると、ソファーへ倒れ込むようにすわった。

正面の窓から、遅い午後の町並みが見わたせた。

ミュウは僕の机の下の次に、このソファーが好きだった。ここでミュウを何度も泣かせた。足を開かせ、恥ずかしいことを言わせ、時には二人寄り添って夜景をながめた。

僕はしばらく暮れ行く街を見ていたが、やがて区切りをつけて立ち上がった。

そしてミュウの一番好きだった、机の下にもぐり込んでみた。

小柄なミュウならともかく、僕には狭すぎる場所だった。膝をかかえ、首を曲げなければすわってもいられない。だが、そこから眺める風景は新鮮だった。

床についた傷やほこりが妙に目立って見える。電気スタンドの丸い足も、ソファーも、その先にあるダイニングテーブルも、みんな下半分だけの奇妙な物体だった。

僕は、まだ片付けずに置いてあったクッションを引き寄せ、無理をして横になってみた。

すると、世界はいっそう不可解なものになり、斜めに傾いた非日常的な床が目の前に迫ってきた。

これが、いつもミュウの見ていた世界かと、僕は空っぽの頭で思った。

曲げっぱなしだった頭を少しずらしてみると、机の足に何か書いてあるのが見えた。

紫檀の木目に、わかりづらい黒マジックで記してある。まちがいなくミュウの書いたものだと思い、苦労して読んでみると、それは英文だった。

「Love, and be silent……」

口に出して読んだ瞬間、僕の目から涙があふれだした。

ミュウが黙ってその胸にしまい続けたもの。

僕への恋、自分の命を刻む針の音、幻の未来、そして嫉妬……

それらを抱えてなお、ミュウは僕の奴隷として成長することを何よりも願った。

「ミュウ……」

ミュウの死が、急に実体となって僕を襲った。

僕は窮屈に身を屈めたまま、ミュウの香りがかすかに残るクッションに顔を埋めた。

誰も知らない真実のミュウ。

僕の机の下を、どんな居心地のよいソファーよりうれしがった可愛い奴隷!

また、ミュウに逢えたら、机の下にもぐってみたことを話そう。

そうして、どんな恋も及ばないほどミュウを愛していたと伝えよう。

「また続きをしような、ミュウ」

僕は、ミュウの楽園に横たわりながら、涙の止まらない目を閉じた。

あとがき

『机の下の楽園』は、私が書いた二番目のSM小説である。今ならこういう書き方はしないだろうと思うところが、いくつもある。SMについて好奇心のままに学びつつあったころの情熱が、そのままほとばしったような作品だ。

SMの世界は、フェティシズムに基づく欲望が渦巻いている。また、それこそが本当のSMだという言説がながく支持されてきた。

それを初めて目にしたとき、私はがっかりもしたし、疑問にも思った。SMは、愛し合う手段の一つだと思っていたからである。

フェティシズムというのは対象への一方的な執着であるから、人間関係の構築とは無関係に成立してしまう。恋愛をむしろ邪魔なものだと考えているS男性は多かったし、そのたぐいの男性が口にするのは、大抵次のような言葉だった。

「愛しているなら、普通にセックスすればいい。愛していないから奴隷扱いできる」

最初、M女性はそれで満足しているのだろうかと思った。しかし、ネット上の記事を見渡しても、あまり有力な反論はみつからない。

SMは恋愛とは違うという考え方の主をもてば、M女さんもそれに迎合する形の「良い奴隷」になろうとする。様式としての振る舞いの方を重視して、心からわき上がる感情を封じようとする。

主従という形式が、面倒な相互理解の過程をはぶいてくれるから、自分や相手と真剣に向き合う機会も少ないのかもしれないと、見聞の狭かった当時は思った。

誰も言わないのなら、恋愛とSMが両立している物語を自分で書いてみせればいい。もしかしたら現実には存在しないかもしれないが、普通の人間関係として丁寧に築かれていくSM主従というものを見てみたいという欲求が、猛烈にわき上がった。

そして一気に書き上げたのがこの『机の下の楽園』である。

一度『マニア倶楽部』(三和出版)に掲載が決まりかけたが、紙面の刷新時期と重なり、そのままお蔵入りしてしまった。

その数年後に『

佐伯香也子小説集1

』(二○一○年/絶版)に収めて出版した。

出版後まもなく、飯田橋の

風俗資料館

で、泣きながら出てくる女性とぶつかりそうになった。知り合いの漫画家さんだったが、「机の下の楽園」を読んで涙が止まらなくなってしまったのだという。

作者としての感激と、理解してもらえた事に対する女性としての喜びが重なって、彼女と抱き合ってしまった。

いろいろな意味で、とても思い出深い作品である。

電子化にあたり、何カ所か加筆訂正した。

制作の

二木寸志

さんには、今回もたっぷりお世話になった。表紙も、本当に素敵なものを作ってくださった。心より感謝申し上げたい。

机の下の楽園 下

佐伯香也子

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©2013 Kayako Saeki

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二木寸志

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机の下の楽園(下) 第2部 (2/2)
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