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ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌 · 第三章 夫婦交換演習

ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌 第三章 夫婦交換演習 (3/7)
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第三章 夫婦交換演習

1

藪沼夫婦との会食から数日後の、夕食時。

咲美の表情が、いつもと違うことに、智は気づいていた。元々明るい性格で、こちらが黙っていても一方的に一日の出来事を語る妻が、今晩に限っては明らかに沈んだ表情を浮かべている。

「どうしたの。何かあった?」

案ずる夫の顔をチラと見て、咲美は何事か考えこむ表情で改めて俯いてしまう。それから短く「ううん」とだけ告げた。具合が悪いのかと尋ねても、疲れているんじゃないかと問うても、同様の返答と首振りが重ねられるばかりだ。

食事を終えて智の膝の上でくつろいでいた愛娘も、心配げに咲美の表情を窺う。

(……予想以上に、効いてるみたいだ。……ごめん、咲美。智美も、ごめんな)妻の浮かない様子の理由を知っていればこそ、智は内心で彼女と、その影響で動揺してしまっている愛娘に向けて懺悔する。

事の次第は、帰宅途中の電車内で受け取った藪沼からのメールに記されていた。

『今日、桂子が奥さんに会いました。ご指示通り、最初なので挨拶程度ですが、夫婦円満ぶりだけは、思いっきりアピールしておいたとのことです。それと、奥さん、魚の三枚卸は苦手なようですね。コツを簡単に教えたと言ってましたよ。これからもちょくちょく、店に顔を出させます。それでは、また。──藪沼』

一昨日、咲美に内緒で藪沼夫妻と二度目の会食をした際に智から進言した策がさっそく始動したのを知らせる内容である。

藪沼本人のことは毛嫌いしていても、妻の桂子なら咲美の警戒感も薄らぐのではないか。まずは妻同士で親しい間柄になってもらい、そこから徐々に家族ぐるみの仲へと発展させてゆけたなら──。

そう語って聞かせた一昨日、妻を案ずると同時に奸計に嵌まりゆくことを期待し、たしかに智の胸は躍っていた。同時に、胸に突き刺さる想いがしたのも、覚えている。

(……ごめん。咲美。僕は、最低の旦那だ)

夫としての不実を詫びるため、そして、詫びることで束の間罪悪感を和らげんがため。改めて懺悔する。そうしてこの晩も、不実な夫は勃起不全を演じた。

2

それから一週間が過ぎた晩。咲美が再び桂子の名を口にした。

「藪沼の奥さん、最近よくお店に来るの」

台所で夕食の準備をしながら放たれた言葉を受けて、帰宅したばかりの夫は内心驚かされる。前回に名を挙げた時からさほど時を経たわけでもないのに、妻の表情がまるっきり異なっていたからだ。

「えっ。それで、何か話とかした?」

「向こうから話しかけてくるんだもん、しょうがないじゃん」

口調とは裏腹に、表情は平素通り。ともすれば晴れ晴れしている印象を受けるほどで、少なくとも不機嫌さは見て取れない。

続けて妻が語ったところによると、桂子はほぼ毎日店に通ってきているという。

「どんな話したの?」

「智がいつも言う、どうでもいい話」

夫がきょとんとした顔になったのを見て、咲美が──本当に久しぶりに悪戯っぽい微笑を浮かべた。

「女ってどうして、どうでもいい話を長々とするんだ、って。智の口癖じゃない」

言われてみれば、よく口にしていたかもしれない。夫が納得したことが嬉しかったのか、より上機嫌に、鼻歌でも歌うように咲美が告げる。

「女はねぇ、どうでもいい話してるときが一番幸せなの。藪沼の奥さんともそういう話してた」

トントンと玉ねぎをみじん切りにしながらも、彼女のお喋りは止まらない。嬉しげな口振りからは、咲美の中で桂子が「忌み嫌う男の妻」というだけの存在でなくなっていることが十二分に読み取れた。

「結構あの奥さん料理詳しいのよ。ぬか漬けのコツとか教わっちゃった」

「へえ、よかったじゃん」

女同士の仲の予想以上の進展ぶりに、驚きを新たにさせられる。

「すごく栄養とかにも気を遣ってるの。びっくりしちゃった」

桂子の料理上手を会話の糸口に、との提案も実行に移されていたわけだ。

「ふぅん」

胸中でせめぎ合う不安と期待をごまかすべく、努めてそっけなく応じた夫を一瞥した後。咲美は、シンクで野菜を洗いながら、なお機嫌のよい口調で言った。

「ま、あんなセクハラ親父でも、一家の主だしね。すごく仲いいみたい」

桂子が言葉と態度で事あるごとに夫婦円満をアピールさせる目論見も、うまくいっている。

この調子で咲美が桂子と親しくなっていけば、次なるステップへ進める日も、そう遠くないのではないか。期待が不安を上回り、押しこみ始めていた。

就寝前。珍しく咲美の方から、ベッドの上で身体を寄せてきた。

「……寝ちゃった?」

「……ん、いや、まだ起きてるよ」

夫の返答を受けての彼女の行動は、いつになく積極的だった。咲美のスベスベした脚に膝小僧をくすぐられ、何とも面映ゆい衝撃が身の内に巡る。ぞくりと背筋を震わせた直後に、暗闇で咲美と目が合った。間髪容れずに腕を絡めてきた彼女の頬は、ほんのりと桜色に染まっている。

(……焦れてるんだ。咲美も……)

夫婦間の性交が途絶えて、もう半月が経とうとしていた。出産の時期を除けば、過去最長の期間となる。

「ごめん、ちょっと……疲れてて……」

本当は、今すぐにでも抱き締めたい。けれどそうすれば、これまでの苦労が水泡に帰してしまうのだ。

本音を押し殺して発した夫の拒絶意思を受け、咲美が一瞬、泣きだしそうな顔になる。それを見ても、スワッピングに惹きつけられ続ける心にはもう、揺らぎは生じなかった。

胸に刺す痛みをごまかそうと、落ち込む妻の唇に軽く口づける。加えて、彼女以上に落ち込んでいるそぶりを見せ、勃起不全の根深さを印象づけもする。日々重ねた嘘の演技は堂に入り、あっさり妻の同情を買うことができた。

「……おやすみ」

穏やかさを取り戻した声音で告げて、智の胸に甘えるように鼻を摺りつけ、咲美が目を閉じる。ほどなくして聞こえ始めた愛妻の寝息を聞きながら、男根が、止めていた呼吸を再開した時がごとく盛大に弾んだ。

(もう、少しの辛抱だ……そうすれば……)

何もかもうまくいき過ぎたために、逸る気持ちが抑えられなくなっていた。

晩方、そっけない返事を装った夫に、咲美が向けた視線の意味。そこを見過ごしてしまったことで、どのような結果がもたらされるのか。気づくことなく、この夜も智の脳裏には禁忌の妄執だけが渦巻いていた。

3

それから、さらに二週間。日々、桂子の話をする咲美の口調が明るくなっていくのを見てきて、機が熟したのを確信した智は、新たなステップに踏み出す決意を固めた。

平日午後。外回りの営業から直帰すると会社に伝えた智が、咲美の勤めるスーパーに向かう。パーキングに車を停めたのは、午後三時、三分前。

三時になるのを待ってから入店し、咲美の姿を探した。真っ先に彼女の持ち場である生鮮食品売り場へと足を運び、ぐるりと見渡す。広い売り場の中央付近、調味料の並ぶ棚の方から、誰よりも聞き慣れた声がした。

「い、いえ。本当に……悪いです」

咲美の、やや困惑した声だった。聞き耳を立てると、すぐに話し相手が桂子であると知れる。

「食べきれないくらいもらっちゃったのよ。大勢で食べたほうが美味しいじゃない」

「娘がいますし、その……夫も、帰りの時刻がはっきりしませんので」

口振りから、咲美が相手の申し出を辞したがっているのは明らかだ。それに気づかぬわけもなかったが、桂子は一向に食い下がる気配を見せない。今日の作戦が必ず成功するものと、知っているからだ。

「ご主人に電話してみたら? 親子三人でいらっしゃいよ」

桂子の口から自身を指し示す呼称が飛び出しても、棚向こうに立つ智の脚は歩みを止めたまま。

(まだだ。まだ、早い)

今日の作戦の立案者であり、取り仕切る立場にある不実の夫は、逸る胸を抑えながら、ベストのタイミングを計っていた。

「本当に、あの、申し訳ありません。また、別の機会にでも……」

咲美が、辞退の意思を重ねて伝える。

「そうですか。残念だわ。でも、無理強いしてもなんですわね。残念だわ。またぜひ、ご一緒しましょうね」

それにより桂子が話を引き取り、終いをつけた。

「いいえ、こちらこそ。ありがとうございます」

咲美は、ほっとしたに違いない。表情を窺えずとも、そのくらいは声の調子でわかる。きっと、肩の力を抜いて油断してもいる。

(……今っ!)

棚向こうで別れた女二人の内の一方の姿が、視界に入るか否か、というタイミングで、智の右足が前に踏み出す。

「あらっ

!?

」

ちょうど棚の角位置でかち合った相手は──桂子だった。濃い化粧で細かい所が読み取りづらいのと、普段から大仰な挙動が目立つせいもあって、彼女の驚きの演技に不自然さは見受けられない。

「あ……どうも」

咲美と桂子。いずれと出くわした場合もつつがなく進行できるように、策は練ってあった。打ち合わせ通りにぎこちない挨拶を交わした後に、桂子が動く。

「あらまあ、偶然! ちょ、ちょっと奥さん、浅岡さん! 旦那さんがいらっしゃってるわよぉ!」

桂子は騒々しいジェスチャーを添えて、先ほど別れたばかりの咲美を呼んだ。

売り場中に響くのではと思うほどの大声で名を呼ばれた咲美が、わずかに眉をひそめて振り返り。約束の午後五時よりも二時間早く現れた夫を見つけて、目を丸くする。

桂子は、まだ事態が呑みこめていない様子の咲美の元へ駆けるや、さらに捲し立てた。その間に距離を詰めた夫が、妻の顔を平素通りの装いで覗きこむ。

「と、智。約束の時間には、まだ早いみたいだけど……どうしたの?」

「うん。早くに仕事が片づいたんでね。直帰するって会社に伝えて、早めに来ちゃった。とりあえず顔見れたし、咲美の勤務終わるまで、近場で時間潰して待ってるよ」

前方を桂子の身体に塞がれた状態で夫を出迎えることとなった咲美の、動揺をひしひしと受け取りながら、当の夫は用意しておいた嘘を吐く。

さらに、咲美に勘繰る時間を与えぬよう、間を置かずに桂子が言葉を綴った。

「旦那さんは蟹、お好きかしら?」

「……え? ああ、はい。大好物です」

答えた夫の顔を見る妻の表情は、渋柿をかじったかのようにしかめられている。蟹が夫の好物であることを知っていればこそ、夫の訪れる前に桂子との話に終いをつけられたのを喜んでいただろう彼女の胸中に、今。夫の間の悪さを呪う趣が広がっているのは明らかだった。

(……これで、いい)

蟹を口実に藪沼の自宅に招かれるという、新たな段階に踏み入るため。「意図せず悪者になる夫」を演じる意義があった。

咲美の中で藪沼についての好感度が特に上がっているわけではない現況を踏まえれば、必然的に咲美を誘導する役目を桂子が負うことになる。先を思えばこそ、咲美の桂子に対する心証を、今ここで損なわせるわけにはいかないのだ。

「それじゃ、日程はこちらで決めさせてもらっても、いいかしら?」

無傷の桂子がにこやかに告げ、話を締めにかかる。

「あ、あの、っ」

言いづらそうに、咲美が口ごもった。

「あ、はい、よろしくお願いします」

妻が拒絶の意思を示さないのをいいことに、夫は受諾の意思を、言葉と頷きで重ねて伝える。

「それじゃ、また。都合の良い日を見繕って、明日にでも奥さんに伝えますね」

ぺこりと頭を下げて、機嫌よく桂子が去ってゆく。

準備を進める旨を告げられてしまった状況で、「やっぱりやめます」などと言えるはずもない。咲美は、見る間に遠ざかる桂子の背を見つめながら、しばし呆然と立ち尽くした後。

「もうっ。この、食いしん坊っ」

改めて夫に向き直り、ふて腐れたように頬膨らませ、そう言った。

「でも、ほら。蟹なんか中々食べられないじゃん。きっと、智美も喜ぶと思うよ」

夫は、妻を納得させるもっともな文言を繰り出す一方で、別のことを考える。

(食いしん坊。欲張り、か──)

たしかにその通りだな、と納得して以降は、来るべき日についての期待ばかり募り、急きつつのシミュレートに密かに没頭した。

「まあ……ね。智美が喜ぶなら、あたしだって、嫌がる理由はないけど」

夫の邪な欲など知る由もない妻が、また気遣いを覗かせた。ほどなく近場で時間を潰す旨を告げた夫に対しても、気分を切り替えてまだ幾分ぎこちのない笑顔を浮かべて見送りまでする。どこまでも、善良な妻。

咲美が善き妻であるほどに、罪深き夫の妄想は根を張り廻らせていった。

4

藪沼の家は築二十年ほどの分譲マンションで、職場であるスーパーから車で十五分ほどの所にあった。

(うちと同じ区内にあると、以前藪沼から聞かされて知ってはいたが……)これほど近場だとは思っていなかった。

幼稚園に智美を迎えに行き、一旦家に戻った後。仕事を終えた咲美とも合流し、三人で藪沼宅を訪問した。時刻は、午後六時を回ったばかり。

咲美は仕事帰りということもあり、カットソーとジーンズという見慣れた格好。夫と娘も「気兼ねなさらずいつもの格好で」との藪沼の言葉に沿い、普段着で居並び。夫が内心の期待と不安を押し殺してインターホンを押すのを、娘はわくわくと、妻は何とも言えない表情で見守っていた。

「やあ、いらっしゃい!」

ほどなくして顔を見せた藪沼は部屋着姿で、張りつけたみたいな笑みで出迎えてくれた。和やかなムードを醸そうとの意気は感じられる。が、奴の細目の奥に覗く瞳の挙動が、なけなしの努力を台無しにしていた。さっそく咲美を視線で舐り回していたのだ。

自然と夫の陰に隠れた妻も、妻を気遣い護るそぶりを見せた夫も、おそらく同じ思いを抱いていた。

──ひと月前には想像もしなかった事態になった、と。

かつて咲美が語った通り、桂子は非常に料理の手際がよく、刺身や焼き、蟹すきに至るまで、まるでコース料理のような豪華さでもてなしてくれた。

浅岡一家の訪問から小一時間ほど経った頃。藪沼家の広めのリビングには、意外なほど穏やかな空気が流れていた。

「それがねご主人。アサオカちゃ、いや失敬、奥さんのファンはウチの店の者の中にも結構、多いんですよ」

「もう、やめてください副店長。それに、アサオカちゃんでいいですよ」

当初は硬かった咲美の表情も、食が進む中で徐々に和らいでゆき、あれほど嫌っていた藪沼との会話に笑顔を見せるまでになっている。ビールも進んで、ほろ酔い加減なためもあるのだろう。セクハラトークも楽しげに返せそうな余裕すら感じられる。

「いやいやいや、ご主人を前にして、アサオカちゃんはさすがに、ねえ」

藪沼はといえば、完全にでき上がっていた。恵比寿様のような満面の笑みを湛えて、生来の持ち味であろう馴れ馴れしさを如何なく発揮している。

「いえ、いいんですよ。アサオカちゃんで。気にしないでください」

時折しつこく絡み過ぎて咲美が嫌な顔をすることもあったが、その都度桂子がさりげなく割って入り、場の空気を保たせる。

そして、また今も。

「あはは。でも、ご主人もシャキっとした方で、奥さんが惚れ込むのも、わかるわぁ」

雑炊を作り始めた桂子が、口数が減り気味だった智に話を振った。

「ほんとに。私が若かったらほっとかないくらいよ」

「いやぁ。やめてください」

先のことを考えると半分冗談とも言い切れず、困惑した。どういう顔をしたものかと悩む夫の様子に気づき、隣の咲美が「ぷぷ」と短く吹き出す。

「おかゆ~」

蟹にはあまり興味を示さなかった智美が、雑炊を指差し、催促する。

「おぞうすいよ、智ちゃん」

「おじょーしゅい」

咲美に促されて発声した娘の拙い口振りに、皆、揃って笑みを浮かべた。

「はーい、智美ちゃん、どーじょ」

まるで祖母のような振る舞いで、桂子が智美に椀を渡す。

(知らない人が見たら、一家の団欒に見えるのかもしれない)そもそも咲美の気を緩めるために、じっくりと時間を取ろうと進言したのは、自分だ。なのに──穏やかな時間が長引くほどに、智の口数は減っていった。胸内で渦を巻く妄執の熱量に押されて、外面を装うための余力が目減りし続けているせいだ。

雑炊を食べ終えた智美が眠ってしまうと、藪沼夫婦に勧められるまま、年代物のワインで乾杯する運びとなる。決して酒に強い方ではない妻がなみなみ注いだ赤ワインを喉に流したのを見て、夫の心臓はひと際激しく鼓動した。

(もうすぐだ。もうすぐ、僕の妄想が……)

部分的にだが、現実のものとなるのだ。期待に逸る胸を抑える智の視線の先で、テレビ画面にワイキキの美しい映像が流れた。今春、ハワイへ行った時に撮影したものだと、藪沼が言う。

「えっ。今年、銀婚式なんですか?」

だいぶ酔いも回り、聞き役に徹していた咲美が、その話題になった途端に驚きの声を上げた。

「お恥ずかしいんですが」

「二十五年も経つともう、爺さん婆さんですわ」

少々わざとらしく感じるほどに、藪沼夫婦がのろけてみせる。

「いえ、そんな、とても素敵だと思います」

二人を見つめる咲美が、本当に羨ましそうに目を細める。元々世辞を言うタイプではない上に、酔っているせいで本音が容易にこぼれる状態でもあるのだろう。

推察した上で、智も今知った風を装い、流れを繋いだ。

「本当です。お二人からしたら僕らなんて、新婚同然ですね」

銀婚式というのは真っ赤な嘘で、正式に籍を入れたのは藪沼が三十過ぎてから。実際の所を知っているだけに、息苦しさが胸を衝く。

ここが好機と踏んだのだろう藪沼が、目配せしてくる。智が小さく首肯した直後に、奴はとうとう核心に触れた。

「いやー、うちらも波風立たなかった訳じゃありません。先日も言いましたように僕が不能だった時期もありまして。倦怠期も相まって何度危機的状況になったことか」

咲美が一瞬、息を呑んだのがわかった。

「そうだったわね。ほんと、今ではおかげ様で……あら、ごめんなさい。私ったら」

桂子が口に手を当てて、妖艶な流し目を送ってくる。それも合図だ。智が瞼を二度瞬かせて返答とすると、桂子が笑みこぼす。次いで藪沼が、さらに踏み入った。

「これも何かの縁です。どうですか、ご主人、今日は腹を割って話しませんか」

「え?」

驚いた風を演じる智の腹の底で、期待感が煮沸する。

モニターから流れるハワイアンのメロディーだけが、しばし部屋に響いた後。

「先日のお店のことです」

静寂を破る藪沼の声がやたらと響き、黙り続ける咲美の肩がビクンと揺れた。

「実際のところ、ご夫婦、夜のほうはうまくいってるんでしょうか?」

咲美は恥じらい赤らんだ顔を俯かせたまま、答える気配がない。妻の内情を察した智もまた、無言を貫く。無論、それが答えとなるのを理解した上での選択だ。

「やっぱり……。そういうことでしたか」

「それってつまり、その……元気にならない、ということですわよね?」

無言の肯定を受けて紡がれた藪沼夫婦の言葉に、押し黙ったままの咲美の緊張と羞恥ぶりは一段と高まる。

隣で俯いた拍子に妻の表情を覗き見、智は不誠実な期待が煮え滾るのを自覚した。

「いや、何も恥じることじゃない。よくあることです」

「そうですよ。特に現代はストレスの多い社会ですから」

藪沼夫婦もかつて同じ悩みに直面している、という前情報があるだけに、お節介だと思えども、無下に撥ね除けられない。

(咲美はそういう女性だ)

はたして夫の予想した通りに藪沼夫婦の喋りを制止できずにいる彼女が、「この前話した〝嫉妬〟は試してみましたか?」

続く藪沼の発言を受けて、ピクリと身体を震わせた。

「……い、いえ」

わざと消え入りそうな声で答えたのを見て、居た堪れなくなったのだろう。咲美は夫のシャツの袖を引き、「もう語らなくていいから」と、潤む瞳で訴える。

すべて視認していながら、気づかぬふりをした桂子が畳みかけた。

「経験者として言わせてもらうと、一度お試しになる価値は十分あると思いますよ。ね、奥さん。旦那さんのためと思って……それに、智美ちゃんも、弟か妹がいたほうが、もっと活発になるんじゃないかしら」

智の口からも過去幾度となく発せられていた話題を持ち出され、咲美の目の色が変わった。

図々しさが持ち味ではあるが、頭より股間で考えるタイプの藪沼は切りこみ役に専従。場の仕切りを口のうまい細君に任せる。自ら配した二人の役割が最大限機能している現状に、智の胸はひと際の期待を蓄えた。

赤くなって俯いている点は変わらないが、咲美の唇がキュッと結ばれたのを、隣席の智のみが視認する。さっきまで夫の腕を引いていた手が、彼女自身の膝上に乗って握り拳を形作ってもいた。

(たった今、咲美は……藪沼夫婦の提案に乗る決意を、固めたのだ)その予測を裏づけるように。

「そうだ、ちょうどいい機会です。ちょっとしたゲーム、やってみましょうよ」

藪沼の提案を拒む者は、誰一人としていなかった。

5

「席替えをしよう」という藪沼の提案は、しばしの逡巡の後に決行された。

智の隣席、さっきまで愛しい妻が座っていた席に居ついた桂子が、妖艶な笑みをよこしてくる。それ自体は特に惹きつけられるものではなかったが、そわつきと、居心地の悪さを強めた智の視線は、桂子から逃れるように真向いを向く。

そこに、赤鬼のような顔をスケベたらしく緩めている男と肩を寄せ合う咲美の姿があった。触れ合う二人の肩の内、咲美の方だけが震えている。

緊張と嫌悪の賜物である震えを愛しむように、藪沼の手が咲美の肩先を撫で繰った。より震えの増した肩を抱き寄せつつ、奴が言う。

「あまり神妙に考えなくていいですよ。あくまでこれは〝嫉妬〟の効果を確かめるための……言ってみりゃ、お試しみたいなもんです」

お試し、という所を強調した藪沼に続いて、桂子が意図を説明し始める。

「セックスレスの原因のほとんどは、男性側にあるそうです。そこで……先にも言いました〝嫉妬〟ですわ。奥さん。どうぞ今から、ご主人が嫉妬なさるように振る舞ってみてくださいな」

強弱を巧みに用いる桂子の物言いは、実に達者だ。真摯に相談に乗ってくれていると感ずればこそ、咲美も真剣に耳を傾け、恥じらいながらも、動こうとする。

その様を正面から見つめる夫──智の胸中は、ざわざわと蠢く不安と、底冷えのする怖気、そして底冷えの後に必ず去来する期待感に襲われていた。それらのせめぎ合いの情勢如何で刻々と心境が移ろい続け、一体どれが己の本心であるのか判然としなくなってゆく。

咲美と藪沼の肩が触れ合っているのを見ているだけで、胸が焦げ朽ちてしまいそうだ。なのにその胸の中枢では心臓が忙しのない拍動を轟かせ続けてもいる。それを心地よくも、恐ろしくも、どちらとも感じられる実情が、智の怖気と恍惚を一層誘った。

(……そう、だ。この、感覚だ……っ)

徐々に息苦しくなる中で、つくづくと実感した。禁忌の妄執に耽る際、それを餌に自慰する際、そして妄想を現実とするために策を練っている時にも体感してきたのと同種の物。心身を蹂躙し続けるこの歪な昂揚こそ、求めてやまぬ甘露の塊。

(咲美は僕の嫉妬を煽るために、僕のことを想って藪沼にさらに肌を寄せるはず)自分が愛されているという実感と、彼女が奪われるかもという焦燥。二つ同時に味わえるシチュエーション。いくたびも思い描いては自慰に耽ったそれが、脳内で貪る他なかったそれが、もうじき現実のものとなる──。

困り果てた咲美が夫に助けを求めるような視線をよこす。すがったその人物こそがすべて手筈を整えた黒幕である、などとは知る由もなく、ひたすら純粋に、妻は夫のことを想い、嫌悪も、不安も己の内に押しこめようとしている。

(……ごめん、咲美)

期待の昂ぶりが勢力を増したために、まだ踏ん切りのつかないでいる彼女に救いの手を差し伸べる機会を、自ずと失った。ごくごく小さな勢いに留まった胸の痛み、ざわつきに目を瞑り、ただ惑うだけの夫を演じ続ける。

(……今です)

「奥さん、こんな風にすればいいんですよ」

罪深き男の目配せに従って、桂子が重ね合わさった手を持ち上げ、咲美に見せつけた。夫が自分以外の女性と手を繋いでいるという事実を突きつけられた咲美の瞳に、明らかな嫉妬と怒りが覗く。

見る間に激情を顔に浮き上がらせた咲美を嘲笑い愉しむように、桂子は指と指を絡め、より強く握り合った所を見せびらかす。

「アサオカちゃん、出来そうかな?」

間を置かず、藪沼が自らの太腿の上に掌を上向きに置いた。その意図を即座に察した咲美の身体がひと際の強張りに包まれ、ぎくしゃくとする。

事の推移を睨む智の心臓が、破けるのではと思うほどの早鐘を打った。

咲美の大嫌いな男。粘着質なセクハラ親父。その藪沼の手が、咲美の手と重なろうとしている。

(……嫌だ! や、やめっ)

激しく渦を巻く嫉妬心と占有心が、よっぽど喉から吐き出そうになった。なのに胸の鼓動が伝染したかのように、重たい脈を、腰の芯が打ち鳴らす。それに驚き固まった腰が、ソファーから離れることを拒絶する。

その、直後。一瞬だった。

何か開き直ったような素早い動きで、藪沼の手に、咲美自らが白く柔らかな掌を乗せた。

現在の妻の心境を、智はこみ上げる吐き気と戦いながら紐解く。

もたもたすると、かえって妙な空気になる。それが嫌で、咲美は踏ん切りをつけたのではないか。その証拠に、咲美の瞳はクルクルと明らかに挙動不審だ。

咲美の動揺がダイレクトに伝わったことで、智の胸内にまた新たな勢力──妻へのいじらしさが芽吹き、見る間に膨れ上がった。

(今、僕の目の前で起こってることは全部、事実。現実なんだっ……!)妄想ではなく事実。そこを強く認識するだけで、かつてないほどの衝撃が胸にのしかかる。咲美の秘部に藪沼の野卑なペニスが挿入され、乱暴に犯される──そんな妄想に励んでも終ぞ得られなかった熾烈な拍動に、心臓が呻く。

同じリズムを刻むズボン奥の男根には、胸の苦しみとは真逆の喜悦が詰めこまれていった。肉幹を駆け上っていく滾りが、より一層の硬直を促す。

「……っ、は……。……っ

!?

」

咲美に気取られぬようにと、苦しげな呼気をそっと吐き出した矢先。ふいに肩に重みを感じる。目を向けて、智は重みの正体を知った。

桂子が頭を預けてきたのだ。咲美とは違う、きつめの香水の匂いが鼻を衝く。またも自分以外の女性が夫に触れ合うのを直視する羽目となった咲美の目が泳いでいる。緊張と昂揚に呑まれた智もまた、正面の咲美とまともに視線を交わせずにいた。

「できますか?」

一人ニタニタと笑みっ放しの藪沼が、咲美の耳元で囁き、己の妻と同様の行動を促した。また咲美の瞳が夫に助けを請い、無言の数秒が経過する。

そして──諦めたように肩を落として、咲美が藪沼の肩に頭を乗せた。

「……ッ

!!

」

ドクン、と盛大に拍動する胸を思わず押さえながら、智は一秒たりとも見過ごすまいと血走る目で注視する。胸に当てた手を、咲美に気取られぬように早々に下ろしてから、少しでも身を落ち着かせようと深呼吸を重ねた。徐々に心拍が落ち着くに従って、今度はもう一つの熱源──股間の漲りをひと際意識させられる。

「どうです、ご主人?」

咲美の頭の重みを肩で味わう藪沼が、勝ち誇ったような物言いで問うてきた。

──それは僕のものだ!

卑しい占有欲が喉を衝きかけたが──。

「っは、ぁぁ……っ……!」

股座に奔った喜悦の疼きのせいで、言葉はすんでの所でとどまり、間もなく喉奥へと滑り落ちていった。

「あら。まぁ、まぁっ。奥さん、お喜びになって。旦那さんの股間のもの、もうすっかり元気を取り戻してらっしゃるわ」

ズボン越しに勃起へと覆い被さった桂子の掌が、摺り蠢く。その都度、股間に巡るもどかしい疼きに耐えかねて、智の口から煩悶の呻きが吐き漏れた。

にんまりと桂子が笑う。その笑みの内に親切心以外のなにかが潜んでいるのに、場の誰もが気づいていた。

「ちょ、ちょっと……! 桂子さんっ」

さすがにやり過ぎだ。そう、吊り上がった咲美の目が訴える。友人を夫から引き離すべく立ち上がろうとした咲美を引き留めたのは、またしても藪沼の、肉厚で野卑な手だった。

「まだ! まだだよアサオカちゃん。せっかくご主人が立ち直りかけてるんだ。あともう一息の辛抱ってこと。ねっ?」

引き留め工作をしているつもりの奴の瞳には、獣欲の盛りがギラつきとなって表れている。触れ合ううちに辛抱堪らなくなったのが誰の目にも明らかだ。

(こんな、こんなっ……咲美を性欲の捌け口としか見てない野郎に僕はっ!)自己嫌悪が高まるほどに、股間の熱も、鼓動も強まってゆく。吐き気をもよおし、えずくたび、ズボンの内で男根がヒクつき、喜悦を吐き出したがる。

牡の卑しい衝動は、ズボン越しに触れている桂子にも筒抜けだ。

「ほら座って! もっと、ご主人が嫉妬してくれるようなスキンシップを……ね?」

「きゃっ! や、やだっ」

恍惚にのたうつさなかにあっても、愛妻の悲鳴に惹きつけられて、しかと視認した。

藪沼の手が、咲美の太腿に乗ったばかりか、掌を摺りつけるようにして撫で回している。ジーンズ越しの刺激を受けた咲美は背を震わせ、堪えるように唇を噛んでいた。羞恥を鮮明にする妻の表情と身ぶりに、思わず夫の目が魅入られる。

その間も、藪沼の手指は侵略を続ける。蜘蛛の足のごとき様相で腿肉の上を這い進み、咲美の股の付け根へと迫ろうとした。咲美は当然両足を閉じきり、腰を揺すってまで抵抗を示したものの。

「あ……っ

!?

や、ぁあっ」

鼠蹊部あたりをスリスリと指腹でくすぐられて、甲高い、切なさと嫌悪の混ざった声を上げさせられてしまう。

(……ッッ、藪沼ぁぁっ!)

図々しくも巧みに女の性感を炙る藪沼への怒りと嫉妬。あえなく快楽を引き出されようとしている妻への嘆き。それらが織りなすことでより膨らむ、歪な欲望。

諸々を無理矢理に呑み下した結果。入れ物の容積を超えた水が溢れるがごとく、胸を拍動、喉を吐き気、頭を眩暈、いずれも異常な勢いで溢れた衝撃を浴びせられた。耐えきれようはずもなくテーブルに突っ伏した智の口から、幾度もえずきがこぼれる。

「ちょ、ちょっと旦那さん。大丈夫?」

不測の事態に際し、ズボン越しの男根をまさぐる手つきはそのままに、桂子が惑いの声を上げた。

「智っ!」

さすがに藪沼の制止を振りきり立ち上がった咲美が、駆け寄ってくる。まだ奴の温みが残る肩を寄せて、奴の汗が染みた手で夫の頬に触れ、顔を寄せて覗きこんでくる。

その際、正面から対峙した彼女の顔が紅潮しているのに気づかされ、また智の喉奥から酸っぱいものがこみ上げた。

(あいつに撫でられたせいで……? そうなのか? 咲……美ぃッッ!)瞬く間に攻め上がってきたそれを、慌てて飲みこもうとするも、間に合わず。突っ伏した状態で背を弾ませ、大量にテーブルの上にぶちまける。

もはや到底「お試し」を続けられる状況ではなく。渋顔の藪沼をよそに桂子が発した、「タクシー呼んだので、旦那さんを運びましょう」との言葉で幕が下りた。

「本当に大丈夫なの?」

屋外に出て早々、愛妻が尋ねてくる。彼女の胸には、何も知らず眠る愛娘が抱かれ、安らかな寝息を立て続けていた。

「ああ、もうずいぶん収まってきたから。一人で立てるよ。心配かけて……ごめん」

──こんなことにつき合わせて、ごめん。

──それでもなお卑しい願望を諦められないでいる、駄目な夫でごめん。

数多の意味を孕んだ謝罪を口にしつつも、徐々に股間から遠のいてゆく恍惚を名残惜しく感じている。最低の夫だ──また自虐が胸を衝く。なのに後悔の念は終ぞ湧かなかった。

咲美の内腿を滑った藪沼の指先が、あわやジーンズの股座へと至らんとした時、堪えきれずに放った我慢汁のせいで、今もトランクスの内側、特に股間周りがベトベトだ。ズボンに染みてはおらず、外見からは判別されないのがせめてもの救いか。しかし、匂いで気づかれる恐れはある。

ほどなくやって来たタクシーに乗りこむ際も、そのことばかりが気になった。

6

帰宅後。娘を子供部屋に寝かせ、シャワーも浴び終えた咲美が、バスタオル一枚身に巻いた姿で寝室の鏡台に腰下ろし、髪を梳かしていた折。ふとした拍子に、夫妻の目が合った。互いに何か紡がなければとの想いに駆られたが、しばしの静寂を経由する。そして、先に耐えきれなくなった咲美が、大きく息を吐いた後に口火を切った。

「智は……どんな気分だったの?」

藪沼に触れられるあたしを見て、との冠詞がつく問いであることは即、察せられた。夫の突如の不調の原因がそこにあることも、咲美であれば気づいているはず。

また、先ほど自宅の固定電話にかかってきた通話の内容が、彼女の気持ちを後押ししているだろうことも、想像に難くなかった。通話相手である藪沼が受話器向こうで発した台詞は、『また今度、温泉旅行でもご一緒しませんか』

それは智の立てた筋書きに沿っての連絡に過ぎなかったが、あまりにもタイミングが悪過ぎた。今晩のことを思えば日を改めても良かったはずなのに、藪沼の、気が急いているがゆえの無配慮が裏目に出た。

(咲美は……どうして止めてくれなかった、って怒ってるんだろうか? それとも嘆いてる?)彼女の今しがたの声に抑揚はなく、帰宅してからずっと表情には覇気がない。夫の体調を案じていると言われればそう見えるし、落ち込んでいるとも受け取れた。静かに怒りを溜めていると言われれば、そんな風にも捉えられる。

伴侶の心情が窺えぬ不安から、未だ智は一言も発せられずにいた。

「あたしは……桂子さんが智の手を握った時、すごく腹が立った」

夫の逃げ道を塞ぐように、まず自らの心情を吐露した後。

「智は、どんな気分だったの?」

もう一度、咲美が淡々と最初の質問を口にする。

詰問されているような気分にさせられながらも、先の咲美の素直な告白に釣られるように、智の口からようやく、想いの一端が漏れ落ちた。

「……僕も、ムカついたよ。決まってるだろ。あんな奴に……。正直言うとすぐに石鹸で手を洗ってほしいくらいだった」

咲美が無言で見つめてくる。

「嘘でもなんでもない。今でも嫌な気分だ」

何もかも見透かされている気がして、弁明するように繰り返す。綴ったその言葉には、天地神明に誓って偽りは含まれていない。

「それだけ? 腹が立った、だけなの?」

けれど、咲美は、まったく揺るがぬ眼差しを鏡面越しに注いでくる。消して振り向かない彼女の背中が「洗いざらい話して」と語っている気がしてならなかった。

「……いや」

もう、話す他ないのか。話すべきなのか。

「腹が立って、すごく、嫌な気分なのは、本当だよ……で、でも、また……」

逡巡しつつ口ごもった夫の背を押したのは、「昂奮したの?」

平素に比べて、ずっと低い妻の声音。感情のこもっていない、問いかけだった。

(……言えるわけ、ないじゃないか)

喉を衝きかけた言葉を呑みこんで、鏡台に歩み寄り、妻の背を抱き締める。許しを乞うようにすがりつき、咲美の髪から香るシャンプーの匂いを嗅いだ。タオル越しの愛しい温みと柔らかさに、意識を溺れさせる。

「咲美っ……僕は……」

嗅ぎ慣れた香りに誘われるがまま、愛妻の首筋に口づける。次いで頬ずりし、抱き締めた腕に力をこめることで胸に湧き起こる想いの程を伝えた。

「待って、智」

咲美の声は──冷静だった。

彼女の背に摺りつけていた顔を上げる。すると、鏡面越しの咲美の瞳がまっすぐに見つめていた。一点の曇りもない、凛々しいその瞳に圧倒される。

「隠し事なんか、してないよね?」

火照りだしていた心臓に、冷水を浴びせられたような気分だった。

「な、なん……で?」

狼狽えた声音を発してすぐ、しまった、との後悔が湧き起こる。勘繰られている状況下で、白々しく掠れた返答がもたらされた。その意味に気づかぬほど、咲美は馬鹿じゃない。

「なんでも。ただ、何となく、だよ」

言いながらも、咲美はジッと鏡面越しに夫を見据え、観察し続ける。

またボロが出るのではと思うと、下手に弁明もできず。結局、藪沼宅でそうしたのと同様、無言を貫くこととなった。それが、どのような意味で妻に受け取られるか、わかっていたのに。

長く続いた沈黙を破ったのは、相変わらず感情のこもっていない発音。

「智は……あたしに藪沼と寝て欲しいの?」

心臓が一瞬凍りついた。少なくとも智自身はそう知覚した。

「本当のことを言って欲しいの」

「ほ、ほんとのことってなんだよ、訳わかんないよ」

──ああ、だめだ。また震えている己の声に、落胆する。

「智が嘘ついてるとき、わかるの」

「だ、だから……何が?」

この期に及んで悪あがきをした。それにより、妻の瞳にも落胆が差しこむ。

「本当のこと言ってくれたら、考えてもいいよ」

ドクリ、とひと際高く、智の心臓が跳ねる。強烈な誘引力を備えた彼女の言葉と、鏡面越しの射貫くような眼差しに、これ以上抗うことはできない。

時が止まったかのような静寂を過ごした後。

「ごめん……」

謝罪の言葉を漏らすと、今までの躊躇いがなんだったのかと思うほど、次々に口を衝いた。

始まりが、夜の歓楽街での藪沼との不意の遭遇だったこと。どうしようもない、妄想が浮かんだこと。罪の意識に駆られながら、計画を立ててしまったこと。

カーセックス、カップル喫茶、ファミレスでの会食、藪沼宅での催し。すべてが計画の内だったことまで。

すべてを話し終えた時、黙って聞いていた咲美の掌が振りかぶられた。直後に頬に平手打ちを食らい、ようやく振り返った咲美と直接対面する。咲美の目から溢れた涙が止め処なく滴っていた。

──その後のことは、あまり覚えていない。

咲美は、おそらく一言も発しなかった。無言で涙を流しながら、ひたすら、罪を犯した夫に拳をぶつけてきた。女の細腕とは思えぬ力を延々浴びせられたのに、その痛みを覚えていないのは、強過ぎるショックと動揺に心が麻痺していたからだ。

部屋を飛び出して隣室の智美の部屋に入ったまま、咲美は出てこなかった。

眠れぬ夜を過ごし、明け方近くに夫が記憶を途切れさせたのを見計らったかのように、咲美は娘を連れて姿を消した。

(全部僕が悪い。こうなるのも当然。それだけのことを、しでかしてしまったのだ)悪夢から覚めた気分で悔いてみたところで、すべては後の祭り。しでかした罪が消えるはずもなく、失った幸せが戻るわけもない。

独りぼっちになった自宅で日がな一日立ち尽くした。妻と子を失った悲しみが現実感を伴って訪れた、夜になってからのこと。涙で濡らしたベッドには、まだ妻の香りが残されていた。

ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌 第三章 夫婦交換演習 (3/7)
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