濡木痴夢男は、英文資料では Chimuo Nureki や Nureki Chimuo と綴られることが多い。本名は飯田豊一。一九三〇年、東京・浅草に生まれ、二〇一三年九月九日に八十三歳で亡くなった。昭和後期の緊縛文化を語るうえで欠かせない人物で、多作な書き手であると同時に、写真・映像・実演でも活躍した縄師だった。半世紀を超える活動は、日本の成人雑誌が紙から映像へ移っていく過程と重なる。
「縛られる」という視覚への執着は、浅草での子ども時代に芽生えた。一九三八年ごろ、浅草で女相撲を見て強く印象に残ったこと。一九四〇年ごろには、高畠華宵の絵に出てくる両手を後ろに縛られた少年の姿が、さらにその執着を深めた。戦後は歌舞伎の女形・市川福之助に芝居を学び、東宝でエキストラも務めた。この演芸の経験で当時の芸術の場に触れている。一九四五年から四六年にかけ、浅草や市川などで絵師・伊藤晴雨に何度か会ったことも特筆される。当代の縄師のなかで、伊藤晴雨と直接会ったと名乗れる数少ない一人であり、その美意識の根に古い層を足している。
文章では、一九五三年十一月の『奇譚クラブ』に『悦虐の旅役者』が載っている。一九五七年ごろ、須磨利之(筆名・美濃村晃)と知り合いになった。須磨は当時の『奇譚クラブ』や『裏窓』など初期SM誌の書き手・挿画家・縄手として重要な存在で、二人の交際は濡木のその後の仕事に大きく効いている。のちに濡木は本名・飯田豊一として『裏窓』の編集長を継ぎ、同誌が一九六五年ごろ廃刊する前後まで務めた。「濡木痴夢男」の筆名を初めて使ったのは、一九七三年二月号の『SM Select』。このときすでに四十歳前後だった。
それ以降、七十年代のSM誌に濡木痴夢男の名が頻出する。『SM Select』『S&M Collector』ほか多数の雑誌に短文・小説・脚本を書き、雑誌連載からテレビ、ピンク映画の台本まで手がけた。業界では作品数を二千篇前後と見積もることが多い。正確な統計はないが、「きわめて多い」と言って差し支えない。
文章と並行して、七十年代から縄師としても動き始める。写真、映像、実演がその仕事の形だった。初期の映像会社 Art Video にも作品が残り、日下部正樹監督のドキュメンタリー『縛師』では、記録される縄師の一人として映っている。視覚面では写真家・杉浦則夫と長く組み、昭和後期の緊縛写真にありがちな、一目でわかる視覚言語を一緒に作っていった。
商売のほか、縄の交流と継承にも力を入れた。一九八五年十月二十七日、前身の「杉下直美会」が初会合を開き、一九八六年二月二日に正式に「緊美研」(Kinbiken)と名付けられた。定期的に練縄・撮影・指導を行う団体である。縄の考えかたとして濡木はよく「縄そのものの体験」を言い、複雑な模様の編み込みにだけのめり込まず、縄が肌に触れたときの質感と手触りを見ろ、と説いた。
亡くなったとき、公認の正式な弟子として挙げられるのは主に奈加あきら(Akira Naka)である。奈加を通じて「濡木一流」の縄が継がれた、と場では広く言われる。関連する中国語の「縄師」総論や、日本語の奈加の記事でも、濡木の名は要所で出てくる。のちの研究者が彼の自叙を引くとき、主観に注意し、割り引いて読め、とよく注記するが、それでも日本緊縛史を追ううえでの重要な史料である。濡木痴夢男は、生涯の書きものと実践で、日本の緊縛の流れに消えない跡を残した。
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