変態は承服しかねる 第2部 (2/2)
前の話
とはいえ、伐採されていく森林であるとか、砂漠化していく大自然といったもののように、正常世界は異常世界の取り込みを無制限に許しているわけでもなく、傍観しているわけでもない。
法律や条令、倫理規範によって異常世界の乱開発を防止しているのである。法律は国によって制定されるもの、条例は自治体によって制定されるもの。倫理規範の定義は難しいが、世の中の雰囲気というか多数決というか、そういうもので形成されている。
そして法律、条例、倫理規範を守ることが正常世界で生きるための「社会性」である。
人間は社会的な生き物なので、社会性を本来備えているだけではなく教育によって醸成されている。
変態とはいえ正常世界に生きるからには、この社会性を最低限、持たなければならない。「ねばならない」と記したように、これは必須である。
ところが異常世界では社会性なんてクソくらえ、である。このため異常世界のエバンジェリストである変態の中には、自らも社会性を失う者も出てくる。
当然、社会性を逸脱した変態たちの逮捕や起訴が後を絶たない。下着を盗み、盗撮カメラを設置し、エスカレーターでスカートの中を撮影し……。この間違いない異常さが午後六時のお茶の間に美しい女子アナの読み上げるニュースとして流れ込むのだ。
一般に、この部分だけを「変態」と狭義の意味で考える人も多い。
社会性を失った変態のことである。変態すべてではない。
こういう狭義の変態はしかし、正常世界では頻繁に報道されている。
「逮捕された男は、上履きの臭いに興奮し、やめられなかったと供述……」とか、「スカートの中に興味があった。撮影した動画をネットにあげることが快感だった」「ストレスがあり、ついむしゃくしゃしてやった」などといった変態語録を、麗しき女子アナが読み上げるのである。
「うんこちんちん」はダメだが、この女子アナに変態犯罪を読ませる変態プレイは合法なのだ。いや、正常なのである。
私たちは、こうして正常世界に暮らしながら、「行ってはいけない場所」を眺めている。眺めているだけではなく、間違いなくそこに「行ってはいけない場所」があることを日々、知らされている。
そしてある日、「そこに行ったらどうなるかな」という気持ちになり、危ない一歩を踏み出す者が現れる。無事に生還した人が「そんなに危なくなかった」と報告する。それによって、さらに多くの人が……。
あっという間に、それが法律に触れないことである限り、無数の人たちによって蹂躙されてしまい、「行ってはいけない場所」ではなくなってしまう。
そのとき社会性までも、わずかに拡張されていくのである。
正常性の中に内包される変態
村社会という言葉がある。村は「そこに所属している限り生存権を与えられる共同体」といった面がある。そのため村八分になると生きにくくなるように、設計されている。また村の範囲が限定されているので、境界を越えても村との関わりはなくなってしまう。
法治国家の日本でも、他の法律に違反しない限り、そして公序良俗に反しない限り、村単位の決まり事は自由に決めてもいいことになっている。祭りをどうやるか、いつやるかは、村で決めていい。その決め方も村で決めていいのである。外部の者がとやかく言うことではない。
正常世界も一つの村だとすれば、同じような状況にある。正常世界のことは正常世界で決める。
範囲の中にいる者にとっては、範囲の中で許されているものだけがすべてである。パーフェクトなのだから、なにも変える必要はない。むしろ正常な範囲の中に、さらに純粋に正常な範囲をつくろうとするだろう。小さく小さく、縮こまる世界である。
原理主義というものも、本来はムダな要素を削ぎ落とし、純粋な小さな規範を忠実に守る社会だったのではないか。その勢いが余って、その規範を強要したり、反対する者を殲滅するといった過激な方向へ進んでしまったのではないか。
正常世界からでも、このようにアブノーマルな方向は伸びてる。おもしろいことに、この正常世界の純化による異常世界の出現に対抗するためには、正常世界の外にある異常世界を取り込んでいくしかない、といった事態も起こり得る。
自分で凝りに凝った大好きな部屋をつくったとたん、そこに居たくない、という気分になる。よくあることである。純化してしまった正常世界は、自分をも排除するのだ。
その結果、異常世界へ逃れるしかなくなるのだ。
アブノーマルという概念から常識に則って身を守るためには、よりノーマルなものを見つけて、大事にしたい衝動が生まれる。そうしないと、ノーマルの境界線はあっという間にアブノーマルだったものを飲み込んでしまい、自分の価値観が危うくなるからだ。これは内部に異常世界を出現させる危険性を伴う。
純粋に正常な部分だけで生存できれば、それも一つの選択だろう。しかし人類はそもそもが変態性を内包していることを忘れてはいけない。
異常という未知の世界があるからこそ、正常世界が定義できる。それでいて純粋な正常を見つけるためには、より異常なものを見つけて対峙させなければならない。異常を未知のまま放置しておけないのである。
「外は怖いらしいよ」では、信じることのできない年齢というものがあって、そのとき、子どもから大人になるのだ。『スタンド・バイ・ミー』である。
こうしてより異常なものを探す冒険が繰り広げられる。世に言う大航海時代だ。異常世界を征服したいという本能のようなものが人類にはある。それを崇高な使命にまで高める知恵もある。さらに異常世界に突入するためのツールも開発できる。
その声を聞いたら海に引き込まれてしまうかもしれない人魚がうようよいて、巨大なタコがいて、海坊主がいて、しかも海の端っこは垂直の巨大な滝だというのに、しゃにむに水平線の向こうへ行こうとしたくなってしまう。
すると地球は丸くて、巨大なタコはいることはいるが、それほど恐ろしくもなく、海坊主はいなくて、もっと恐ろしい巨大な波があったりすることがわかり、異常世界は正常世界に取り込まれていく。
発見しちゃうとそれは矮小化され、正常化され自分のものになる。植民地制度や奴隷制度は、きわめて正常な欧米世界から生まれたものであって、未知の世界(この場合は当時のアフリカ大陸など)に存在していたわけではない。
より純粋な正常なものを見つけると、同時により不純な異常が見つかる。そしてこの異常を発見して定義できるのは、正常世界にいる人だけである。
こうした考えそのものに変態性が内包されている。
コロンブスが西インド諸島をインドと勘違いして、トンチカンにも命名してしまうのは、彼が正常世界にいたからで、西インド諸島の人たちは最初からその世界にいたのだから、コロンブスたちにとっての正常世界からは完全に自由な存在だった。
いまでは、発見した側が、発見された側よりも支配的な立場にある、という考え方であるとか、発見した側は、発見された側よりも正常な世界に属しているとする考え方は否定される傾向にある。
しかし、アメリカ人はネイティブ・アメリカンを殺して土地を奪い、スペイン人はインカを滅ぼした。
異常世界と思われた「発見された側」には、なんの落ち度もないのに。
未知の世界、正常世界の外にある異常世界は、正常世界のルールからは完全な自由状態にある可能性がある。だから蹂躙するよりも、むしろ保護し観察すべきであるといった謙虚さが求められるようになって、人類はまだ二百年も経っていない。
この二百年というは、アメリカで奴隷解放宣言をした一八六二年に基づいている。もちろん、この時点では不十分であり、アメリカ先住民について議論されるようになったのは二十世紀に入ってからで、それを考えれば百年に満たないばかりか、いまだに正常世界の外側に対する謙虚さは足りていないとも言える。
人類は変態性を内包するがゆえに、傲慢になりやすいのである。とくに「正常さ」であるとか「正義」を旗印としたときには、傲慢さが正当化されやすい。
傲慢であることは一種の変態性であり、それによって人類はトラブルも抱えてはいるが、ある意味で前進(または後退)といった、とにかくアグレッシブにどこかへ突き進むエネルギーを得ている。
こうすることで、正常世界の正常さが確認されたり、修正されたり、異常世界を正常化して取り込んだりする活動が、より活発になっている。
物わかりのいい人ばかりの世界では、なにも起こらない。そういうものである。
とにかく、この変態的なまでの衝動で、世界が拡がることを知ってしまったとき、人類は禁断の果実、つまり変態を認識せざるを得なくなった。変態は異常世界にいるのだと思っていたら、なんと自分たちこそが変態だと気づいたのである。
あとは変態の度合い、程度の差に過ぎない。
おせっかいな正常化への抵抗
正常世界は異常世界を飲み込むとき、異常世界を支配しようとする。そしてここに、支配し、支配される概念が誕生する。
支配したりされたりという関係こそが、SMの基本構造である。それもまた変態の一形態として知られている。いや、支配する、支配される関係は人間の根本的な行動様式なので、実は変態ではなくノーマルそのものなのだ。
なお、従来のSMはサド・マゾの略であり、Sは加虐的性癖で、Mは被虐的な性癖というのが一般的になっていた。
だがここにもグローバル化の波が押し寄せている。
現在はBDSMというのが国際標準となっている。
Bはボンデージ(Bondage)。拘束すること。
Dはディシプリン(Discipline)。調教すること。及び、ドミネイション(Domination)、支配するという意味も含まれている。
Sは従来の意味のほかに、サブミッション(submission)、服従という意味も持つ。
Mも従来の意味のほかに、マニュピレーション(Man ipulation)、操作するという意味も持つ。
面倒な時代になったというなかれ。異常世界だったものが正常化されていくときには、必ずつきまとう分析・分類・定義といった洗礼を逃れることができないだけのことだ。
正常化とは、必ず定義されて、分類されて辞書に掲載されて引き出しに入れられていく。私たちもマイナンバー制度によって、より強固に正常化される。
BDSMやSMが正常化されていったために、極端な形での支配、理不尽なまでの支配、さらにそれと性的な興奮を組み合わせたときに、変態度がいっきに増していくのであるが、それさえも正常世界での変態性になってしまった。
ただし、BDSMは性的興奮と切り離すことはできないのだが、変態と性的興奮は切り離すことができる。冒険に乗り出すことは変態性のなせる技だが、それによって冒険者たちが性的興奮を得ているという確証はない。
正常世界は異常世界を支配して正常化することで、自分たちの領土を拡大できる。さらに、自分たちの中に異常を取り込んでしまう。
ノーマルはアブノーマルを飲み込んでしまわなければならない宿命を持つ。アブノーマルを最初に飲み込むのは変態的な行為である。
こうして、正常世界を維持・拡大するためには異常を支配するという変態行為が常套手段になってしまう。
支配する側からすれば、正常な行為としての変態行為であり、異常を正常にすることが支配の意味である。
そこに性的興奮があってもなくても、行動には大きな差はない。支配の本質は同じである。
支配される側からすれば、異常な者たちによって支配されてしまうことで自分たちがいっきに変態性を自覚させられることになる。
そう、これは「発見される側」と同じだ。
ここで意識は大きく変わる。
支配側は自分たちの変態性に無自覚で、支配される側は否応なしに変態性を自覚する。
このギャップこそ、SM、BDSMの基本構造と通底している価値観であり、私たちが生きている社会の構造である。
正常世界の人間からは異常世界の自由は理解できない。もし、きっぱり世界が正常と異常に分断されていたとしたら、純粋変態性理論が意味を持つかもしれない。
正常だけの世界には純粋な正常な理論があり、純粋に変態な世界には変態理論があるわけだ。
だが、現実は違う。
正常世界と異常世界は、きっぱりと分かれているわけではない。だから割り切れない。このため正常と思っている人たちも、変態を意識しなければ正常を保てないことになってしまう。
もしみんなが正常に生きようとしたら、自分の中の変態性に向き合うしかないのだ。
この変態性は、人の立ち位置によって変化するため、相対性変態理論が成り立つ。
ゆで卵のように、白身と黄身がはっきりしているのならまだしも、たいがいの事象は境界が曖昧である。いわゆるグレーゾーンがある。「正常とは言いにくいけど変態呼ばわりはかわいそう」というジャンルである。
誰しもが「変態」と認める存在でさえも、実は曖昧なのである。
「そうでもないよね」と言われてしまったら、変態性はいっきに薄まってしまう。
たとえば犯罪でも、下駄箱から上履きだけを盗むとしよう。一足は「魔が差した」。二足は「変態っぽい」。三足を超えたら「変態」。じゃあ、三十足を超えたら?
要するになにが言いたいかといえば、一足でも三十足でも、その冒険に駆り立てる変態衝動は、誰にでもあるということなのだ。
異常世界は正常世界から見れば、アウトサイドであり、アウトサイダーたちは変態という判定をくだされるのだが、実はその変態性は正常世界にも存在していることなのである。
ただし正常世界の人がそれに気づくためには、異常世界に踏み込むしかない。
そこにある正常な異常
秋葉原に行くのは正常な行為。メイドカフェは正常な行為。JKお散歩は正常な行為。そのJKを金で買って淫らな行為をしようというのは変態、というわけではない。まだ正常な行為だ。
なぜなら、そこには理屈がしっかり成り立っているからだ。少なくとも対価としての金銭の授受が成立している。こうしたサービスを金銭的な価値に換算する倫理性については、いまさらここで指摘することではない。人類が文明を築き、貨幣経済が定着してからずっと議論されてきたことである。
しかし一般的には「なんたらカフェでJKを買った」といった事態は、「変態行為」と表現される。エスカレーターで、JKのスカートの中にスマホを突っ込んで撮影したら、「変態」である。いやらしい目で彼女を見ただけで「変態」と言われかねない。
こういう曖昧さ、適当さが、変態を正常化していくステップとなっている。
これが、JKを金ではなく、フェロモンかなにかで誘い出し、ハメルンの笛吹きのように誘惑しメロメロにするとなると、かなり変態になっていく。おまけに、メロメロになったJKたちは、楽しそうに歌い、踊るのである。性的な行為はゼロ。条例にも違反しない。きわめて正常な行為のように見えて、常識を逸脱している。
もしこんなやつがUDXの広場にいたら、それこそみんなで「この変態野郎!」と叫ぶべきだろう。ところが、このように未知の世界に触れたとき、人は正常世界の言葉を失ってしまうのである。
「なにやってんの?」
「なんか、宗教じゃね?」
「フラッシュモブかも」
まあ、こんなものだろう。そこにこそ変態があるのに……。
たとえば、ギターをかき鳴らしているストリートミュージシャンが人気になり、JKたちが群がっていくとしたら、それを変態と呼ぶ人はいない。
音楽はOKなのである。ただし、このようにJKを釣っておいて、そのままホテルに直行して淫行に及ぶと条例に違反したりする。
ただし、そのホテル内で変態的な行為をしなければ変態とは呼ばれない。
変態的な行為とは、正常な性行為から逸脱した要素が入ることだ。
ところが先にも記したように、いまでは「正常な性行為」の定義がきわめて不安定化している。誰にとっての「正常」なのか。JK側としては「これが私にとっての正常な性行為」という基準があったとして、予めそれをお互いに摺り合わせることなく、一方的に「おれ様の正常な性行為」を押しつけると、変態行為と誹られてもしかたがない。
こうなると、いまの時代では、怖くて正常な性行為もできない。だから少子化なのだ、なんてふざけたことは言わないけども。
変態というものは、正常な世界でつくられたものには一切、縛られない。おそらく、「そんなことをしてなにが楽しいんだ」と正常世界の住人が言うようなことをすることを変態は含んでいる。
だからといって、人類は変態性を内包しているので、もともと持っている要素である。そしてTPOを間違えなければ許される変態も含まれるのである。
しかし私たちは、しばしばTPOを間違えるのである。
お金で性を売買するような行為は単なる資本主義にすぎず、資本主義は正常世界である。変態は爪の垢で性を提供したっていい。「そんなことでするのかよ!」と思ってもらってけっこうだ。
だって、変態だから。
いや、それでも目的が単純な性(セックス)の場合はまだ正常かもしれない。常識を超えていく自由とは、正常世界の住人には理解できない快楽にふけることである。
ところが、先人たちによって異常世界が拡張されていくにつれて、正常世界も膨張していく。
私たちの住む銀河系は毎秒六百キロ移動しているという説がある。膨張する宇宙だ。つまりこの世界は、もともと自分たちのいる場所から遠ざかる運命にある。
このように正常世界の中心にある純正常世界から、私たちは高速で遠ざかる。異常世界を取り込みながら、変態化していく。
この意味で結末がメチャクチャになっていく『
宇宙家族ロビンソン
』のように、または同様に誰も結末をよく知らない『タイムトンネル』のように、さらにはなにも未来を予見していないかのような未来を見せた『未来世紀ブラジル』のように。はたまた、コーエン兄弟の『ファーゴ』みたいにリアルな混沌の中での幸せのように。それとも『ONCE ダブリンの街角で』的ななにも起こらない事件のように。さらには『第9地区』みたいなエンディングが、『ET』みたいなエンディングをぶっ飛ばしてしまったように。
膨張と拡散によって、密度はどうしても低下していってしまうのである。
しばらくはそれに気づかず(フラッシュモブだぜ)、かなり時間が経ってから変態らしさに気づくことになる。
「あれ? 変態じゃね?」
もっともそのときには、さらに新たな変態世界に突入してしまっているのであるが、まだ誰もそれに気づいていない……。
金銭を目当てに体を売るのは犯罪行為である。世の秩序のために必要な法律によって規定していて、別に変態だと断定しているわけではない。
その意味で法律は変態を取り締まっているのではない。変態防止法は存在していない(いまのところは)。変態に「いい変態」と「悪い変態」がいるわけではなく、「法律に違反している変態」と「法律の外にいる変態」がいるだけである。
これをもって、法律に不備があるといきまくのは間違っている。世の中は、法律ですべて規定するわけにはいかない。みんながトイレでなにをするかまで、規定することはできないのだ。また、してはいけないのである。もし世の中がそうなったら、膨張は停止し、急激に冷え込み、収縮が始まる。
収縮による犠牲者は計り知れない。膨張時には空間がいっぱいできるので、犠牲者は少ない。だが収縮はマズイ。大量の犠牲を伴う。そして最後にはブラックホールとなってしまう。
滲み出るフェロモンで女子を誘惑して踊り狂うのは、なんだか変態的だ。まして爪の垢と交換なんて異常すぎる。
そこまで言っておきながら、これは外観的には通常の恋愛と同じ手続きである。
好きな相手とセックスするのは、成人したばかり者は法律で規定されているが、成人はOKだ。むしろ少子化対策として推奨されるべきだろう。子作りはOK。セックスはNGという線引きはムリである。
そのきっかけとなる部分が、フェロモンだろうと、爪の垢だろうと、ダンスだろうと音楽だろうと、なんでもいいのだ。
もっとも変態的な交接は、お見合いだろう。相手の情報で結婚を判断する。結婚を決めてから欲情し、セックスする。うーん。悪くはないが、だからといってそれがすべてとも思えない。
もちろんお見合いは出会いに過ぎないのだから、そこがどれだけ変態的でもかまわないのである。合コンでもいい、飲み過ぎてトイレで吐いているところを助けてもらってもいい、ストーカーかと思ったらいい人だった的なものでもかまわない。
学校で出会う、バイト先で出会う、会社で出会う、取引先で出会う、知人の紹介で出会う、偶然出会う、SNSで出会う、援交で出会う、路上で出会う、痴漢されて出会う、犯罪行為で出会う、などなど、出会いの場はなんでもいいのだ。
ご存知のように秋葉原にはアダルトグッズを売る店がある。路面店である。JR駅からすぐである。とっても正常な世界の中にあり、そこではレジで買い物ができる。SM用品もある。鞭でも蝋燭でも浣腸でも。お好きなものをお好きなだけ。
こうなると、もはや鞭や蝋燭や浣腸は変態とはいえない。ほぼ正常な範疇に入る。コンビニに置いていないのが不思議なぐらいだ。
それらの商品には正札が貼られ、バーコードが設置され、在庫が管理され、売り上げが記録され、税金が申告され、スーパーやコンビニと基本的には同じ商業を営んでいるのだから。
こうなると、SMを変態だとは決めつけにくいのである。単なる嗜好である。
そこに愛があるのなら、正常な営みである。同性愛もいまでは認められつつあるので、あらゆる組み合わせが、愛を前提にすると正常な行為となっていく。
「おまえは、お父さんとお母さんがSMプレイ中にできたんだよ」
「そうよ、お母さんはお父さんと出会い系で知り合って、何度かプレイして気心が知れて、結婚したの」
そうは言わないとは思うが、実際にそうだとしても不思議ではないのだ。
赤い糸で結ばれていたのではなく、丈夫な縄で結ばれていたということもあっていいのである。
ただ成人したばかりや児童は保護されるべき存在なので、社会としてそこに手出しをしてはいけないルールとなっている。また意思表示ができない人間以外の生物も保護されるべき存在である。
この禁を破れば、それは法律違反である。
だからといって、法律違反が全員、変態ということではない。
変態も生殖のためにセックスをする。だって生物なんだもの。生きているのだから、する。いろいろな刺激や快楽がそこに付随する。
そうなのだ。おわかりのように、愛が最終目標となったら、それはもう変態ではない。正常な行動の範疇である。それを他人に見せる、野外でやるといった、ちょっとばかりヤバイ行為として楽しむとしても、それは正常世界の法律に触れる行為ということを除けば、きわめてまともな行為だと言えるだろう。
「あなたのお父さんは、お母さんの目の間に、下半身を丸出しで現れたのよ!」
とても話が早い。
「おまえの母親は、お父さんと最初のデートのときにパンティを履いていなかったのさ」
早い者勝ちである。そしてアメリカンジョークだ。
人間も生物である。生物の多くは野外で生殖行為をする。電気を消したりしない。パンダのように行為が世界中に動画で配信されるケースもある。だが社会的な人間としては、そのような生物的な快楽は、慎むべきなのである。
人間は社会性を重視するからだ。社会性の一部が法律となり、条例となり、倫理となる。
ここまで考えて、みなさんも混乱しつつ、お気づきのことと思う。
困ったことに、変態は逸脱し続けてもなお、正常範囲の拡大が追ってくるため、変態であり続けることはきわめて困難になってしまうのである。
たとえば愛し合う者同士が公園のベンチで抱擁するのはいいとしよう。だが、服をそのあたりに脱ぎ散らして生物的な行為に及べば法律違反になる。わかっているはずなのに、そういうことをするとすれば、異常である。
「愛し合ってるのに!」
正常世界には、このようにすぐ近くに異常世界が待ち受けている。
「もう、こうなったら死んでしまえ!」なんてことをしでかせば、これまた立派な正常行為である。人間は自分で死ぬ権利を持つ。これは法律で決めているのではなく正常世界の不文律である。どうしてかといえば、自殺した人をいくら罰しても、どうにもならないからだ。
変態を罰すると喜ぶかもしれない。こうなると罰を与えるだけ喜ばせることになりはしないか。この点は別の考察が必要だ。
話を戻そう。
変態だと思っていたら、正常だった。こんな事象が歴史的なスケールでは起きている。つまり正常化されてしまったら、それは変態ではない。
じゃあ、どうすれば変態でいられるのか。残念ながら決定打はない。大きな自己矛盾を抱えているからだ。
「変態は正常から逸脱した異常世界」を求めるのに、「未来の正常世界は過去の異常世界を飲み込む」ので、同じことをしていたら変態ではいられないのだ。
膨張する宇宙に合わせて秒速六百キロで走り続けないと、変態として留まることができない。
変態は変態からも逸脱しなくてはならない。「現在の変態」は「明日の正常」なので、「現在の変態からいち早く逸脱する」ことが変態であり続けることになる。変態は常に逸脱し続けなければならないことになってしまい、これはもはや変態行為をする暇もないほどなのだ。
変態は自由である。しかしその自由を守るためには、努力し続けなければならない。それを放棄した瞬間、正常という烙印を押されてしまうのだから。
さあ、あなたは変態として死にたいのか。それとも「やつも、結局はフツーの人間だったな」と言われて死にたいのか。
変態についての考察はまだ続く、かもしれない。
Q 夫が変態に走っています。妻としてどうすればいいでしょうか?
A 妻としてはついていくのが正解です。変態は走り続けなければ変態を維持できません。いずれ走れなくなって、変態をあきらめるか、その前に死ぬと思います。いずれにせよ、妻としてはついていくのが得策です。できれば一緒に変態になってもいい。もちろん、ならなくてもけっこうです。
Q 変態は治りますか?
A 変態は病気ではありませんから治すことはできません。
人類は変態性を内包しているので、それは腸内フローラの細菌のようにいっぱい体内にあるものの、通常は善玉変態菌のように振る舞うので、気にすることはありません。むしろ変態性はエネルギーの源泉でもあるので、生きている実感を味わいたいなら、大切にした方がいいでしょう。
Q 変態と変質者の違いは?
A 変態は必ずしも法律に違反しているわけではなく、社会性もある場合がほとんどです。変質者は社会性が欠如しているか、あるいは意図的に法律を破っているか、または法律に無知なのです。
このため変質者は逮捕されやすく、変態はどこにいるのか見つけにくい、といったことも起こります。
Q とんでもない変態になりそうで怖いのですが、どうすれば社会性のある変態になれますか?
A 今回は詳しく触れませんでしたが、変態性の露見は個体差が大きいので、あなたがどの程度の変態性を備えているのか、そしてそれをどのように発露しようとしているのかにもよります。
ただ「とんでもない変態」という予感は、内面の奥深くで虎視眈々と待機しているマグマのように、いずれ爆発したり、流れ出すと思いますので、それに備えておくことは必要なことです。
よくある方法は、「私は変態だ」と先に触れ回っておくこと。まだそれほど変態ではない時期には有効です。
次に社会性を脅かすほどの変態になってきたときは、もはやあきらめて、変態として生きるのです。その方がいい人生をまっとうできるのではないでしょうか。
自己の内面にある変態性を抑圧することで、どのような悪影響がもたらされるかはわかりませんが、きわめて危険なことだと予見することは可能です。
変態を小出しにする技術を覚えること。変態を良性のエネルギーとして発散する技術を覚えることも大事です。なお、趣味を持つことが有効という話もありますが、その趣味がまた、周囲に大いに迷惑という場合もありますので、趣味と社会性についてはよく考えておきたいものです。
なお最後に付け加えておきますが、変態はかなり無責任なので、変態に相談することは危険です。
あとがき
著者はなにも、みなさんに変態になることをお勧めしているわけではありません。
また、人の生き方として、正常世界を否定して、異常世界に足を踏み込むようにと鼓舞しているのでもありません。
さらに社会性を損なう行動を取ろうとか、法律を無視しろと言っているのではありません。その逆です。
社会性のある変態こそが、未来を拓くのです。
正常で生きようが、異常で生きようが、人間はわずか百年ほどの時間をこの世で享受できる可能性を得ているだけです。
その限られた時間の中で、自分らしく生きる、または自分にしかできないことをまっとうする、そういう人生を実現したいのなら、内に秘めた変態性に目を向けて、それをどうパッションとして生かすか、考えてみてはいかがでしょうか。
本書が多くの人の勇気と力と諦念そして思い切りに役立つことを願っております。
著者について
あんぷらぐど
SM雑誌に「仲ゆうじ」名でSM小説を執筆して作家活動をスタート。その後、作家活動は休止し、編集の仕事に携わる。二〇一一年より独自レーベル「荒縄工房」を立ち上げる。オリジナル作品をブログにほぼ毎日書き続け、それをPDFで販売。さらにアマゾン・キンドルストアで電子書籍化している。
SMに代表される支配する、支配される愛の表現を追求すると同時に、昭和のSM文化を大切にしながらも、作品は従来のSM小説にとらわれないエンターテインメント世界を目指している。東京在住。
奥付
お読みいただき、ありがとうございました。
二〇一五年八月刊行 第一版
著作権 あんぷらぐど(荒縄工房)
ブログ「今日も上機嫌ってわけないだろ」
http://blog.livedoor.jp/aranawakoubou-jump/
変態は承服しかねる 第2部 (2/2)
前の話


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