変態は承服しかねる 第1部 (1/2)
次の話
ご注意!
本書では著者はまじめに考察しています。
変態性性欲や犯罪行為を推奨しているわけではありません。犯罪行為としての変態行為は法律やモラルに反する行為であり、常識をわきまえた人間であるなら、やってはならないことです。
被害者の気持ちもわからないような人間になってはいけないのです。
同時に変態だからというだけで、不当な差別をするのもよくないとも思っています。たとえ変態だとしても人権は守られるべきです。
また、著者は自分では「まともなことを言っている」と思っていますが、世の中的にはそうでもないことを失念しているときがあり、常軌を逸した論を駆使し、ロジカルシンキングを無視していることもあり、きわめて読解しにくい、理解に苦しむ表現があります。これは誰のせいでもなく、すべて著者のせいです。
とはいえそれなりに表現に気をつけてはいます。特定の人や団体を誹謗中傷するつもりはありませんし、傷つける意図もありません。もし、そう感じられる場合は本書を読むことをただちに中止して、忘れていただければと思います。
はじめに
これは「痛い書」
日陰でコソコソしたい
変態と呼ばれたいか?
変態、いいね!
変態への道
羊をめぐる変態
変態は自由だ!
どこまで変態で、どこまで正常か
行っちゃいけない場所
変態と社会性
正常性の中に内包される変態
おせっかいな正常化への抵抗
そこにある正常な異常
質問コーナー
Q 夫が変態に走っています。妻としてどうすればいいでしょうか?
Q 変態は治りますか?
Q 変態と変質者の違いは?
Q とんでもない変態になりそうで怖いのですが、どうすれば社会性のある変態になれますか?
あとがき
著者について
奥付
はじめに
なにをバカなことを言っているのか。
それが本書の主なテーマである。まったくもって恥知らず。タブーなき性愛の追求? 支配する愛、支配される愛?
たしかにそれはロマンでありファンタジーだ。
しかもこの著者はそういうタイプの作品(お下劣なので読まない方がいい)ばかり書いている。生きている限り、これからも書くらしい。迷惑千万である。
このような、サブカル的な存在のようでいて、むしろアングラというか、底辺というか、石をひっくり返したらそこでコソコソしているような輩は、理屈をこねるのが好きである。理屈でもこねないと、陽の当たらないところに棲息する意味が見いだせないからだ。
かつて、ウディ・アレンが東海岸から西海岸に行く男の映画を撮ったが、あれだけ理屈っぽかった主人公(アレン自身が演じている)も、西海岸の強い陽光の下では理屈が通じないことに気づく。
明るいところでは理屈はあまりいらないのだ(東海岸が暗いというわけではないけど、西海岸ほど明るいわけではない)。
陽に当たると死ぬから、暗くてじめじめしたところにいる。もはやそれが理屈である。
というわけで、変態は理屈が好きなのだ。ただし理屈好きが必ずしも変態ではない。以下、逆は成立しない話が多いので注意深く読み進めていただきたい。
これは「痛い書」
もっとも理屈なんてものは、ほとんどが生きていく上では不要なもので、石の裏側でぶつぶつ言ってるやつには、一言で片付けることもできる。
「死ね!」
ふさわしい言葉である。
でも死なない。
逝
きたいというよりも生きたい。そんな意識すらなく、死にたくない。死なないようにするので、結果的に生きているのである。
しょうがないじゃないか、生きてるんだもの。
この本は、その意味で「
屁
理
屈
」の本である。著者は基本的にエロ小説ばかり書いているのだが、本書には一切、エロはない。十八禁ではない。二十一歳未満で読むことを推奨はしないが、読めるものなら読んでみろ的な、著者のはじめての一般書である。日陰者が日向にこそっと手をのばしたのである。卑しく、さもしい行為である。
しかもテーマは「変態」だ。
これを陽の当たるところに出せば、「いい意味でのヘンタイ」という表現になるだろう。著者はもちろん、そんな意味で語っているわけではない。
本書での〝変態〟は、文字通りの変態であり、いい意味でも悪い意味でも〝変態〟としか表現しようのない存在のことだ。
その上で、変態の存在意義、変態であることのメリットを、屁理屈で展開しようというのだ。
実は変態をどれだけ擁護したところで、それほどの意味はないのである。意味のないことを、こうして公然とやってみることが、そもそも変態ではないか。
その点では著者の変態性の一面を垣間見ることはできるだろう。
ああ、そうなのだ。そんなものを垣間見ても、なんの得にもならないのである。
この全体としてのメリットの薄さ、むしろダメージの多さ、これを業界では「痛い」と表現するのだが、まさにこれは「痛い書」、「痛書」である。イタメシの類語である(ウソ)。
そもそも自虐的快楽の作品も多い著者なので、もしかすると、このような「痛書」を捏造する行為が、快楽になっているのかもしれない。そう思うと、読者はさらに気持ちが悪く、読むことで、著者の変態欲求を満たす行為に荷担することになりはしないかと、正直、いやになる。
変態は伝染しないと思うので、最後まで読んでもたぶん、大丈夫なはずだとは思うが、保証はできかねる。
日陰でコソコソしたい
嫌われてもいい、好きなことができさえすれば――。
日陰でコソコソしているヤツらしい発想だ。著者はそんな発想が大好きである。本書はそんな発想から誕生した。
ちなみに本書は、おそらく世界でもっとも「変態」という言葉を多用している点で、記録的である。ギネスに載せてもらいたいほどだ。
なお、ブログに書いた原稿を、大幅に修正している。いまさら修正したところで、よくなるわけもないのに。いやむしろ痛みが増すだけなのに。傷口にハバネロをこすりつけるようなものなのに。修正というよりは醜悪なのに。修悪と変換すべきか。すべきではないか、迷うところだ。というようなことを書き込むのも変態ならではだろう。
さらに、これだけではボリュームが薄いと気づいたのだが、「薄くてもいい」と変態的な決断のもと、中身と文字量ともに薄いままで出すことにした。薄いからといって無精子とは限らないのである。
おまけに「コミPO!」に申し訳ないことに、そのキャラを変態的に挿入して「かさ増し」するのである。このマンガがまったく意味を持たないのは言うまでもない。宝の持ち腐れ。贔屓の引き倒し。屋上屋を架す。
そうそう、ここで気づかれたと思うが、当初は客観的な文章のようだったこの「はじめに」(えっ、まだ「はじめに」なの?)は、もちろん主観的に書いているのであって、自虐的変態の著者、つまり著者が自分なりにこの本の利点を列挙し、どれだけ苦労して書いたかを表現すべきところを、存在のすべてを否定する立場から書いてしまっているのである。
結論から言えば、あらゆる変態は否定されるべき存在である。それなのに、変態は死なない。
ところで、否定から生まれるものなど、あるのだろうか。
それは著者自身もわからない。
変態と呼ばれたいか?
かなり昔、『ヘンタイよいこ新聞』というのがあった。詳細はウィキペディアに書いてある。
最近、ある高名なコンサルタント(女性)が、「ホントに私たちってヘンタイですよねー」と話していて、ツイッターでもその通りのことを書いていた。すると彼女を知るコンサルタントやクライアントたちが「我々はみんなヘンタイだから」と返していた。
ヘンタイと変態はたぶん、違う。
だが、変態の認知度は高まっている。世間に認められてしまうかもしれない。同性愛や女装といった話と変態は違うというのに……。
時代が変わりつつある。このままではこの波に、変態クズ野郎が飲み込まれてしまう。石がひっくり返されたとき、その下でしか生きられない者たちは干からびて死ぬ。その前にあがいてみなければならない。
著者は焦った。
「変態が変態じゃなくなる! そんなこと、許されていいのか。たしかに日本語に限らず、昔の悪い言葉が、いい意味に転換するケースは多いけど、〝変態〟までいい意味になっていいのか」
変態という存在を、著者ほど愛してる者はいない。変態になってしまうか、変態を拒絶するかという二者択一ではなく、著者は変態の存在を最大限に認めるという偽善的な発想を持ち、そして石をひっくり返してみるのである。もちろん、生態系を乱さないように、すぐに石は戻してあげるし、土足でそこに踏み込むようなことはしない。
変態、いいね!
変態ということがわかったときに「いいね!」する。その思いが、本書である。「変態は承服しかねる」のである。ストレートな世界には常に懐疑的で屈折しているからこその変態なのだ。承服しかねる、というクソみたいな言い回しをあえてするのも、変態ならではの屈折ぐねぐね表現である。
お天道様の下、表通りを歩いてどうするんだ。マジでガチでヤバイ。それもいい意味のヤバイではなく、元祖のヤバイ意味でのヤバイである。
そして、先の例。ビジネスパーソンが口にするカタカナの「ヘンタイ」は、著者が思っている変態とは違うようだと思い至る。
なにしろ「ヘンタイ」はさんさんと降り注ぐ紫外線の下でも平気でいられる。そのヘンタイ性には裏表がなく、表から堂々と「私はヘンタイ」と看板を掲げている。
一方で、変態は裏側でコソコソしたい。紫外線はゴメンである。月光でも充分だ。真っ暗でもいい。その存在を知られないままで多くの人たちが、平穏無事に人生をまっとうしていただいてかまわない。
自分で自分のことを変態だと言うのはかまわないが、見知らぬ人から「おまえは変態だ」と言われたらケンカになる確率が高い。
それがこれからは、知的さを売りにしている人たちの間では「そうなんだよ、オレ、変態なんだよなあ」「あなたもなの?」と明るく会話するのだろうか。
それは、変態として避けたいことではないか。
変態の権利を主張する気はサラサラない。国会で変態の法制化を論じる気もない。そういう表舞台から見ると、存在しないことになっていることに、むしろ清々しいまでの快感を得るのが変態の真骨頂かもしれない。
だが、こんなものを書いているのだから、著者自身はヘンタイと変態のハイブリッドなのかもしれない。どっちにしろ変態だけど。
変態小説歴の長い者としては、いまさら「オレは変態じゃない」とは言いにくい。しかし「あんぷらぐどさんって変態ですよねー」と言われるよりは、「あんぷらぐどさんて、案外、フツーですよねー」と言われる方がホッとする自分もいる。
それがこれからは、「いやあ、変態なもんですから、大目に見てくださいよー。二つで充分ですよ」とでも言うのだろうか。
変態への道
著者のごとき大甘な変態は、変態レベルでいえば下の下であり、大した変態ではない。どちらかといえばフツーである、というのは妙に安心する評価なのだ。
先の図で言えば、「変態を知ってる」ところに過ぎない。この図の左側は正常であり、右へ行くほど変態になっていく。
具体的には「魔が差した領域」からすでに変態である。このため多くの人が「変態!」と罵られることになる。それでも、ちゃんと話をすれば、理解や同情や憐憫を得られることもある。
それよりずっと手前の「変態を知ってる」ぐらいの状態。ここをワンブロックで表記しているのだが、この中はさらに細分化されるだろう。それは、「好奇心と探究心」の度合いに比例する。
本書を読んだぐらいでは、ほとんど変態ではない。知的好奇心をくすぐられた程度で、大したことではない。そこから他書を読み始めたり、著者のヤバイ小説類を読み込むようになると、かなり右側へズレていくことになる。
さらに探究心が覗き趣味的になり、変態を直接観察しようとなれば、変態度はかなりアップする。
それでもこの
範
疇
に留まる限り、あなたは正常世界の住人である。
注意したいのは、このブロックに踏みとどまることができず「魔が差す」ことである。
それは変態的な出し物を中心としたフェスに参加するぐらいなら問題はないのだが、なぜかフェスの出店者側に参加するといった行為である。
客席にいれば正常世界。舞台に上がれば異常世界。これは人類にとって大きな飛躍である。
当然ながら〝変態〟というだけでは舞台には上がれない。むしろ引きずりおろされる。
正常世界を突き抜けての〝変態〟でなければ、見せる側として受け入れられることはない。これは、盗賊が〝大盗賊〟となれば、小説や芝居の題材にもなることに似ていて、いわば〝大変態〟になる必要がある。しかし、本書ではあらゆる変態を〝変態〟として表現することを基本としているのと、大小で区別することは本質を見誤る恐れもあるため、〝大変態〟という言葉は基本的には使用しない方向だ。
ここで言えることは、〝変態〟であっても、ある意味で優れた正常世界の住人(私が嫌いな言葉を使えば「常識人」)であることが、より活動の場を拡げることになるし、受け入れてくれる場が増えるだろう、ということ。
魔が差しただけの変態なら、目が覚めたところで正常世界へ戻ることも可能だ。この境界線上に踏みとどまっている、つまり「たまにバカやっちゃうんだよね」という段階なら、まだ変態度は低い。
この先は、危ない。「軽度の犯罪領域」とは、条例違反などを含めた世界である。罰金刑、起訴猶予なども含まれる。
本格的変態にとって、もし生きながらえたいのなら、優秀な弁護士を雇うだけの財力を持つか、あるいは法律に精通するぐらいの頭脳を持つべきだろう。
もっとも、「魔が差す」からさらに行動力を発揮するときに、ある程度の理論武装をするはずなので、そうした頭脳を持っているか、持っている人と組むかするはずである。もしそれなしで変態領域に踏み込むことは、高所訓練を経ずにチョモランマに行くようなものであり、耳抜きもできないのにスキューバダイビングのライセンスを取ろうとするようなものである。
もっともこうしたステップを踏まないのも、真の変態の特徴でもある。現在、変態領域にいる人物が、こうしたステップを踏んでいないからといって、誰でもが真似できることではない。運がとてつもなくいい変態かもしれないし、巨万の富を持った変態かもしれないし、絶大な権力を持った変態かもしれないし、友人に恵まれた変態かもしれないのだ。
不用意に近づいても、痛い目に遭うだけだ。
そして痛い目に遭いたい変態も多いため、わざわざ燃えさかる炎の中へ裸で飛び込むような人も皆無ではない。
こうした変態は、無謀すぎてたいがい短命である。
羊をめぐる変態
著者はまだまだ
あまちゃん
である。ヘンタイからも変態からもバカにされる可能性が高い。こんな自分のことを語っても意味がなさそうだが、変態について考える手掛かりとして、自分自身の変態度について洗いざらい、述べておく必要もあるかもしれない。
ズルい女
のようだが、石の縁にいて、周囲が静かなときには日向に出て、なにかあったらさっと陰に入りバイバイするような、その程度の中途半端な変態。それが著者である。まさにフツーだ。
もっともこうしてこれを書いている自分としては、「まだまだオレの本質的な変態部分は誰も知らぬのだ」という虎視眈々な気持ちもある。
「
羊の皮をかぶった狼
」という表現は
陳
腐
だけど、子どもの頃からの憧れだった。
しかし、子どもながらに「狼が先か羊が先か」と考え、一生懸命に羊の皮をつくりはじめていた。まず羊だろう、と考えてしまうぐらいフツーの思考の持ち主だった。
羊になろうとするあまり、狼になるのを忘れてしまっているのではないか。
いまさら狼はムリだ。だったらどうするか。
フリをすればいいのではないか?
結果、羊なのに狼のフリをするような捻れた人間になっていた。狼要素が少なすぎ、ということだ。もっとも、人間は狼要素を剥き出しにすると刑務所に行ったり海に沈められたりしかねない。このあたりは『アウトレイジ』と『アウトレイジ ビヨンド』を参照してほしい。間違っても、『エクスペンダブルズ』や『エクスペンダブルズ2』や『エクスペンダブルズ3』、『エクスペンダブルズ4』『エクスペンダブルズ5』などを参照しないように。
だから、著者のような人間(がいるとすれば)多かれ少なかれ、自分の中の狼を飼い慣らしているはずだ。もし自分の中に狼がいない場合は、いるようなフリをするのだ。
そしてあるときから、この羊の皮は、変態小説を書きはじめた。
その理屈は簡単で、「狼要素が足りないので、表現として狼要素を増加してみよう」ということだったのかもしれない。「ペンネームでの表現者は、狼の皮を被ることができる」という発見をしたのだった。
なお、著者は「変態小説ではない。性愛をテーマとしたエンターテインメント小説であり、性愛には正常も異常もない」を持論としている。
「つまり
あんぷらぐど
の作品に変態は存在しない。読者が求める性愛こそが、いい性愛なのであり、タブーなき性愛をテーマとしている」という。この件についての抗議はあんぷらぐどへどうぞ。
そして創作の思考によって、脳内で狼を飼うことが可能になった。羊の皮を被った狼のフリを、少なくとも表現の上ではできるようになったのだ。
芸は身を助けるのであろう。
変態は自由だ!
もしかして、地球が動いて
んじゃね?と思ったように、変われない自分を隠す新たな石というか皮というか、もはや喩えが面倒になってきたが、とにかくそういうものを新たにトッピングしてみる。こうして「変態な私」が出来上がる。
トッピングは強力である。
とくに、玉子、チーズ、マヨネーズは強力で、もはやその下のものがなんであるかを忘れさせてしまうほどのトッピング力を持つ。
ペンネームは、玉子やチーズ、マヨネーズに匹敵する。
自分は狼ではない。狼要素は「フリ」だけ。羊の皮をかぶってヌクヌクしている。そうして、それほど多くもない狼要素をかき集めて変態性剥き出しにして、全開でバリバリに作品を書いてしまうのだ。
変態性は、大きさではない。小さい
××××
でも、それを出して街中を歩けば立派な変態だ。
大きさや強さだけが問題ではないとすれば、こうした変態にとって、いったいなにが重要なのだろう。
変態も一夜にしてならず。変態も人の子。そういうことに気づくことで、私たちは、そもそも変態は人であることを思い出さなければならない。
羊として生まれた人は、どうやったって羊である。つまり、重要なのは狼部分よりも羊部分ということになってくる。
羊の皮を被った狼であるなら、当然本質は狼なのだが、著者の変態性は、狼は脳内でバーチャルに飼育しているだけで、羊の皮を被った羊である。
つまり素の人間性が、結局、変態のステップを歩まないように踏みとどまり、犯罪に走らないで、フツーの人間として生存せしめているのである。
気がつけば何十年も生きてしまったけども、羊の皮もだいぶくたびれてきている。つぎはぎだらけだ。そして、相変わらず狼は育っていない。永遠の子どもである。
羊の皮を被った狼どころか、狼のフリをした羊の皮被りなのだからしょうがない。自分でもなにを言っているのかわからなくなってきたぞ。
そんなわけで、人から「おまえは変態だね」と言われるのは困る。断じて変態ではないのである。
ステップを踏み出してもいない。
まだ始まっちゃいない
のである。
いまさら狼にもなれず、狼の皮を被った羊としても存在感は薄い。四面楚歌。
大変態にはなれなかった。少々変態であるにすぎず、それはまるで秋葉原の「ラ・ホール」でついつい「少々辛口」を頼んでしまうのと同様、はっきり言ってまるで辛くない。だけど、せっかくこの店に来てフツーはいやだ。辛いのもいやだ。甘口もいやだ。そんな感じ。
「少々変態ください」というわけだ。
本書は変態について書いた本になるはずだ(まだ「はじめに」が終わっていない!)。
それは著者自身が変態ではないことを証明することでもある。もはや、狼を育てるには遅すぎる。だったら羊でいく。羊の皮として死ぬ。死して虎は皮を残す。あんぷらぐどは、薄皮ぐらいしか残らないかもしれないが……。
この本は皮のことを書くのが目的ではない。
変態を書くことで、自分の変態ではない姿を明白にすると同時に、変態への憧憬、変態のすばらしさを考えたいのである。
中にどっぷり漬かっている人たちよりも、ふらりと訪れたアウトサイダーによって、その世界の本質が発見されることがしばしばある。コロンブスが発見するまで、そこはアメリカではなかったのだ。住んでいる人たちは自分たちが先住民だとは思わなかった。
著者はいま、新大陸を発見した。変態という大陸である。変態陸である。情熱変態陸である。広大な母なる大地。マザーネイチャー的変態世界である。
そして、発見するのだ。
変態は
自由だ
、ということを。
どこまで変態で、どこまで正常か
いったん、落ち着こう(やっと「はじめに」は終わっていて、本文になっている)。
変態は自由だ、ということを考えてみたい。
変態とはなにか。辞書を引くまでもなく、ネットで調べるまでもなく、いくつかの定義の中で、ここでは「正常ではないこと」という意味で定義しよう。簡単に言えば「異常」なことだ。ただし、異常世界がすべて変態とは言えないので、逆は真ならず。
本書では仮に、異常は変態を内包した世界としておくので、以後、正常世界に対するのは異常世界となる。
著者は変態だ。または変態でありたい。著者は正常ではない。いや正常でもありたい。そもそも、正常とはなにか。誰が決めるのか。最大公約なのか。平均値なのか。
いろんな疑問が飛び交うことだろう。または最初からそんな疑問は浮かびもしないだろう。一応、疑問に思ってくれた方が先に進みやすい……。
変態は、ともかく「
逸脱
」感がある。
正常
から
異常
へ。
逸脱とは、みんなで仲良く暮らすためにつくられた常識的な範囲を壊すことで、群れから飛びだそうとする試みだ。
もしくは、自分たちがいまいる位置を確かめるために、外から眺めようとする試みだ。
逸脱するためには、いまいる位置から離れなければならない。それは、三十分並んだパンケーキ屋の行列を撮影するためには、列を離れなければいけないのと同じである。鉄道ファンの中でも「撮り鉄」は、鉄道に乗ってしまうと撮れないのでクルマや徒歩で移動しているのである。
店の行列は、不用意に離れると自分の居場所がなくなる可能性がある。撮り鉄はぜんぜん鉄道に乗らないまま一生を終えてもおかしくはない。
逸脱とは、本書で段落ごとに起きている混乱である。それではわかりにくいから……。
「そっちに行っちゃいけないって、先生(とか親)が言ったよ」
でも行く。それが逸脱である。
なにかしら変態的な快楽に突き動かされたり、熱狂的な興奮に取り憑かれたりして、正常世界と異常世界の境界線を乗り越えてしまう。
多くの場合、危険な目に遭い、命を落とすこともある。
衝撃映像、決定的瞬間特集でよく見ることができる。いい写真を撮りたくて後ろに下がったら、プールに落ちる、崖から落ちるといったお約束の光景のように。
「だから言ったのに」的な結末となり、「バカ」となじられることもある。このバカなことを頻繁に繰り返すと変態性が強くなってくる。異常と言うだけでは足りない。もちろん、崖から落ちれば命を落とす可能性だってあるのだから笑い事ではない。
それでもあえて踏み外す。乗り越える。落ちる。登る。はまる。沈む。飛ぶ。
「おれ、変態だから」
そうとでも言うしかなくなる。
この変態としての活動がない限り、常識とされる範囲から逃れることはできず、常識の領土は、拡大できない。
なにしろ自分たちでは、自分たちの立ち位置がよくわからないのだから。位置のわからない連中がどれだけ議論しても、先には進めないのである。
地球は青かった
。だから地球を守ろう、自然環境を破壊していはいけない、おまえら人類のためになにやっちゃってくれてんだよー、戦争してる場合じゃないよ、テロとかしてるんじゃないよ、地球が危ないんだぞ、ストップ温暖化だぞ、という話になる。
現代の常識は過去の変態たちによって、拡大されてきたのだ。正常なだけでは人間は生存できないのである。異常を取り込む力。それが変態パワーだ。
「変態さん、ありがとう」なんて、誰も言わないけど。
もっとも、変態に礼はいらない。
行っちゃいけない場所
この、体毛が他の陸上にいる哺乳類の中でもっとも薄く、走る速度もせいぜい時速30キロ程度という、虚弱体質といってもいい肉体の人類なのに、もっとも成功し繁栄した哺乳類となれたのは、正常さだけでは飽き足らない貪欲さ、異常さ、つまり変態性があったからだと著者は確信している。変態バンザイ!
正常世界という小さな狭い村は、変態によって異常世界を崩して拡張し大都会に発展する。
昨日の異常世界は、今日の正常世界である。
この本にはエロはないが、たとえば「セックス」という言葉を何度叫んでも、著者は正常世界から外に出ることができない。
セックスアピール、セックスシンボル、セックスレスといったことをこれから考察しようとしたら、退屈な日常的でNHK的な世界にどっぷりとはまりこんでしまうだろう。
いまを語るときに「セックス」を抜きには語れない。CMの大半はセクシーである。なぜアイスクリームを食べるのに肩まわりを剥き出しにしたドレスを着なければならないのか。
なぜアイドルは下半身がひらひらした服装をするのか。そして足を出すのか。
女性だけではない。CMで男が見せる目つきは、見ている者を「いてこます」目でなければならない。魅力とはそういうものである。
人が出て来ないCMでも同様である。必要以上に商品をアップで撮る。舐めるように撮る。陰影濃く撮る。広大な大自然の中にポツンと放り出す。過酷な条件下に放置する。すべてセクシーな行為である。
さらに商品名の中にはそもそもがセクシーでしかないものも多い。子どもが好むお菓子にもある。ここで例はあげないが、コンビニで探せばエロいネーミングの一つや二つはすぐ見つかるだろう。
つまりセックスは「いま」なのである。ただし、淫靡、淫らなところまでいくと、さすがに「逸脱したかも」となっていく。
その線引きは女性用下着の宣伝によく見られる。そもそもセクシーさを売りにした下着はもろにセクシーであるが、日常的な機能を売りにしているものは、どうすれば淫らにならずに表現できるかと、面倒な努力をしている。
薄暗いところで美しいモデルが下着になると淫らになっていくが、明るい試着室のような環境下ならそうでもない。スポーティーな美女がブラをつける仕草は健康的だが、Fカップの美女となると淫靡になっていく。
だからといって貧乳にブラをさせるわけにもいかないので、きっと現場では大変な苦労をしていることであろう。
これは私のような変態物書きが、健全なエロ小説を書こうとするかのような困難に通じる。
変態でよく知られる言葉に、サド、マゾがある。サディスト、マゾヒストの略である。どちらも人名由来である。詳しくはここでは述べない。本書は健全な本だから……。
では、サド、マゾは異常世界か。
実は違う。正常世界である。喩えれば、辛さ十倍カレーまでは正常世界だとして、辛さ五十倍カレーが売られている事実とも重なる。
滅多に五十倍を食べる人はいないが、正常世界のメニューになっていて、それが存在してることを多くの正常な人たちが知っている。
ドS、ドMといった表現は、もはや陳腐ですらある。
「ぜんぜん辛くなかったー」みたいなものである。
Tシャツにプリントまでされて店頭販売されてしまったフレーズは、いまや苦笑しか出ない。
さらに「ドSキャラ」といったように「キャラ」をつけると、かぶり物のようなもので、今日はそういう役割なんだね、ということになってしまう。
脱いだり着たりできるお手軽な変身グッズである。
もちろん、異常世界のSとかMはそうではない。簡単に脱いだり着たり、変身したり、やめたりできないのだ。異常世界のことはここでは詳細は触れない。
あくまで本書は健全な視点で描かれた変態本だからである。
ザ・ドリフターズの加藤茶は「うんこちんちん」と土曜日の夜、ゴールデンタイムに叫びまくっていた。「ちょっとだけよ」と和風のストリップをパロディにしていた。その変態性に子どもたちは熱狂したのだが、過去の野蛮な時代の話であって、現代でそれをやれば番組は即打ち切りであり、プロデューサーは打ち首獄門であり、タレントは市中引き回しである。
それでいて、変態性欲的な世界の扉はあちらこちらに開いていて、その多くは成人したばかり者でもアクセスできる正常世界にある。このあたりの事情は腐女子が詳しいだろう。お近くの腐女子に聞いてほしい。
そう、腐女子は正常世界に住みながら異常世界に詳しいという特徴がある。彼女たちは前提として、「自分たちは絶対になれないもの」を研究している。そして向こう側へ行って「なっちゃった」というのはマズイのである。そもそもないのである。
こうしたいわばエバンジェリストというか通訳というか顕微鏡や天体望遠鏡で観察する立場の楽しみは、きわめて正常世界である。
どれだけミジンコ愛があっても、それはかなわぬ恋である。そもそもミジンコは基本的にメスしかいない。この詳しい話もここでは述べない。
世の中は正常世界にいる変態たちの無謀な冒険、偏執的愛情によって、異常世界を少しずつ取り込み、正常化しているのである。
いまやTシャツに文字が並び、バラエティ番組でも用いられ、女優が「私はどちらかといえばドSです」みたいな発言をしても、「ふーん」で終わってしまう。軽い意味でしか使われないし、これを真の意味で解釈してはいけないことになっている。
かつて異常だった世界。正常世界の外にあって「行っちゃいけないよ」と言われていた領域は、村から町に拡大するときに、あっという間に「まあ、昔はダメって言ってたけど、そうでもないよね」的世界になってしまうのである。
変態と社会性
変態は承服しかねる 第1部 (1/2)
次の話
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