ヤブヌマ 侵食されゆく妻の蜜肌 第四章 一度きりの約束で (4/7)
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第四章 一度きりの約束で
1
咲美はスーパーのパートも辞め、都内の実家へ戻ってしまった。
一週間があっという間に過ぎ、十日を越え、そして──秋がやってくる。
張り合いのない毎日を抜け殻のごとく過ごすことには慣れ始めていたが、昼夜に食すコンビニ弁当の味には一向に馴染めないでいる。咲美の愛情のこもった弁当への恋しさを、未だ智は振りきれずにいた。
(もう、戻ってくるはずもないのに)
妻と娘の部屋は、出ていかれたあの日のまま残してある。そこだけ時が止まったように変化のない部屋を眺めるたび悲しみを詰めこまれるのが嫌で、近頃はあまり直視することもない。
(そろそろ……片づけるべき、なのかもしれないけれど)考えはすれども手をつけられない日々が一週、二週と続き──ついに、咲美と智美が居なくなってから今日でひと月が経つ。
この日、智は地下鉄の駅を降りてすぐに、土砂降りに見舞われた。
手に傘はなく、自宅に電話をかけても出る者がいない。近場のコンビニでビニール傘を買おうとも思ったが、雨に打たれたい気分が勝り、濡れながらの帰宅と相成った。
ずぶ濡れのスーツが重たく肩にのしかかる。革靴もぐっちょりで最悪の心地。濡れたくて雨中を駆けたのに、心は晴れなかった。雨天と同様の心模様で、帰りついた我が家の鍵を開ける。そして──。
「パパぁ!」
もう聞けないはずの、鈴音がごとき声に耳朶を揺さぶられた。
背丈より大きなバスタオルを持ってやって来た満面笑顔の愛娘が、一生懸命に拭いてくれる。信じられずに瞬いた目を下ろすと、玄関に智美の小さな長靴と、もう一つ。白いスニーカーが並んで置いてあった。スニーカーの主が揚げているであろうてんぷらの音と匂いが、キッチンから届けられる。
「さ、咲美……っ」
駆け寄るなり抱きついてきた夫に向けて、彼女は「お帰りなさい」と、以前よりも少し陰のある笑顔で応えてくれた。
2
智美が眠った後。居間で、夫婦二人きりで話をした。
「色々考えたの」
口火を切ったのは、またも咲美の方。二人きりという状況がひと月前を想起させたが、今夜は始めから顔を突き合わせている。話題は当然、ひと月前の続きだった。
「ショックだったし、悲しかったし、最低だと思った。顔も見たくないって……」
三行半を突きつけるために、咲美は戻ってきたのだろうか。それだけは耐えられない。しかし、何も言う権利などないのだ。ただ彼女が紡ぐ言葉を聞き逃さぬことしか、今はできない。
「でも……」
大きく間を空けてから、咲美が続ける。
「智のこと、嫌いに……なんかなれなかった……」
「……っ!」
まず耳を疑い、次に安堵、だいぶ遅れてようやく切なさに見舞われる。咲美の頬にひと月前と同じ涙が伝っているのを視認したからだ。
「……咲美……」
ようやくそれだけ絞り出した夫の掠れ声を聞き留めて、彼女が首を横に二度振る。
「でも、このまま前みたいには戻れない。何もなかった頃には戻れないよ……」
表情をまったく変えぬまま、咲美は大粒の涙をこぼし続けた。
「……うん」
当然だ。信頼と愛情を裏切った罪は、それほどに重い。
「一回、そういう智を知っちゃったら、ずっと智がそういうこと考えてるんじゃないかって、疑い続けると思う」
頷く夫を見て、続きの言葉が紡がれる。
「スワッピングとか、あたしはわからない。調べる気にもならない」
咲美の言い分はどれももっともであり、ゆえに弁明の余地もない。
「一つだけ、聞かせて。なんで……藪沼なの?」
わからない中でもこれだけは知っておきたいのだと、彼女は言った。
それは、智がいくら自問自答しても得られなかった答えでもある。
「あたしが嫌ってるから? 嫌な人と寝て欲しいの?」
「自分でも……わからないんだ。何故そんな気持ちになったのか」
もう二度と咲美の前で嘘はつかない。否、つけない。切なる心情に従って、正直に告白する。
「ただ、咲美があんな奴と、って思ったら……どんどん妄想が止まらなくなって」
歪な妄執と、それに伴う禁忌の恍惚。妻子に出ていかれて以来一度も想い馳せることのなかったねっとりとした感覚が一時的に再来するも、憑かれることはなかった。
今は、もっと大事なもの、家族を失いたくない気持ちで胸が一杯だったから。
「でも、もういいんだ咲美……もう」
何もかもなかったことになんて、できやしない。それでも、どこかひずみが残るとしても、咲美と智美と共にこの先も歩んでゆきたい。身勝手なことと知りつつも、想いの丈を擦れ声で綴る。その夫の言葉を噛み含めるように、しばし無言を貫いた後。
「温泉に行くわ、あたし」
妻は、夫が想像だにしていなかった言葉を、震える唇より吐き出した。
「……え?」
温泉。急に何の話をしているのだ。すぐには理解できなかった。
「どうなるかなんてわかんない。怖いし、できないかもしれない。でも、行ってみる」
怖い。なぜだ。いや、待てよ、もしかして──思い当たった途端、怖気が奔る。すがるような目を向けた夫を見つめ返し、咲美が告げる。
「……藪沼に誘われたでしょ。……温泉。智の望みどおり、藪沼に抱かれてみる」
最悪の予想の的中に、全身の血が逆流するような衝撃を受けた。かつてないほどに心拍の乱れた胸が、ギュウっと鷲掴みされたような痛みをひっきりなしに訴える。震えだした膝が、止まらない。
「ど、どうしてっ
!?
」
かつてあれほど望んでいたことであったにもかかわらず、酷く動転し。
「さ、咲美。も、もういい。いいんだ僕は、そんな無理に……」
気づけば必死になって咲美に翻意を促していた。
「できるかわかんない。でも、覚悟はしてる」
咲美の言葉が連ねられるたび、夢であってくれとの願いが裏切られる。
「咲美っ! いい、もういいよっ」
「どうして? 智が望んだことじゃん!」
その通りだ。だからこそ、思った。これは咲美の復讐ではないのか──と。
「もう決めたの。それしかないの」
いくら懇願しようとも、咲美の決意は覆らない。一度決めたら頑として譲らぬ彼女の強情さを知ってはいたが、それでも乞わずにいられなかった。
「僕が悪かったよっ。だから……咲美っ、もう、やめてくれ!」
己の心の在り様も、妻の心の在り様も理解できずに、焦りばかり蓄積されてゆく。
「なんで今さらそんなこと言うの? あたしだって辛いの! このままじゃ、前みたいには無理」
なぜ今さら──その言葉をそっくりそのまま返しても、彼女の決意は翻らないのだろう。それでも、なお乞いすがる以外の手立てが思い浮かばない。
「頼むから……咲美ぃっ」
子供部屋の智美が起きてくるかも──なんて気遣う余裕もなく、気づけば、まるで悪戯をして、母親に許しを請うかのごとく。声の限りにわめき散らしていた。
(僕が、僕が悪かった、だから──)
床に頭を摺りつけてすがる夫を見下ろしつつも、咲美の話は、止まらない。
「智、これは智のためにするんじゃないの。あたしの……ためだから」
その口調は、まるで彼女自身に言い聞かせているようでもあり。
「智はあたしが藪沼に抱かれることを望んだ。それは……あたしを愛してくれてるから……ってことで、いいんだよね?」
即座に首肯する。そこだけは、その想いだけは伝えておかねばならないことであり。伝えることで彼女が思いとどまってくれるのでは、との淡い期待が胸を衝く。
「あたしが汚れちゃっても愛する自信なかったら、そんな計画なんて立てないよね?」
続く言葉によって、淡い期待は露と消え。代わりにドロリと濁った泥を直に塗りつけられているような、不快感が喉にこみ上げた。
(ああ、この感覚は)
このひと月、思い出すこともなかったもの。先ほど一時的に再来するも、振り払えたはずのもの。愛していればこそ、汚れて欲しいと願う、歪の情念。焦燥と占有欲を刺激してやまぬ、汚らわしき妄執。
今も見据えてくる妻の目に、心の底まで見透かされているようで──またも禁忌に魅入られだしている己の心を、もはや認めぬわけにはゆかなかった。
「だからあたしは決めたの。智の気持ちを確かめるためにはそれしかないの。でないと、あたし……智のこと、もう信じられない。……智の愛情を確かめたいの。だから」
もしもこれが復讐だというなら、甘んじて受け入れる。
しかし、咲美は決して復讐など考える女性ではない。だとすれば、彼女なりに真面目に、考えに考えて、固めた決意なのだろう。
(その過程で咲美はどれだけ悩み、傷ついたのか……)すべて察せてしまえる分、余計に辛い。
「ただし、一回きり。最初で最後。それから、智が他の人と寝るのは嫌」
「咲美っ」
何を言えばいいのか、言うべきなのか。ひとつとして思い当たらぬまま、それでも黙っていられなくて妻の名を呼ぶ。
「もう決めたの。わかって、智」
議論の余地はないと、彼女のまっすぐな眼差しが語っていた。そこには、もはや涙もなく。見つめられた夫は、また何もかも見通されているように感じた。
「全部言ったら、すっきりした」
最後に、咲美は本当に爽やかな顔をしてニッコリ微笑んでみせた。懐かしい、その笑顔。もう一度見たいと切に願っていたそれを目に留めた瞬間。堪えに堪えていたものが決壊し、智の瞳から大粒の涙が落ちる。
そうして、人目もはばからず泣いた。やがて涙が枯れ、赤い目で見上げられるようになるまでの一時間近く。愛妻は黙って、震える背を撫であやしてくれた。
3
峡谷を望む宿の大窓を開けると、秋の深まりを感じさせる冷え冷えとした空気が流れこむ。大窓の向こう、三階に位置する客室の外部に設えられた屋根つきの木調テラス。一人で入るのにちょうど良いサイズの檜桶に湯が張られた、各室備えつけの小露天風呂スペースもある、その空間に足を踏み入れて眼下を望めば、宵闇の中、ライティングされた紅葉が鮮やかに浮かんでいるのも見て取れた。
「今度は智美と三人で来ようね」
夫婦二人分の寝床が用意された和室を見回して、浴衣姿の咲美が語りかけてくる。智が答えに窮していると、咲美の表情にも影が差しこんだ。彼女もまた無理をして平素通り振る舞っていたに過ぎないのだと、気づいて一層智の内に苦悶が広がる。
咲美の帰還から、二週間経った、土曜日。一泊二日の予定で藪沼と連れだって訪れたこの旅館で、いよいよ禁忌の妄想が現実のものとなる時が、一つ上の階の藪沼の部屋へ咲美が向かう時間が、刻々と迫っていた。
「咲美、やっぱり僕は……」
夫の躊躇いを見て取った咲美が、身を寄せて言葉を紡ぐ。
「キス、して」
彼女の潤む瞳に魅入られたせいもあり、智の告げたかった言葉は、唾と共に喉奥へと滑り落ちていった。
「すぐに帰ってくる。そしたら、あたしの身体を綺麗に洗って」
揺るがぬ瞳での意思表明を受けて、ひたすらに彼女の、もうじき他人に穢される身体を抱き締める。
(どうして。どうしてこんなことに)
──すべて、己で撒いた種。成るべくして成った状況だ。
悔いる一方で、もう一人の己が囁きかける。
(咲美の愛を失うのが怖かった。咲美の決意を思えばこそ、止められなかったんだ)──否。禁忌の妄執が現実となる、そのことを恋い焦がれているからさ。
囁きを否定しきれぬ理由が、今も股間の奥に点っていた。
咲美への恋慕以外を振り払わんと、彼女の唇に口づける。柔らかに受け止めてくれる唇の弾力、やがて染み出す唾液のぬめりと、吹きかかる鼻息の心地よさ。そのどれもがいつも通りに慕情をくすぐるがゆえに、なお一層の哀しみがこみ上げてくる。
「……ふ、ぅんん……」
咲美の方から舌を絡めてきた。いつにない出来事も、不安を掻き消したい一心の表れと思えば、なおのこと手放したくない想いが膨らむ。
(藪沼もこんな風に……)
咲美の舌に絡みつき、吸うのだろうか。振り払いきれなかった卑しき想像に憑かれながら、愛妻の舌を舐り、滴る唾を啜った。喉に流したその味わいはやはり愛しさを増長させ、名残惜しさが胸を衝く。
けれど、息が続かなくなったことで、長い長い接吻は終わりを告げ。離れた唇同士を、唾液の糸が繋ぐ。それも、すぐにぷつりと途切れてしまった。
咲美は夫の顔を仰ぎ、微笑んだ。夫が愛してやまぬ、優しい笑顔だった。
(こんな時くらいは、笑ってくれなくていいんだ。無理しなくて、いいんだよ)微笑んだばかりの彼女の頬に涙が伝う。それを見て、智の目からも涙がこぼれる。
夫婦は共に泣きながら、改めて長い、長いキスをした。
その後、ひと気のない廊下へ出て、夫と肩並べ歩く間も。エレベーターの扉が開き、一人乗りこむ際も。咲美は一言も発さず。
最後に振り返った妻にかける言葉が、智の内にも見当たらない。
(何か、言わなくちゃいけないのに)
おそらく夫婦互いに同じ想いに駆られながら、わずかばかりの静寂を過ごす。見つめ合う視線から汲み取れるものがないかと足掻く二人を嘲笑うかのように、無情にも扉は閉じてしまった。鉄の箱が、愛妻を間男のもとへと運んでゆく。
なすすべなく見送った智の胸中に、猛烈な不安が巡る。
それが禁忌の恍惚に繋がる可能性があると知っていても、溺れる気には、今はどうしてもなれなかった。
4
部屋に戻って一人静寂に耐えることなど、できそうにない。智はまずロビーを訪れ、備えつけのソファーに腰を下ろして、辺りを見回した。残念ながらロビーには従業員以外の姿がなく、喧騒によって気分を紛らわせることが叶わない。腕時計の示す時刻は、二十二時十分。咲美と別れて、まだ、たったの十分ほど。
(今頃、藪沼と咲美は一つ部屋の中で……ッッ)
想像しようとした瞬間、眩暈に見舞われた。
時間の経過が恐ろしく遅い。早く過ぎ去ってくれと願う一方で、今まさに藪沼の手に咲美が落ちんとしているのだと思うと、時よ戻れ、せめて止まれとも考えずにいられない。
そわついていると、周囲の少ない目すら気になった。居た堪れなくなって移動する。足が向いた先に、ラウンジバーがあった。
入店早々に強めの酒を注文し、一気に喉奥へと流しこむ。
カップル客。ファミリーっぽい客。会社の同僚同士と思われる客。周囲は皆楽しそうに飲んでいて、カラオケを歌う者もいる。
自分だけが、一人だった。
気を抜くとまた嫌な想像に襲われそうで、ひたすらに杯を傾ける。夕食にあまり手をつけていなかったこともあり、アルコールが覿面に効く。視界が眩み、店内の照明が回る。いつしかカウンターに突っ伏し、眠りの世界へといざなわれていった。
「お客さん……お客さんっ」
どのくらい眠っていたのか。意識を取り戻すと、白髪まじりのバーテンダーに肩を揺すられていた。
「申し訳ありません。もう閉店になるんですが」
あまり申し消さなそうにない顔で、老人は告げた。
腕時計の指し示す時刻は、午前一時をとうに過ぎている。
(……咲美ッッ!)
背に奔った悪寒によって、瞬時に意識が現実へと引き戻された。
寝過ごすことで長い煩悶を免れたという事実。その煩悶をこそ恋しがり再び疼き始めた股間の浅ましさ。
それらよりもずっと強く、咲美が戻ってきているのか。戻ってきているなら早く会いたい。約束の通りに身体を洗ってやらなければ、との想いが胸を衝く。
(早く、戻ってやらないと……っ)
精算を済ませ、廊下に出て、ふらつきつつも寝所への道を戻りゆく。
(咲美……咲美っ)
泣いてはいまいか。また、無理して笑っているのではないか。妻の胸中を思うほどに気ばかりが逸る。酔いもつれた足取りが呪わしい。
焦燥にせっつかれながら可能な限り駆けること、数分。ようやく覚えのある部屋にたどり着き、鍵を開ける。自分以外のスリッパがないのを視認してから部屋に入り、がらんとした和室を見回して、腰が砕けた。
襖の向こうに、部屋を出る前同様に綺麗なままの、並び敷かれた布団が見える。咲美が身を横たえた形跡は見当たらなかった。
(……っ、そう、だ。風呂……!)
希望を見出して再び立ち上がり、急ぎテラスに踏み入る。備えつけの小露天風呂、その脇の脱衣スペース。すぐ見渡せる広さのどこにも、期待した姿は見当たらない。
咲美は、まだ帰ってきていない。認めたくない結論が頭を掠める。
(別れてから三時間以上経ってるのに? まさか、まだ……!?)藪沼の部屋に、いるというのか。いや、違う。きっとどこかで涼んでいるのだ。
(まっすぐ帰るから身体を洗ってと、約束したのに? そもそも藪沼の手垢にまみれた身体で出歩くなんて、ありえない。あって堪るものか)酔いは完全に醒めていた。鞄から携帯を取り出し、取り乱したまま咲美の番号を呼び出す。震える指で、発信ボタンを押した。
二度、三度、四度と、繰り返される呼び出し音が疎ましい。
「どう、したんだよ。早く、出てくれよ……咲美っ」
足掻く男を嘲笑うように、留守電メッセージが流れだす。
咲美が電話に出ないことなど、今までただの一度もなかった。
(一体、何があった。どうして出てくれない。出られないのか? どうしてっ)一度電話を切り、着信履歴を覗く。咲美からかかってきた形跡は──ない。新着メールも、なかった。
もう一度電話をかける。呼び出し音が十回を超え、十五回を数える。
静寂が支配する室内に、繋がらない電話の嘆きだけが空しく響く。
二十回を超えたところで辛抱の限界を迎え、乱暴に電話を切った。
まだふらつきの残る足取りで、廊下に出る。震えっ放しの身を、深夜の冷たい空気に晒しながらエレベーターのもとへ駆けつけた。目的の階へのボタンを押す指が、嫌な汗にまみれて何度も滑り、手間取ってしまう。
(咲美……っ、どうか……どうか)
必死に願う自分がいる一方で、藪沼の部屋に入った時点で無事なはずがないではないか、と皮肉とも自虐ともつかぬ感情を抱く自分がいる。
藪沼の部屋の前にたどり着く前での数分間、胸内では絶えず己同士の言い争いが続けられた。
(着い、たっ……この扉の向こうに)
それだけに、目的地を視界に捉えた瞬間、事態にそぐわぬ安堵が胸に染む。すぐにそれを追い出してラストスパートをかけ、たどり着くなり扉をノックした。
一度目、二度目のノックにも応答はない。
「藪沼さんっ、咲美ッ」
さらに、呼びかけながら三度、続けて扉を叩く。それでも応答はない。
(いない、のか……?)
もう一度だけノックしてもやはり静まり返ったままだ。
(二人でどこかへ……? ありえない。そうだ、行き違いになった可能性だってあるじゃないか)息を整える間もなくエレベーターに取って返す。希望を抱く胸の灯に支えられ、震えの止まった指で一階へと向かうボタンを押した。
ロビーに顔を出すと、愛想のいい四十歳くらいのフロントマンが迎えてくれた。
「浅岡といいますが……」
細かい事情は伏せつつ、藪沼の部屋の番号を伝え、その部屋の主が外出していないか尋ねる。フロントマンの答えは、ノーだった。
「どうしてもすぐ伝えたいことがあるんですが……」
急を要する旨を言葉と態度で示すと、直接部屋に電話をかけてくれると言う。また二度、三度──静寂の中に呼び出し音のみが響く、拷問めいた時を過ごす羽目となり。
「……出ませんね。大浴場のほうはご確認されましたか?」
すがる思いでフロントマンの言葉に従い、大浴場の方へと足を運ぶ。けれどそこにも、藪沼の姿はない。通りかかった女性の係員に女湯も確認してもらったが、咲美らしき人物もいないと言われた。
フロントへ駆け戻り、もう一度藪沼の部屋に電話を入れてもらう。必死の形相で願い出る男を前に、さすがにフロントマンも心配の度合いを強めている。
「あ……! いらっしゃいましたか、こちらフロントでございます」
「い、いたんですかっ?」
通話中のフロントマンが頷いた。二人は部屋にいたのだ。
(じゃあ、さっきは……僕と行き違いで部屋に戻ったのか? でなければ……眠っていた……居留守を、使った?)後ろ二つの予測は、いやが上にも妄想を掻き立てる。
(くそっ! こんな時まで、僕は……!)
胸のあたりにどぎつい痛みが巡っているのに、腰の芯が熱を孕む。
「浅岡様がご心配されまして。あの、少々お待ちください」
事情など知る由もないフロントマンが、ほっとした表情で受話器を差し出した。取らぬわけにもゆかず、震える手で受話器を握る。
「もしもし……」
声にも滲む震えを、「あ、どーも」
藪沼の呑気な声の響きが打ち消した。それが余計に癇に障る。
「な、何度も電話したんですよっ」
「いやぁ、すみません。部屋の風呂に入ってたんで気づきませんで」
スワッピングの自慢話を聞かせたがっていた時と酷似した、白々しさとそわつきの感じられる口振り。
嫌な予感を孕まされ、身も心も竦む。されど、問わずにはいられない。フロントに背を向けて、ひそめた声できりだした。
「さ、咲美はっ?」
「それがですねぇ……」
妙な間が空く。
(なんだ。どうしたっていうんだ、早く答えろ! ……ッッ!?)藪沼が無言を貫く間。幾度か物音が聞こえた。それが余計に不安を煽る。
「ちょっと酔っ払っちゃって、気分悪くなったみたいで寝ちゃったんですよ」
受話器の向こうの男の声には、相も変わらぬ白々しさが漂う。
「もうこんな時間ですし、明日までこのまま寝かせてあげましょうよ。ねっ」
図々しくも言ってのけた言葉尻に、奴の期待と下心が透けて見えた。
「……っ、今から迎えに行きますからっ」
だめだ、苛立ちが隠しきれていない──フロントマンに不審がられていないか横目で確認。幸いにも別な業務に勤しむ彼らには、気にされてないようだ。
「ご主人、何を今さら焦ってらっしゃるんですか?」
直後に届いた藪沼の言葉に、胸が詰まった。
「元々この話はあなたから言い出したことじゃありませんか。第一、もう奥さんは私と情を通じたんですから。今さら、同じじゃないですか」
(……情を、通じた? ……咲美が、藪沼と。あれほど嫌ってた男と……)当たり前のごとく発せられた奴の台詞が、凍りたての心臓を深々抉る。
「……たっぷり、ジリジリしてください」
この状況を楽しみたかったんでしょう、と──下卑た笑みと共に奴が言う。
「いやあ、最高に可愛いですよ、奥さん。ごちそうさまでした」
まるで今日の飯の感想のごとく言ってのけた奴に対し、瞬間的に憤怒が突き抜け、遅れて、あの忘れじの味わい、腰の芯からもたらされるどす黒い情念が渦を巻く。
「まあ、もう少ししたら起こしてお返ししますので、ご安心ください。私、裸なんで失礼しますね」
「待っ……!」
返答を待つことなく、通話は一方的に打ち切られた。
──いいように藪沼にあしらわれて、何をのこのこ部屋に戻っているのだ。
──奴の言う通り、待つ間のジリジリ感を楽しむ気になったからだろう?
部屋に戻っても、自問自答が続く。ハンガーにかかっている、咲美のベージュのコートと薄水色のマフラーに自然と目が留まった。
──僕の妻が、咲美が、ついに藪沼と結ばれた。
(……まだ、藪沼が出まかせを言っている可能性だって……)──あれほど毎日妄想して、オナニーして、望んでいたことだろう?
(……ああ、そうだ。その通りだともっ。卑しい僕が望んだんだ、咲美をあの野郎に……なのに……っ)いざ現実のものとなったと告げられて以降、欠片も想像がなせなくなってしまっていた。咲美を巻きこんでおいて、この体たらくはなんだ。我が身の勝手さに、苛立ちを覚えずにいられない。
「くそっ……僕は、咲美を……ッッ!」
畳の上に拳を幾度も打ちつけた。ジンとした痛みはすぐさま苛立ちの糧と化す。悪循環から抜け出せぬまま、いてもたってもいられぬ気持ちだけが膨張してゆく。
改めて見た腕時計の示す時刻は──午前二時をとうに回っている。藪沼との通話から、かなりの時間が経過していた。
ジリジリと身を炙り立てる焦燥に耐えきれなくなって、再度、咲美の携帯電話番号を呼び出し、プッシュする。
二度、三度、四度──五度目のコールだった。
「……もし、もし……」
ようやく聞くことのできた愛妻の声は、心なしか掠れているように思える。
「咲美っ
!!
」
皆が寝静まっている時刻であるのも忘れて、声の限りに吠えた。返答は、ない。
「ど、どうしたんだ、僕だよっ。ひょっとして、気分が悪いのかっ?」
必死に呼びかけているのに、電話の向こうの妻はだんまりを決めこむ。彼女の表情が窺えないことに加えて、時折聞こえてくる衣擦れの音、水が掻き混ぜられるような音。諸々に心乱されるのと同時に、また──罪深き夫の腰の芯が疼きだす。
(咲美は、僕の妻は今、いったい何をしているんだ……!?)「……と、智……っ」
思わず股間に手を伸ばした矢先に、ようやく愛妻からの応答があった。やはり声は掠れ、震えてもいる。何かに怯えるような、ひそひそ声。違和感が強まる。
一秒たりとて無駄にできないと思った。
「む、迎えに行くよ、今から」
告げながら立ち上がり、部屋の入口へと向かう。急く拍動に押されてスリッパに足を通した直後。
「智っ……い……いいの……」
一層震えた声で夫の名を再度呼んでから、彼女は告げた。
「えっ? い、いいって、何が」
意味が理解できずに、問い質す。スリッパに通したまま前に踏み出せないでいる足が、焦れに焦れて地団太を踏む。
「う、んっ……も、もう少ししたら、も、戻う、はら……」
不自然にくぐもった響きとなった咲美の言葉尻に、不安が増大する。
「……も、戻る、から……」
言い直したそこにも、粘着質な──唾液が糸を引くような──響きが伴っていた。
「一体、どうしたんだよっ」
不安と恐怖に押し潰されそうになった挙句に、怒鳴り散らしてしまった。咲美は悪くないのに、最低だ──放ってすぐに自己嫌悪に苛まれる。
──その想像は絶対に当たってるよ。今も、咲美は藪沼と……。
胸内で囁かれるもう一人の自分の言葉。それに伴って、思い出せなくなっていたはずの禁忌の妄想が、せき止められていた分一気呵成にフラッシュバックした。
「だ、大丈夫……す、すぐ戻るから……」
言い訳を拵えながら、藪沼と肌を絡める妻の様が。
「……ッッ
!!
ぅぐ……っ
!!
」
思い浮かんだ瞬間から、酔いのせいではない眩暈が再来し、まっすぐ立っていられなくなる。とっさに壁に手をつくと同時に、狂おしくも愛しい熱が腰の奥に漲っているのを知覚した。
「ご、ごめんね……」
夫の気持ちを案じているがゆえだろう申し訳なさげな響きが、藪沼に哭かされているように聞こえてならず。罪深き夫の腰の芯がズグンと甘い呻きを発する。
「……咲美……っ」
僕の方こそごめん──謝ろうと発した声にも、腰の疼きと同調した震えがにじむ。
「ごめんね、ほ、本当に戻るから、部屋で待ってて……」
じゃあ──と、焦り気味の響きを最後に、通話は打ち切られた。
終始よそよそしかった、妻の態度。
(すぐに戻るから、僕に身体を洗ってくれって……約束、したじゃないか……)通話中膨れ続けた違和感は、もはや最悪の想像から逃れ得ぬほどに成育している。どす黒い嫉妬が盛るほど、いやらしき恍惚の鼓動が股間を打つ。
──こんなの、嘘……だ……。
──早く行こうぜ。行って、事実を確かめたなら、もっと、もっと切ない、極上の甘露が味わえるはずだ。ほら、なぁ……。
現実逃避と、卑しき誘惑。二つの間で熾烈な綱引きが続く。結果、脚はその場に縫い止められたまま。時計はすでに三時過ぎを示していた。まだ、咲美は戻ってこない。
──咲美を信じて、待つ。それが罪を犯した僕にできることじゃないのか?
──本当はもう、わかっているんだろう?
(本当は……? 僕は……僕……は……)
もがき、苦しみ抜いた末に導き出された結論は──。
ドン、ドンドン──訪れてすぐに藪沼の部屋のドアをノックした。なかなか応答がなく、また何度も叩く羽目になる。
「今、開けますから」
幾度目かのノックでようやく藪沼のダミ声が応答した。声は遠く、奴がドアに近づいてすらいないのが丸分かり。
そこからさらに十分以上。戸の前で立ち尽くすことを余儀なくされる。無論、焦れて幾度もノックを重ねた。
「開けてくださいっ」
次に藪沼から応答があったのが三時四十分頃。
「今身なり整えてますんで。もう少しだけ。ちゃんと出ますから」
それきり、何度叫んでも、もはや応答すら得られず。
ようやく扉が開いたのは午前四時を回り、いよいよ強硬手段に訴えるべきとの判断に至ろうとした矢先のことだった。
「咲美っ」
開け放たれる最中の戸に体当たりをかます勢いで室内へ押し入ると、こもった熱と饐えた匂いが鼻を衝く。目の前に、別れた時と同じ浴衣姿の咲美が、同じく浴衣一丁の藪沼につき添われて立っていた。
「咲美……」
もう一度、呼びかける。咲美は目を合わせたくないのか、俯いた顔を上げることなく、夫の横を通り過ぎて廊下に歩み出る。すれ違いざま、汗ばんだ彼女のうなじと鎖骨周りから、ムッとする女の体臭が漂った。
色濃い情交の痕跡に刺激を受けた妄執が、男根の脈動という形で発現する。他者に抱かれた妻を目の前にしながら──ただただ情けなく、恥ずかしく、夫の側から咲美を直視することもできない。声をかけてもやれなかった。
「いや、遅くなりましてすみませんね。奥さん、トイレ入ってまして」
白々しい藪沼に毒づく気力すら湧いてこなかった。ニタニタと緩みっ放しの奴の目尻と唇を、ただ苦々しい顔で睨むのが精々だ。
「それじゃ、アサオカちゃん、おやすみ」
咲美が藪沼を振り返らなかったことが唯一の救い。そう思い詰めた夫を待つこともなく、愛妻はエレベーターへと続く廊下を、時折ふらつきながら戻っていった。
──酔っ払って、寝ちゃって、気分悪くなって。
寝室に戻ってからも歯切れの悪い物言いに終始した咲美の表情は、明らかに優れぬ様子だった。疲れてるという彼女を引き留めるわけにもゆかずに、一人風呂に向かう背を見送ったのが、小半時間前。
今、愛妻はすでに床に就き、寝息を立てている。
疲弊ぶりの窺える寝顔を見ていると、二つの想いが智の胸を衝く。
──身体を洗う約束を忘れてしまうのも無理からぬこと。
──それほど、藪沼とのセックスが激しかった、ってことだ。
(やめろ! もう、考えたくない。もう……そんな妄想に、僕は……)拒んでも、嘆いても、血潮を滾らせる肉勃起に奔る恍惚の痺れは、打ち消せない。
隣に妻が眠っている中、自慰をする──そんな惨めを曝せるものかと、なけなしのプライドが訴える。
おかげでギリギリ思いとどまれはしたものの、一睡もできず。妻の身を案ずることもできぬうちに、長い長い夜が明けた。
「ぜひ、今度はスキーでもご一緒しましょう」
帰りの車中。ハンドルを切りながら、藪沼が晴れやかな声を出す。
心身共に疲弊し、虚脱感にも苛まれていた智は、一度も応答できず、ただ聞き流すことしかできなかった。
「あ。そうか、最近はスノボですよね、ご主人?」
早くも次が待ち遠しいと言わんばかりの性急さで、話をまとめにかかる藪沼。
「アサオカちゃんは、スノボやるんだっけ?」
咲美に話を振る奴の口調は昨日までと何ら変わらないのに、それがかえってわざとらしく聞こえた。
「い、いえ……もう何年もやってないです」
藪沼の問いに答える咲美の視線は、車窓に向いたままだ。
(この二人が昨日、情を通じた……本当、に……?)沈黙の中にも、二人の馴れ馴れしさを勘繰らずにはいられない。
(夫である僕が、朝から一度も咲美と目を合わせられないでいるのに)図々しさを如何なく発揮して咲美に話しかけ続ける藪沼への妬みが、より募る。
一見、咲美はいつも通りの、凛とした装いを保っている。
でも、どこか、何かが違った。決定的な何かが。
藪沼と別れて、自宅玄関をくぐってすぐ、咲美を押し倒す。突如の夫の行動に、彼女は文句ひとつ告げず、身を預けてくれた。
狂ったように肌をぶつけ、粘膜を摺りつけ合う。
嫉妬を糧に隆起した肉棒を突き入れるたび。咲美は「もっと」「昨夜のこと忘れるくらい激しくして」とせがんできた。その声に煽られるように、何度も、何時間もぶっ通しで交わった。
──そもそもこのため、互いに愛情を確かめ合うための「寝取らせ」であったのだ。
なのに、どれだけ咲美に放出しても、嫉妬心が潰えることはなく。とうとう勃たなくなるまで射精し続けた後には、ただ、空しさだけが残った。
5
翌日、藪沼から連絡を受け、会社帰りに渋々訪れた先で、袋を手渡された。
その硬い手触りと、「見つからないように設置したカメラ複数台をフル活用です。編集が大変でした」
ニタニタ笑いを堪えるのに必死な藪沼の発言で、中身は否応なく察せられた。
昨晩、藪沼の部屋で行われた狂宴が録画された、DVDだ。
これについては、咲美に家を出ていかれる以前に藪沼から提案され、了承している。だが咲美に出ていかれたことで諦めがつき、改めて却下の意思を伝えてもいた。
(それが、今頃になって……)
決して妄執からは逃れられぬと知らしめるかのように、手元にやってきた。
よっぽど突っ返そうと思ったが、確実に処分するなら受け取っておいたほうがいい。マスター記録の破棄も固く誓わせた。
「お好きになさればいいと思いますがね。でも……観て損しない出来栄えですよ」
シシシと笑う奴の、全部お見通しと言わんばかりの態度が酷く癪に障った。
帰宅後。風呂と夕食を済ませ、また嫉妬まみれの愛情確認、激しい情交に溺れた末。先に眠りに落ちた妻に背を向けて──寝間着であるスウェット姿で書斎にこもった智はいつまでも躊躇した。
右手には、藪沼から受け取ったDVDがケースから出された状態で収まっている。
もう二度と咲美を裏切りたくない、という切なる想い。
いくら咲美を抱いても潰えぬ嫉妬の根幹を、この目で確かめねばとの想い。
双方の綱引きに喘がされ、長い、長い煩悶の時を過ごす。
いつ咲美が目を覚まし、探しに来るやもしれぬ緊迫感にも急かされ続けた果てに。
(……僕は)
腰の奥底から噴き上げ続ける肉欲の求めに、負けた。
ノートパソコンを立ち上げ、震える手でDVDを挿入する。そうして間もなく映し出された光景に、瞬く間に惹きこまれていった。


