脚フェティシズム(あしフェティシズム、英: Leg fetishism)は、脚そのものに強く惹かれるフェティシズムである。略して脚フェチとも呼ばれる。男性が女性の脚に執着して性的興奮を覚える例が多いが、興奮する部位は人によって違う。腰から爪先までの脚と足の全体を見る人もいれば、股の下から踵までの脚だけ、膝小僧など一部だけ、踵から爪先までの足だけ、と分かれる。足部に特化した話は足フェティシズムの側に置く。同じ「脚フェチ」でも、ライン全体を見るのか、膝や脹脛の一点を見るのか、靴を脱いだ先の足を見るのかで、対象は別物になる。
脚線美から生脚、装身具との境界
脚を性的対象にする感覚は珍しいものではない。脚線美という言葉があり、ミニスカートが周期的に流行るのも、脚が十分に性的アピールになるからだ。広告とファッションが脚を売る一方で、脚フェチは同じ脚を、性交の代替になるほど独占的な対象にまで持っていく。一方で膝小僧や脹脛にだけ執着するような、より狭い意味のフェティシズムに近い例もある。パートナーの脚を愛撫し、舐め、接吻することを好む場合も多い。心理学の用語としてのフェティシズムは性的対象の歪曲を指すため、美しい脚を見ながらの自慰や、太股・脚への射精で足りてしまい、性交まで行かない倒錯、という定義の仕方もある。
変種として生脚フェティシズムがある。素肌の脚そのものを欲しがる視線で、ストッキングやタイツで隠した脚とは別の欲望として語られる。ハイヒール、ストッキング、スニーカーといった装身物そのものに特化した興奮は、靴フェティシズムなど別の分類に回す。ブーツフェティシズムやパンティストッキングフェティシズム、ラバーフェティシズムも、脚の周囲に寄る物恋として隣接する。TwitterやInstagramでは、自分の足・脚や撮影相手の足を出すアカウントもある。靴下、ハイソックス、紺ハイ、サイハイソックス、ニーソックス、ルーズソックス、タイツ、パンティストッキング、ガーター、ブーツ——脚の周辺に寄る物恋は多いが、脚フェチ本体は皮膚とラインの側にある。装身具は脚を枠に入れる道具であり、脚そのものを置き換えるとは限らない。
フロイトとクラフト=エビング
多くのフェティシズムと同様、この誘惑は心理学ではリビドーに結びつけて語られる。ジークムント・フロイトは、この型のフェティシズムが特に男性に多いという仮説を立てた。場合によっては排他的になり、脚がパートナーの生殖器を完全に置き換えてしまう、とまで言われる。脚を見て、脚を撫で、脚に射精して終わる——相手の性器が不要になるところまで行くのが、臨床語としての脚フェティシズムの極端である。リヒャルト・フォン・クラフト=エビングの『性的精神病理』(19世紀末)では、同性愛、フェラチオ、クンニリングス、啜尿症(飲尿)、糞尿愛好症、獣姦、サディズム、マゾヒズムなどと並ぶ性的逸脱として脚フェティシズムが挙げられている。当時の精神医学の分類表に載った、という意味であり、今日のBDSM実践のマニュアルではない。サディズムやマゾヒズムと同じ欄に並ぶのは、脚フェチが「少し脚が好き」という日常語より狭い、倒錯の名として記録されたからだ。
映画と文学に残る脚
ルイス・ブニュエルは1930年の『黄金時代』や1963年の『小間使の日記』で、女性の脚への幻惑をはっきり見せた。クエンティン・タランティーノの映画にも、脚フェティシズムの示唆がしばしば入る。カメラが顔より先に脚を拾う、靴とふくらはぎを長く置く——監督の視線そのものが脚フェチの資料になる。日本では谷崎潤一郎の『富美子の足』『瘋癲老人日記』『鍵』が、足と脚を性的対象として書く系譜の代表に挙げられる。松浦理英子の『親指Pの修行時代』『ナチュラル・ウーマン』、小川洋子の『妊娠カレンダー』『ホテル・アイリス』も、脚や足に寄る性的衝動を小説の側から残している。これに密接な関係のある性的衝動を現したレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』も含め、枚挙に暇がない。毛皮と鞭のマゾヒズム小説が脚の項目に並ぶのは、身体の一部を支配と崇拝の対象にする視線が共通するからである。纏足の歴史も、脚と足を変形して見る視線の延長にある。脚フェチは珍種の診断名というより、映像と小説が何度も撮り直してきた視線である。












